違和感を覚える現代アートの「社会活動化」について




文・M&C編集部

美術は、常に時代とともに変容してきた。西洋絵画は、宗教美術からやがて王侯貴族がパトロンとなり、市民社会の成立とともに個人の内面を描き出す方向へと展開した。

近代に入ると、印象派は光を追い、象徴派は夢と神秘へと向かった。

そして20世紀のアヴァンギャルドは、芸術そのものの制度と形式を問い直すことによって、新たな表現の地平を切り拓いた。

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近年、現代アート作品を展覧会で見るとき、違和感を覚えることがある。

政治性や社会性を主題とした作品が結構多い。

環境問題、人種差別、ジェンダー、移民、戦争――これらを直接的に取り上げる作品は、国際的なビエンナーレやアートフェアにおいて高い評価を受け、メディアの注目を集めている。

しかしながら、こうした潮流に対して、私たちはある種の違和感を覚える。

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その違和感とは、美術作品が「主張の媒体」として過度に機能しているのではないかという懸念である。

芸術とは本来、可視化できないもの、名づけ得ない感情や精神の振幅を象徴的かつ詩的に表す営みであった。

ところが今日のアートは、政治的な主張を訴える「プラカード」と化してはいないか。

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こうした現象の背景には、グローバル化したアート市場とキュレーター主導の展覧会構成がある。

特に1990年代以降、国際展では「社会におけるアートの役割」が強く意識されるようになり、アーティストには「社会的実践者」としての側面が求められるようになった。

それは一見、アートの公共性を高める試みに見えるが、裏を返せば、アートが時代が抱える「課題」への反応装置として消費されるリスクも孕んでいる。

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私たちは、政治や社会をテーマとするアートを否定しているのではない。

ゴヤの『1808年5月3日』や、ピカソの『ゲルニカ』を思い起こせば明らかなように、芸術は歴史的な暴力や不条理を前にして深い人間的表現を成し得る。

しかしそれは、政治的スローガンではなく、人間存在に根ざした内面からの叫びであった。

問題は、現代の社会派アートがしばしば「内面の強度」を欠いたまま、あるいは日本の伝統や歴史に対する思いが足らず、またはグローバルな風潮に合わせただけの表層的なメッセージの提示に終始しているのではないかと感じる点にある。

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なぜ、現代アートにおいて、こうした作品が生まれてしまったのか。

いくつもの要因があるだろうが、ひとつには、世界があまりに「情報化」されたことと無関係ではない。

スマートフォンを通じてあらゆる社会問題にリアルタイムでアクセスできる現代人にとって、アートにもわかりやすく、納得できる言葉に還元される作品が求められる。

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社会活動、政治活動のような作品は、ただのキャンペーンである。それは「アート」と呼べないだろうし、そうした「作品」を展覧会場に置いて、観覧者に「鑑賞」させるのは、人々の意識をミスリードしていくことにもつながりかねない。







Posted on 2025-08-07 | Category : アートに誘われて, コラム | | Comments Closed

全力疾走の夏 高校野球甲子園大会の魅力




文・M&C編集部

 真夏の炎天下、灼熱の甲子園球場。そこに集う球児たちの姿に、私たちは何を重ね、何を感じるのだろうか。

 高校野球の全国大会、いわゆる甲子園は、単なるスポーツイベントではない。そこには、日本人の感性や美意識、郷土への思い、そして何よりも”青春”という一度きりの時間への賛歌が凝縮されている。

 甲子園の魅力を7つの視点から掘り下げてみたい。

1. 一発勝負の緊張感が生む命懸けのドラマ

 甲子園大会は一発勝負のトーナメント方式。ここに、他のスポーツでは味わえない独特の緊張感がある。

 負ければ即敗退。たった一度のミスが、夢を打ち砕く。このルールが選手たちを極限まで追い込み、観客に手に汗握るドラマを提供する。

 延長戦、サヨナラヒット、土壇場での逆転劇。これらの瞬間には、選手たちの全てが込められている。プロ野球の長丁場では見られない、”今この瞬間”に賭ける強烈な集中力。そこには、スポーツの本質がある。

2. 青春の輝き 純粋さが生む感動

 高校野球が他のスポーツと決定的に異なるのは、プレーするのが未成年、しかも十代半ばの若者たちであることだ。

 プロのような報酬もなければ、先の保証もない。ただ、三年間の努力と友情と覚悟を抱えて、全力でボールを追う。

 その姿は、見ている者の心を素通りしない。どこか自分の若い頃を思い出させ、時に涙腺を刺激する。笑顔も、涙も、すべてが真っ直ぐで、混じりけがない。それが見る者の胸に焼きつく。

3. 郷土の誇りを背負って

 高校野球は47都道府県それぞれの代表校が出場する。これは単にスポーツの大会というより、郷土を代表する”国民的行事”のような意味合いを持つ。

 出場校が決まると、地元では祝賀ムードが高まり、横断幕が掲げられ、地元紙が特集を組む。

 甲子園での勝敗は、選手個人や学校の名誉にとどまらず、地域の誇りと結びついている。これはまさに、地元に生きる人々が選手に自分の夢を託している証であり、野球という枠を超えた大きな意味を帯びる。

