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「ビートルズを壊した女」オノ・ヨーコ再評価の現在





文・M&C編集部

二〇世紀芸術において、オノ・ヨーコの存在はしばしば誤解と偏見の渦中に置かれてきた。その名が多くの人々の記憶に刻まれているのは、ビートルズの解散と結びつけられたスキャンダラスな文脈においてであり、芸術家としての真価が正当に評価されてきたとは言い難い。

しかし近年、その評価軸に変化の兆しが見えてきた。フェミニズム、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アート、東洋思想との接合といった多元的な文脈の中で、彼女の創作活動は新たな光を浴びている。

オノ・ヨーコ再評価の諸相を、若干ながら紐解いていきたい。

一、「不在の美学」としてのコンセプチュアリズム

オノ・ヨーコの美術作品を語るうえで、1960年代における彼女のコンセプチュアル・アートの展開は見逃せない。

彼女の代表作《グレープフルーツ》(1964)は、言語によって想像の中に芸術を成立させるという、視覚芸術における徹底した脱物質化を遂行した点で、ジョセフ・コスースやソル・ルウィットらの試みと並び立つ。

「雲を切ってみてください。切れるところまで切ってください。切った雲の下に寝てください」(《グレープフルーツ》より)

この文章に象徴されるように、オノの作品は可視的な完成物を提示するのではなく、観る者に行為や思考の余白を委ねる。

彼女のアートは「見るもの」ではなく「行うもの」であり、「物質」ではなく「経験」として成立する。

現代美術が観客の参加を重視する「関係性の美学」へと進展していく過程において、オノの先駆的な役割はようやく注目されつつある。

二、フェミニズムとの交差点

近年の再評価の最大の背景には、フェミニズム的視座の深化がある。特に《カット・ピース》(1964)に代表されるパフォーマンスは、観客が彼女の衣服を一片ずつ切り取っていくという構造において、女性の身体をめぐる権力構造と暴力性を先鋭的に提示した作品として、第二波フェミニズムの象徴ともいえる。

この作品は、当初「観客との信頼関係に基づいた芸術的試み」として理解されたが、1970年代以降のフェミニズム理論の発展とともに、「女性の身体がいかにして公的領域において消費されるか」という視点から再読されるようになった。とりわけ近年、#MeToo運動以降の文化的文脈においては、オノのこのパフォーマンスは「先行的なフェミニズムのアクション」として位置づけられ、世界各地の大学や美術館で再演されている。

三、非西洋からの眼差し

オノ・ヨーコが日本人女性であることの意味もまた、今あらためて問い直されている。白人男性中心の美術史において、非西洋圏出身の女性アーティストがどう位置づけられてきたかという問題が、美術史的再編の一環として検討される中で、オノの活動はポストコロニアルな視点からも重要な再評価対象となっている。

ニューヨークのアヴァンギャルドの只中にありながらも、オノの作品には東洋思想、とりわけ禅の精神や無常観といった要素が色濃く反映されている。彼女の一連の「指示芸術(Instruction Art)」には、「存在とはつねに不完全であり、移ろいゆくものである」という東洋的な感受性が宿っている。

これは、アメリカやヨーロッパにおいて自己の存在を異邦人として生きた経験と深く関係している。

四、ジョン・レノンと「愛の政治」

オノ・ヨーコという名は、長らく「ジョン・レノンの妻」として語られてきた。だが、その関係性自体がアートであり、政治であり、文化運動でもあったことは、再評価のうえで看過されるべきではない。

1970年代初頭に二人が展開した「ベッド・イン」や「WAR IS OVER(If You Want It)」といったプロジェクトは、戦争への抗議という意味にとどまらず、「愛」という感情を公共空間で発信する政治的実践でもあった。

オノの構想した「静かなる革命」は、ラディカルな怒りによるのではなく、想像力と詩性による対抗運動であった。そのアプローチは、今や過激なアートに対する「ケアの美学」や「サステナビリティ」といった理念とも通底し、Z世代の共感を得つつある。

五、美術館とアカデミズムの受容の変化

こうした再評価の流れは、美術館や大学といった制度的空間においても顕著である。2015年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)が、彼女の初期作品を包括的に紹介する大規模展覧会を開催し、2019年にはロンドンのテート・モダンがフェミニズム美術との関連性に焦点を当てた回顧展を行った。

日本国内でも、オノの作品は再び注目され、東京都現代美術館や森美術館などで再評価の文脈に基づいた展示が行われつつある。

さらに、アート・ヒストリーやカルチュラル・スタディーズにおいて、彼女の作品がテキストとして分析される機会が増えてきている点も特筆すべきである。

従来は批評の対象外とされてきた《Grapefruit》などの指示文芸術が、「言語と想像の接点」として理論的に読み解かれ、記号論や表象文化論のテキストとして注目されている。

「透明な声」を聴くために

オノ・ヨーコの芸術が今、静かに語り直されている。そこには物質を超えた精神性があり、怒号ではなく沈黙によって社会に問いを投げかける姿勢がある。彼女の表現は、声を持たぬ者の代弁ではなく、むしろ「声なきものたちの声を聴こうとする行為」そのものなのである。

かつて「ビートルズを壊した女」として語られていた彼女が、今や「声なき抵抗の芸術家」としてその像を変貌させつつあるのは、我々がようやく、その沈黙の向こうに潜む声を聴く準備ができたからに他ならない。







Posted on 2025-08-06 | Category : コラム, 音楽のこころ | | Comments Closed
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