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自分という存在の手触りーー文学と芸術の根源的意義





文・M&C編集部

人はなぜ、物語を語り、絵を描き、音を奏でるのか。水や食糧や住処と違って、芸術は人を生かさない。にもかかわらず、いや、むしろだからこそ、文学や美術は人間の歴史において、途切れることなく存在してきた。

洞窟の壁に描かれた野牛の群れ、古代叙事詩に詠まれた神々の戦い、ルネサンスの聖母子像、現代の抽象絵画、あるいは能楽の謡、ポップミュージックの歌詞。

表現の形は時代とともに移ろうが、これらの背後にある「問い」は一つである。「人間とは何か」。

芸術を鑑賞することの意義は、感性を磨くことでも、社会の矛盾に気づくためでもない。それらは確かに大切な側面ではあるが、本質ではない。

真の意義は、私たちが生きるこの世界と、この不可思議な「私」という存在について、言葉にならぬ問いを持ち、対峙する営みにある。

たとえば、カフカの『変身』を読んだとき、我々は不条理の深淵に引き込まれる。朝目覚めると虫になっていた男の話は、荒唐無稽であると同時に、どこか心の奥に深く刺さる。

あれは何だったのか。家族との断絶か、自己喪失か、あるいは存在そのものの意味の崩壊か。明確な答えはない。だが、その「わからなさ」こそが、私たちを内なる思索へと導くのだ。

芸術作品とは、言葉で説明できる以上の何かを抱えた存在である。むしろ、言葉にならないものを言葉に近づけようとする果てしない試みとすら言えるだろう。

それゆえ、作品を前にする者は、常に問い返される。「あなたは、あなた自身の存在をどう捉えているのか」と。

近年、芸術は教育、福祉、地域活動など多様な領域と結びつき、「役に立つ芸術」が強調される傾向がある。それは歓迎すべき展開だ。

しかし、注意しなければならないのは、そうした「効能」にばかり目を向けると、芸術が本来持っている「不必要であることの必要性」が見失われる危険がある。

たとえば文学。「読書の効用」が語られるとき、それは語彙力の増強、論理的思考力の向上、教養を高めるといった実利的な側面に偏りがちだ。

だが、読書の本質は、意味や価値が容易には言語化できない領域ーーたとえば「死とは何か」「幸福とは何か」「赦すとは何か」といった、人生の根底を揺さぶる問いにある。

こうした問いは、日常の中では避けがちである。忙しさや快適さのなかで、私たちはつい耳を塞いでしまう。

だが、文学や芸術は私たちを容赦なくそられの問いに引き戻す。カラヴァッジョの陰影が、芥川龍之介の一文が、不意に心の奥底に「何か」を残して去っていく。

それは、慰めや答えではない。むしろ不安やざわめき、違和感かもしれない。だが、それらの感情こそが、人間であることの証ではないだろうか。







Posted on 2025-08-06 | Category : アートに誘われて, コラム, 文学の談話室, 生きる指針 | | Comments Closed
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