4. 戦術の妙、采配の冴え

 高校野球では、技術やフィジカルの差を戦術で補う場面が多い。バント、スクイズ、エンドラン、小技を駆使しながら1点をもぎ取る。そのため、監督の采配が勝敗を大きく左右する。

 プロ野球では見られないような大胆な戦術が甲子園では次々と飛び出す。その一手に賭ける監督と選手の信頼関係も見どころのひとつである。まさに、一球一球にドラマが宿るのが甲子園なのだ。

5. 無名ヒーローたちの誕生

 甲子園の魅力のひとつに、「無名校の快進撃」や「伏兵の大活躍」がある。地方大会では目立たなかった選手が、全国の大舞台で一気にブレイクすることも珍しくない。

 そうした選手たちは、どこにでもいる普通の高校生だったりする。だからこそ、観客は彼らに自分を重ね、応援に熱が入る。

 スターを生み出すのではなく、誰もがスターになれる舞台。これこそが甲子園の神秘である。

6. 応援の一体感が生む熱狂

 甲子園名物といえば、アルプススタンドのブラスバンドによる応援だ。校歌、応援歌、チャンステーマ。大音量で繰り出されるリズムに乗って、選手たちは背中を押される。

 応援席に集う父母、生徒、OBたちの一体感はまさに圧巻。テレビの前でそれを見ているだけでも熱量が伝わってくる。応援もまた、勝利の原動力であり、選手と観客が一体となって物語を紡ぐ要素なのだ。

7. 100年を超える歴史と伝統

 1915年に始まった高校野球大会は、戦時中の中断を経ながらも100年以上の歴史を持つ。過去の名勝負、名選手たちは今でも語り継がれ、それぞれの時代にドラマを刻んできた。

 それぞれの出来事は、野球ファンでなくとも記憶の片隅に残っている。高校野球は、ただの試合ではなく、日本の夏の記憶そのものなのだ。

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 高校野球甲子園大会は、単なる勝敗を競う場ではない。人生の一瞬の輝きを捧げる若者たちの舞台であり、見る者すべてに何かを問いかける「感情の共振装置」ともいえる。

 だからこそ、今年もまた、私たちは甲子園の砂塵のなかに、日本人の心の原風景を見るのである。







Posted on 2025-08-06 | Category : コラム, スポーツを感じる | | Comments Closed

「ビートルズを壊した女」オノ・ヨーコ再評価の現在




文・M&C編集部

二〇世紀芸術において、オノ・ヨーコの存在はしばしば誤解と偏見の渦中に置かれてきた。その名が多くの人々の記憶に刻まれているのは、ビートルズの解散と結びつけられたスキャンダラスな文脈においてであり、芸術家としての真価が正当に評価されてきたとは言い難い。

しかし近年、その評価軸に変化の兆しが見えてきた。フェミニズム、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アート、東洋思想との接合といった多元的な文脈の中で、彼女の創作活動は新たな光を浴びている。

オノ・ヨーコ再評価の諸相を、若干ながら紐解いていきたい。

一、「不在の美学」としてのコンセプチュアリズム

オノ・ヨーコの美術作品を語るうえで、1960年代における彼女のコンセプチュアル・アートの展開は見逃せない。

彼女の代表作《グレープフルーツ》(1964)は、言語によって想像の中に芸術を成立させるという、視覚芸術における徹底した脱物質化を遂行した点で、ジョセフ・コスースやソル・ルウィットらの試みと並び立つ。

「雲を切ってみてください。切れるところまで切ってください。切った雲の下に寝てください」(《グレープフルーツ》より)

この文章に象徴されるように、オノの作品は可視的な完成物を提示するのではなく、観る者に行為や思考の余白を委ねる。

彼女のアートは「見るもの」ではなく「行うもの」であり、「物質」ではなく「経験」として成立する。

現代美術が観客の参加を重視する「関係性の美学」へと進展していく過程において、オノの先駆的な役割はようやく注目されつつある。

二、フェミニズムとの交差点

近年の再評価の最大の背景には、フェミニズム的視座の深化がある。特に《カット・ピース》(1964)に代表されるパフォーマンスは、観客が彼女の衣服を一片ずつ切り取っていくという構造において、女性の身体をめぐる権力構造と暴力性を先鋭的に提示した作品として、第二波フェミニズムの象徴ともいえる。

この作品は、当初「観客との信頼関係に基づいた芸術的試み」として理解されたが、1970年代以降のフェミニズム理論の発展とともに、「女性の身体がいかにして公的領域において消費されるか」という視点から再読されるようになった。とりわけ近年、#MeToo運動以降の文化的文脈においては、オノのこのパフォーマンスは「先行的なフェミニズムのアクション」として位置づけられ、世界各地の大学や美術館で再演されている。

三、非西洋からの眼差し

オノ・ヨーコが日本人女性であることの意味もまた、今あらためて問い直されている。白人男性中心の美術史において、非西洋圏出身の女性アーティストがどう位置づけられてきたかという問題が、美術史的再編の一環として検討される中で、オノの活動はポストコロニアルな視点からも重要な再評価対象となっている。

ニューヨークのアヴァンギャルドの只中にありながらも、オノの作品には東洋思想、とりわけ禅の精神や無常観といった要素が色濃く反映されている。彼女の一連の「指示芸術(Instruction Art)」には、「存在とはつねに不完全であり、移ろいゆくものである」という東洋的な感受性が宿っている。

これは、アメリカやヨーロッパにおいて自己の存在を異邦人として生きた経験と深く関係している。

四、ジョン・レノンと「愛の政治」

オノ・ヨーコという名は、長らく「ジョン・レノンの妻」として語られてきた。だが、その関係性自体がアートであり、政治であり、文化運動でもあったことは、再評価のうえで看過されるべきではない。

1970年代初頭に二人が展開した「ベッド・イン」や「WAR IS OVER(If You Want It)」といったプロジェクトは、戦争への抗議という意味にとどまらず、「愛」という感情を公共空間で発信する政治的実践でもあった。

オノの構想した「静かなる革命」は、ラディカルな怒りによるのではなく、想像力と詩性による対抗運動であった。そのアプローチは、今や過激なアートに対する「ケアの美学」や「サステナビリティ」といった理念とも通底し、Z世代の共感を得つつある。

五、美術館とアカデミズムの受容の変化

こうした再評価の流れは、美術館や大学といった制度的空間においても顕著である。2015年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)が、彼女の初期作品を包括的に紹介する大規模展覧会を開催し、2019年にはロンドンのテート・モダンがフェミニズム美術との関連性に焦点を当てた回顧展を行った。

日本国内でも、オノの作品は再び注目され、東京都現代美術館や森美術館などで再評価の文脈に基づいた展示が行われつつある。

さらに、アート・ヒストリーやカルチュラル・スタディーズにおいて、彼女の作品がテキストとして分析される機会が増えてきている点も特筆すべきである。

従来は批評の対象外とされてきた《Grapefruit》などの指示文芸術が、「言語と想像の接点」として理論的に読み解かれ、記号論や表象文化論のテキストとして注目されている。

「透明な声」を聴くために

オノ・ヨーコの芸術が今、静かに語り直されている。そこには物質を超えた精神性があり、怒号ではなく沈黙によって社会に問いを投げかける姿勢がある。彼女の表現は、声を持たぬ者の代弁ではなく、むしろ「声なきものたちの声を聴こうとする行為」そのものなのである。

かつて「ビートルズを壊した女」として語られていた彼女が、今や「声なき抵抗の芸術家」としてその像を変貌させつつあるのは、我々がようやく、その沈黙の向こうに潜む声を聴く準備ができたからに他ならない。







Posted on 2025-08-06 | Category : コラム, 音楽のこころ | | Comments Closed

自分という存在の手触りーー文学と芸術の根源的意義




文・M&C編集部

人はなぜ、物語を語り、絵を描き、音を奏でるのか。水や食糧や住処と違って、芸術は人を生かさない。にもかかわらず、いや、むしろだからこそ、文学や美術は人間の歴史において、途切れることなく存在してきた。

洞窟の壁に描かれた野牛の群れ、古代叙事詩に詠まれた神々の戦い、ルネサンスの聖母子像、現代の抽象絵画、あるいは能楽の謡、ポップミュージックの歌詞。

表現の形は時代とともに移ろうが、これらの背後にある「問い」は一つである。「人間とは何か」。

芸術を鑑賞することの意義は、感性を磨くことでも、社会の矛盾に気づくためでもない。それらは確かに大切な側面ではあるが、本質ではない。

真の意義は、私たちが生きるこの世界と、この不可思議な「私」という存在について、言葉にならぬ問いを持ち、対峙する営みにある。

たとえば、カフカの『変身』を読んだとき、我々は不条理の深淵に引き込まれる。朝目覚めると虫になっていた男の話は、荒唐無稽であると同時に、どこか心の奥に深く刺さる。

あれは何だったのか。家族との断絶か、自己喪失か、あるいは存在そのものの意味の崩壊か。明確な答えはない。だが、その「わからなさ」こそが、私たちを内なる思索へと導くのだ。

芸術作品とは、言葉で説明できる以上の何かを抱えた存在である。むしろ、言葉にならないものを言葉に近づけようとする果てしない試みとすら言えるだろう。

それゆえ、作品を前にする者は、常に問い返される。「あなたは、あなた自身の存在をどう捉えているのか」と。

近年、芸術は教育、福祉、地域活動など多様な領域と結びつき、「役に立つ芸術」が強調される傾向がある。それは歓迎すべき展開だ。

しかし、注意しなければならないのは、そうした「効能」にばかり目を向けると、芸術が本来持っている「不必要であることの必要性」が見失われる危険がある。

たとえば文学。「読書の効用」が語られるとき、それは語彙力の増強、論理的思考力の向上、教養を高めるといった実利的な側面に偏りがちだ。

だが、読書の本質は、意味や価値が容易には言語化できない領域ーーたとえば「死とは何か」「幸福とは何か」「赦すとは何か」といった、人生の根底を揺さぶる問いにある。

こうした問いは、日常の中では避けがちである。忙しさや快適さのなかで、私たちはつい耳を塞いでしまう。

だが、文学や芸術は私たちを容赦なくそられの問いに引き戻す。カラヴァッジョの陰影が、芥川龍之介の一文が、不意に心の奥底に「何か」を残して去っていく。

それは、慰めや答えではない。むしろ不安やざわめき、違和感かもしれない。だが、それらの感情こそが、人間であることの証ではないだろうか。







Posted on 2025-08-06 | Category : アートに誘われて, コラム, 文学の談話室, 生きる指針 | | Comments Closed

文学を読むということ──その行為の深奥と意義




文・M&C編集部

いま、私たちは目まぐるしく情報が飛び交う時代に生きている。SNSのタイムラインを数分見渡せば、世界の動向、他者の私生活、企業の宣伝、果ては名もなき人々の怒りや歓喜までが、怒濤のように押し寄せる。

そんな時代にあって、「文学を読む」という行為は、どこか遠いところの行為に思えるかもしれない。だが、果たして本当にそうなのだろうか。

いやむしろ、この混迷と情報過多の時代だからこそ、文学作品を読むことの意義は一層大きなものとなっているのではないか。

文学は、単なる物語の供給装置ではない。もちろん、物語としての娯楽性やカタルシスは文学の大切な要素の一つだ。だがそれは文学の表層に過ぎず、その奥にはもっと深い、精神の対話と再構築の場が広がっている。

読書とは、言語という枠組みを通じて、他者の思考と感情の流れに自らを浸す行為である。つまり、「読む」とは一つの擬似的な生を生きること、他者の視点を自分の中に一時的に宿すことであり、それが可能なのは、実は文学という形式ならではなのである。

たとえば、夏目漱石の『こころ』を読むとき、私たちは明治という時代の終焉と、個人の内面が自我という名で自覚されはじめた頃の不安と痛みを体験する。

太宰治の『人間失格』に触れたとき、そこに描かれるのは単なる破滅ではない。社会からの疎外、自己の欺瞞、そしてそれでもなお生きようとする一筋の願いであり、読者はその“どうしようもなさ”の中に、奇妙な安らぎと親密さを感じ取ることすらある。

文学は、そうした「自分ではない誰か」の声を、自分の中に響かせることで、読者の内部に新たな視野や感受性を呼び起こす。

また、文学は歴史や政治、社会構造に対する一つの批評装置でもある。

カフカの『変身』を読むとき、そこには個人が社会制度や家族から疎外されていくプロセスが寓意として込められている。村上春樹の作品群を通しては、現代日本社会における喪失感や孤独、記憶のねじれといった主題が繰り返し現れる。

文学は、社会の深層に流れる空気や感情の潮流をすくいあげ、時に明示的に、時に寓意として私たちに投げ返してくる。読むとは、そうしたメッセージを受け取り、自らの内なる現実と照らし合わせる知的営みでもあるのだ。

さらに、文学は「言葉」への感性を育む。人間は言葉によって思考する。ならば、言葉の豊かさや精緻さは、そのまま思考の深さや幅に直結する。

優れた文学作品は、読者に繰り返し問いを投げかける。それは読解という知的作業であると同時に、自らの思考様式を相対化し、他者との差異を認識するための訓練でもある。

多様な言葉と表現に触れることで、私たちは「考える」ことの多様性を学び、それが対人関係や社会生活における他者理解や寛容にもつながってゆく。

この点において、文学作品はしばしば「役に立たない」と誤解される。たしかに文学は、即効的な知識や技術を提供するものではない。

だがそれは、たとえば音楽や絵画が「役に立たない」と言われるのと同じ誤謬である。文学の効能は、時間をかけて心の深い層に染み渡るものなのだ。

そこでは、共感の力が育ち、違和感への感度が研ぎ澄まされ、「生きるとは何か」という根源的な問いが、静かに、しかし確かに読者の内側に芽吹く。

現代において、SNS上の言葉が刹那的で消費されてゆくものであるならば、文学の言葉は反対に、時間の中にとどまり続けるものだ。

たとえば、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、今なお日本人の精神に沁みとおる一篇であり、〈サウイフモノニ/ワタシハナリタイ〉という結語は、繰り返し引用されてきた。

こうした「引用される力」、すなわち文脈を越えて人々に訴えかける力こそ、文学の持つ時間的強度と言えるだろう。

そして最後に、文学は読者に「自分を読む」ことを促す。

優れた小説や詩は、しばしば鏡のように働く。主人公の苦悩に自分を重ね、詩のひと行にかつての記憶が蘇る。

読むとは、他者を通じて自己へと回帰する旅なのだ。

文学は、人生の処方箋ではない。だが、人生を照らす一つの灯火ではある。

私たちが時に心を失いそうになるこの時代において、文学作品を読むという営みは、他者と世界と自己を繋ぎ直すための、極めて静かだが強靭な営為である。







Posted on 2025-08-05 | Category : コラム, 文学の談話室 | | Comments Closed

錯綜する哀愁と構築美──ゾンビーズの音楽的特異性と60年代英国ロックへの貢献

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文・M&C編集部

1960年代の英国ロック・シーンは、いわば音楽的革命の坩堝であった。ビートルズに端を発するブリティッシュ・インヴェイジョンは、アメリカ市場においても確固たる地位を築き、ローリング・ストーンズやザ・フーが続き、キンクスが英国風の市井の抒情を奏でるなか、その渦中にありながらも、ひときわ異彩を放っていたのがゾンビーズ(The Zombies)である。

彼らの音楽はしばしば「バロック・ポップ」と呼ばれ、同時代の多くのバンドがブルースやR&Bに傾倒する中、クラシック音楽やジャズ、そして文学的な感性を基盤にした緻密な音楽構造を持っていた。

ゾンビーズの楽曲、サウンド、レコーディング、そして文化的影響について論じる。

I. ゾンビーズの音楽的特徴──旋律と調性の迷宮

ゾンビーズの音楽的魅力は、一言でいえば「メランコリックな叙情と構造的洗練の共存」である。彼らの最大のヒット曲「She’s Not There」(1964年)は、印象的なエレクトリック・ピアノ(ホーナー・ピアネット)の導入部と、ロッド・アージェントのジャジーなコード進行、そしてコリン・ブランストーンの透き通るようなヴォーカルが特徴的だ。

ブルース進行や単純な三和音で構成された曲が多かった当時にあって、この曲の旋律の流れとハーモニーの転調の巧妙さは、際立っていた。

特筆すべきは、彼らの楽曲がしばしばマイナーキーを基調としており、哀感と抒情を湛えていた点である。「Tell Her No」(1965年)における反復的なメロディラインとストップ&ゴーのリズム処理、また「I Love You」(のちにPeople!のカバーで全米ヒット)に見られる陰影に富んだコード進行など、彼らの音楽は常に「ポップスの内的深化」を目指していた。

II. レコーディングの緻密さと先鋭性──『Odessey and Oracle』の革新

ゾンビーズの到達点とも言えるアルバムが、1968年に発表された『Odessey and Oracle』である。このアルバムは、当時解散を決めていた彼らが、最後の作品としてセルフ・プロデュースでアビー・ロード・スタジオを使用して録音したものだ。

使用されたテープは4トラックであり、ビートルズの『Sgt. Pepper’s〜』と同時期の技術的制約下にあったが、むしろその限界が彼らの創造性を刺激した。

ロッド・アージェントとクリス・ホワイトのソングライティングは、どの曲も室内楽的な配慮に満ちており、「Care of Cell 44」のジャングリーなピアノのリフ、「This Will Be Our Year」の希望に満ちたホーン・アレンジ、「Brief Candles」の三者三様のヴォーカル・パートによるコントラスト、そして最終曲「Time of the Season」におけるファンキーなベースラインとパーカッシヴなブレス入りのヴォーカルなど、録音芸術としての完成度は極めて高い。

とりわけ「Time of the Season」(1968年)は、後追いでアメリカにて大ヒットした。問いかけと応答を繰り返すセクシャルな歌詞と、それを支える乾いたスネアドラムとエレクトリック・ピアノのリフは、サイケデリック後期の空気を濃厚に孕んでおり、ビートルズの「Come Together」やドアーズの「Riders on the Storm」に通じるような密室性と開放感の二律背反を実現している。

III. サウンドの特異性──ピアノと声、そして空気感

ゾンビーズの音の核は、ロッド・アージェントの鍵盤サウンドと、コリン・ブランストーンのヴォーカルにある。アージェントの演奏は、当時としては珍しくクラシック教育を受けた背景が色濃く表れ、単なるコード伴奏に留まらず、旋律と対位法的な動きを構成する要素としてピアノが機能していた。

また、メロトロンの使用も特筆に値する。『Odessey and Oracle』においては「Hung Up on a Dream」などで効果的に使用され、幻想的な音響空間を創出している。

一方、コリン・ブランストーンのヴォーカルは、同時代のミック・ジャガーやロジャー・ダルトリーのような攻撃的な個性とは対極にある。彼の声は透明感がありながらも、内省的で、どこか儚い。

これは、60年代後半から70年代にかけて続く英国的叙情性──ニック・ドレイクやスコット・ウォーカーへと連なる流れの萌芽とも言えよう。

IV. 文化的影響──「時代に選ばれなかった」バンドの逆説的成功

ゾンビーズは、時代の先端を走ったバンドではなかった。実際、『Odessey and Oracle』はリリース当初まったく売れず、彼らはすでに解散していた。だが、1970年代以降、そのアルバムはミュージシャンや批評家の間で「失われた名盤」として再評価される。

エルヴィス・コステロ、XTC、フレイミング・リップス、さらにはビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンまでもがこのアルバムを絶賛し、その影響を公言している。

特に「バロック・ポップ」「サイケデリック・フォーク」「チェンバー・ポップ」といったジャンルの系譜において、ゾンビーズの音楽は不可欠な参照項となっている。ベル・アンド・セバスチャンやオブ・モントリオールなど90年代以降のインディ・ポップにも、その影響は色濃い。

また、近年では『Odessey and Oracle』の再現ライブが行われ、解散から数十年を経てようやく、彼らの音楽が時代と接続されるようになった。

V. 結語──静謐な美の系譜としてのゾンビーズ

ゾンビーズは、60年代英国ロックの喧騒の中で静かに花開き、誰にも気づかれぬまま散った一輪の花であった。だが、その花はのちの時代に種子を落とし、異なる土壌で静かに芽吹いている。

彼らの音楽には、ロックがうるさく叫ばずとも、静謐にして強靭な美を提示できることを示した力がある。

彼らの音楽を聴くとき、われわれは音の背後にある沈黙に耳を澄ますことになる。それは、単なるノスタルジアではない。60年代という時代に対する、静かな問いかけであり、音楽とは何かという根源的な命題への、ひとつの答えなのである。

Posted on 2025-08-05 | Category : コラム, 音楽のこころ | | Comments Closed

ロックの終点であり出発点──ビートルズ「Tomorrow Never Knows」の衝撃




文・M&C編集部

1966年、ロックはある種の臨界点を迎えた。

ビートルズのアルバム『Revolver』のラストを飾る「Tomorrow Never Knows」は、単なるアルバムの中の曲という枠を超え、音楽そのものの可能性を根底から揺るがした。

たった3分のあいだに、東洋思想・サイケデリック体験・電子音楽・即興性のすべてが凝縮されている。その音は、言ってみれば「未来」ではなく、「別の次元」からやってきたものだ。

◆ 歌詞:チベットの死者がささやくロック

ジョン・レノンがこの曲に託したのは、愛でも革命でもない。彼の興味はすでに精神世界へと移行していた。

ティモシー・リアリーらが編纂した『The Psychedelic Experience』は、LSD体験の導入書にして、チベット仏教的「死と再生」のマニュアルだ。

その一節が、「Turn off your mind, relax and float downstream(心を閉じ、くつろいで流れに身を任せよ)」という、今やあまりに有名な歌い出しとなる。

このフレーズを皮切りに、歌詞は輪廻や無我、精神的覚醒といった内容を、反復と否定形で覆っていく。

レノンは、エゴの死と魂の浮上を音楽で描こうとした。これは「ラブソングの終焉」であり、ロックにおける「精神性の始まり」である。

◆ 曲構造:Cコードの永遠、あるいは曼荼羅

曲構造としての「Tomorrow Never Knows」は、常識的な意味での「楽曲」ではない。

キーはCで、コードは基本的にはCのまま変化しない。むしろ「進まないこと」が前提となっているようだ。西洋音楽が築いてきた「調性と展開の美学」への、意識的な裏切りでもある。

インド音楽におけるドローンやチャンティングの手法を、レノンは歌に取り入れた。旋律は単調だが、そのぶん聴き手は音のうねりや感覚の変容に注意を向けざるを得ない。

これはもう、音楽というよりマントラに近い。ミュージシャンというより現代の導師(グル)を目指していたとすら言える。

◆ サウンド:テープ・ループが開いた音の宇宙

「Tomorrow Never Knows」を語るうえで、最も革新的だったのが音響処理である。

ポール・マッカートニーはレコーディングにあたって、数種類のテープ・ループを持ち込んだ。逆回転ギター、サックスの悲鳴、鳥のような電子音──それらがリアルタイムでミキシングされ、サウンドそのものが即興のコラージュとなっていく。

ジョンのボーカルはレスリースピーカーに通され、オルガンのような異世界の声に変貌。ドラムは極端な圧縮でトライバルな地鳴りに化け、曲全体が「幻聴的な音場」を形成している。

このサウンドは、後のエレクトロニカ、ダブ、ヒップホップ、アンビエント──あらゆる電子音楽の源泉となる。それほどまでに、この曲はロックの外側に立っている。

◆ レコーディング:4トラック録音の限界突破

録音は1966年4月6日。

エンジニアのジェフ・エメリックの独創的なマイク処理が功を奏する。

たとえばジョンの「宙に浮かぶ声」。これは、ヴォーカル・マイクを直接レスリースピーカーに繋ぎ、回転するスピーカーの揺らぎやうねりをそのまま録音するという、当時前例のない手法だった。

さらに、ポールが持ち込んだテープ・ループを複数の再生機で同時に流し、手動でミックス卓にフェードインさせるという、実質的に「DJ的ライブ・ミキシング」を行った。

これはすでに「演奏」ではなく「演出」であり、音楽制作がアートになった瞬間だ。

◆ この曲がなければ現代音楽は存在しなかった

「Tomorrow Never Knows」は、ロックの終着点として誕生し、気づけば未来の出発点となっていた。

ブライアン・イーノはこの曲の進化系をアンビエントとして定式化し、トリップ・ホップやテクノ、シューゲイザー、ドローンといったサウンドは、すべてこの曲の子孫と言ってよい。

ピンク・フロイドの『Echoes』、レディオヘッドの『Everything in Its Right Place』、あるいはアンダーワールドやボーズ・オブ・カナダの深層音響──それらは皆、「Tomorrow Never Knows」の背後にある扉の向こう側を旅しているのだ。

◆ 「明日など知るものか」

「Tomorrow Never Knows(明日なんて誰にも分からない)」という言葉ほど、この曲を言い表すものはない。

ジョン・レノンの精神世界への扉が開き、ビートルズがポップソングの枠を踏み越えたその瞬間に、音楽の未来そのものが不可逆的に変わってしまったのである。

この曲を初めて聴く人は、戸惑うかもしれない。だが二度目に聴いたとき、きっとこう思うだろう。

「これは1966年の音楽ではない。まだ誰もたどり着いていない場所から来た音楽だ」と。




Posted on 2025-08-04 | Category : コラム, 音楽のこころ | | Comments Closed

漫画(マンガ)研究の学問的論点を具体例とともに




漫画(マンガ)は現在、学問の世界でも活発に研究の対象となっている。

研究分野は多岐にわたり、文学、メディア論、ジェンダー論、社会学、美術史、文化研究などと密接に関わる。

以下、主な学問的論点を具体例とともに紹介する。

① ナラティブ(物語)構造の分析

■論点:漫画独自の時間・空間の表現方法、コマ割り、視線誘導などが、どのように物語を構築しているか。

■具体例:手塚治虫『火の鳥』シリーズは、コマ割りを通して時間の流れや哲学的主題を表現し、文学的・視覚的にも高度な作品とされている。

→ 「視覚的文法(visual grammar)」としての漫画表現が分析対象となっている。

② ジェンダーと表現の研究

■論点:漫画における性別・セクシュアリティの表現は、現代のジェンダー論と深く結びつく。

■具体例:『ベルサイユのばら』(池田理代子)は、1970年代に少女漫画で「男装の麗人」オスカルを描き、フェミニズム的文脈で再評価されている。

また、BL(ボーイズラブ)漫画は異性愛中心の社会に対する一種のカウンター文化としても研究される。

③ 戦争・記憶・歴史との関係

■論点:漫画は国家や社会の記憶・歴史を語るメディアでもあり、ナショナル・アイデンティティの形成にも関与している。

■具体例:水木しげる『昭和史』や『総員玉砕せよ!』などは、戦争体験と語りの伝承において重要な資料とされ、歴史学や記憶研究で参照される。

④ グローバル化と文化輸出

■論点:日本の漫画が世界中に広がる中で、翻訳・受容・文化的誤読などがどのように起こるのか。

■具体例:『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』は、海外での人気を通じて日本文化のソフトパワーの一端を担っており、国際文化論の中で分析されている。

⑤ メディア産業と読者文化

■論点:漫画はメディア産業の一部であり、出版形態、読者とのインタラクション、ファン活動との関係性も研究対象。

■具体例:『ジャンプ』など週刊誌文化は、「読者アンケートによる人気競争」や「連載打ち切り制度」といった商品化と作家の創作活動の緊張関係が論じられる。

また、二次創作文化(同人誌など)も社会学的に研究されている。

⑥ 日本文化とアイデンティティ

■論点:「日本らしさ」や「伝統と現代性の融合」がどのように漫画を通じて表現されているか。

■具体例:『夏目友人帳』や『もののけ姫』などは、妖怪や自然観を通じて日本の文化的無意識を表現しているとされ、文化人類学的な視点で注目される。

(M&C編集部 2025/8/4)




Posted on 2025-08-04 | Category : コラム, マンガの現在 | | Comments Closed

原因を追求せず、善後を考える。




わたくしはこれまでの人生で、問題が起きたときに、「原因を追求するのではなく、善後策(=今後どうするか、どんな手が打てるか)を考える」という姿勢で対処することで、良い結果につながったと考えています。

なぜこの姿勢がよい結果を生みやすいのか、試しに説明してみました。

1.「原因追及」は過去を見る、「善後策」は未来を向いている

原因を探ることは過去の出来事を分析することですが、善後策を考えることは「これからどう動くか」に意識を向けることです。

つまり、原因にとらわれすぎると「なぜこんなことになったのか」と足が止まりがちになる一方で、善後策に意識を向けると、次の一手が打てるので、問題を建設的に解決できるのです。

2.「原因追及」だけだと、責任探しになりがち

誰のせいか、どこが悪かったかに意識が向くと、チーム内でもぎくしゃくしやすくなります。

一方で、善後策を考える姿勢は「今の状況を前提に、どうすればうまくいくか」を話し合う姿勢なので、周囲との信頼関係や協力関係も築きやすくなります。

3.現実的でスピード感がある

ビジネスや人生の現場では、原因を突き詰めるよりも「すぐに手を打つ」ことのほうが重要な場面が多くあります。

たとえばトラブルが起きたとき、原因究明に時間をかけすぎると、被害が広がることもあります。善後策を先に考えることで、対応のスピードが上がり、結果的に信頼や成果につながるのです。

4.学びは「行動の中」で深まる

「原因→理解→改善」よりも、「行動→結果→調整」のループの方が、試行錯誤の中で実感として学べるという側面もあります。

これはPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act)にも通じます。行動する中で原因も見えてくるため、後からでも理解は深まるのです。

もちろん「原因を全く見ない」のではない

原因追及が必要な場面もあります。ただ、それに固執しすぎず、柔軟に前を向く力こそが、物事を動かす原動力になる、ということです。

例えるなら

「車が故障したとき、まずは『どうやって動かすか』を考える人は、すぐに応急処置ができます。

『なぜ壊れたか』だけを考える人は、そこで止まってしまうことが多い」のと同じです。

みなさまのご参考になりましたら幸いです。

(M&C編集部 蓬田修一)




Posted on 2025-08-04 | Category : コラム, 生きる指針 | | Comments Closed

絵画における時間の再構成 ――クロード・モネのシリーズ作品と時間芸術の接点からの考察

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はじめに

19世紀末、クロード・モネ(Claude Monet, 1840~1926)は「積みわら」や「ルーアン大聖堂」など、同一のモチーフを異なる時間帯・天候・季節のもとに連作として描く「シリーズ作品」に取り組んだ。その表現は従来の風景画とは一線を画し、視覚的な印象の変化を重層的に記録しようとする試みである。

本稿は、これらのシリーズ作品に内在する「時間の流れの表現」という問題意識に着目し、それを絵画という静的媒体における「時間の視覚化」の試みと捉える。そしてその表現を、音楽や映画といった「時間芸術」の方法論と比較・接続しながら検討することを目的とする。

モネのシリーズ絵画と時間の可視化

モネの《積みわら》シリーズ(1890~91)は、ジヴェルニー近郊の田園風景を舞台に、積み上げられた干し草の塊を朝霧の中、夕暮れ時、日没直後など、様々な時間帯のもとで描き分けている。画面構成はほぼ同一でありながら、光の角度、色彩、陰影が変化することで、時間の経過を感じさせる構造となっている。

さらに《ルーアン大聖堂》シリーズ(1892~94)では、建造物という不動の対象に対して、陽光や大気の変化が織り成す微細な印象を連続的に捉えており、「見えるものは絶えず変化している」という視覚的現象の可視化に挑戦している。

これらの作品に共通するのは、「瞬間を固定する」従来の絵画的枠組みから逸脱し、「複数の瞬間を並置することによって時間の流れを提示する」という新たな時間表現の実践である。

モネはカンヴァスに直接「時間」を描いたわけではない。しかし、複数枚の絵を並置・連作とする構成によって、静的な絵画空間に「経過する時間」を導入することに成功している。

映画的時間との接続

モネのこうした時間表現は、20世紀に登場する映画芸術と比較されるべき契機を内包している。映画とはもともと「静止画の連続再生による運動の錯覚」であり、瞬間の連続によって時間の流れを表現するメディアである。モネのシリーズ絵画もまた、「個別の静止画=瞬間の印象」が「連続的な視覚体験=時間の感覚」へと転化する構造を持っている。

実際、近年の美術史研究においてはモネの作品を「映画的」と評する論者も現れ、たとえば映画理論家ジル・ドゥルーズの『シネマ』における「時間イメージ(image-temps)」の概念を用いてモネを再解釈する動きも見られる。

そこでは、モネの絵画が「現在の瞬間に固定された視点ではなく、時間が解き放たれ、流動化した視点の創出である」とされている(Deleuze, Cinema 2: The Time-Image, 1985)。

音楽との類縁性:主題変奏としてのシリーズ

また、モネのシリーズ作品は音楽、とりわけクラシック音楽における「主題変奏」の形式とも深く呼応している。たとえば、ベートーヴェンやラヴェルが一つの主題を異なる調性やリズムで変奏していくように、モネもまた、一つの構図(主題)をさまざまな色調・筆致・光の効果(変奏)で再構成する。

とりわけ注目すべきは、ラヴェルの《鏡》や《夜のガスパール》のような印象主義音楽との比較である。両者において、「連続性」「揺らぎ」「余韻」「未完性」が重要な美学的特徴をなしており、時間を直線的にではなく、重なりや循環の中で捉える感覚が共通している。こうした音楽的アプローチは、絵画が時間を取り込む際のひとつのモデルともなりうる。

結論

クロード・モネのシリーズ作品は、絵画における「時間」の視覚的表現をめぐる一つの画期的な実験であった。その試みは、連作という形式を通じて、見る者に時間の推移を想像させる「知覚の運動性」を喚起し、静的な絵画を動的な経験へと変容させている。

映画や音楽といった時間芸術と比較することで、モネの作品がいかに「見るという行為の時間性」に迫ろうとしていたかがより明確になる。

絵画を「空間の芸術」とする従来の枠を越えて、視覚芸術が「時間」をどう扱いうるか――モネの絵画は、現代における芸術表現のメディア論的思考に対して、いまなお豊かな問いを投げかけている。

(M&C編集部)

Posted on 2025-08-04 | Category : アートに誘われて, コラム | | Comments Closed