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女が日記を書くということ──紀貫之『土佐日記』の挑発





文・M&C編集部

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてすなり」

平安時代の歌人・紀貫之が『土佐日記』の冒頭に記したこの一文は、日本文学史における一つの転機を宣言している。

当時「日記」といえば、漢文で書かれる男性の記録文を指していた。政治や公務に従事する男性たちは、自身の動静や時代の記録を漢文で綴った。

日記は私的な記録であると同時に、公的な文書でもあったのである。

そこに仮名で綴られた『土佐日記』が登場する。作者はあえて「女のふり」をして筆を執った。実に挑発的な新たな文学の開幕である。

この作品の奇抜さは単に性別を偽ったことではない。より深い意味で、紀貫之は当時の「書き言葉」が持っていた社会的な性格(漢文=男、公的、権威、仮名=女、私的、感情、という構図)に、大きな一石を投げかけたのである。

仮名で日記を書くという行為自体が、権威の側に属する言語を脱ぎ捨て、私的な感情の空間に踏み込む決意表明だった。

わたしはかねがね疑問だったが、当時の女性たちは日記を書かなかったのか? 

答えは否、である。女性も日々の記録や思い綴っていたようだ。ただし「仮名で私的な日記を書く」という文学的形式は、一般化していなかった。

『土佐日記』の成立が934年頃とされるのに対し、女性が自身の生活と感情を仮名で綴った日記文学の嚆矢とされる『蜻蛉日記』(藤原道綱母)は、このおよそ40年後、974年頃に登場する。

『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』などの名作群が現れるのは、さらにその後、11世紀である。

つまり、『土佐日記』は女性仮名日記文学の時代を予告する、いわば日記文学の「原点」に位置づけられる作品である。

しかも、その先駆者は男性であり、あえて女性のふりをした。もちろん、紀貫之は悪ふざけで女性のふりをしたのではない。言葉のジェンダー的境界線を意識的に横断し、文学の新たな可能性を切り拓いたのである。

彼の筆致は、時にユーモラスで、時に哀切で、格調を保ちつつも柔らかい。それは漢文にはない抒情性と、仮名が持つ音声的なリズムに支えられている。

こうした表現の豊かさが、後の女流日記文学に継承されることとなる。貫之の試みがなければ、『蜻蛉日記』のような作品が現れたかどうか。こうした「歴史のIF」を考えるのは楽しい。

もう一つ興味深いのは、『土佐日記』が「旅の記録」であるという点である。任地である土佐から京への帰還を綴った本作には、旅の困難、別れの悲しみ、船旅の不安、故郷への憧憬が織り込まれている。

これらの感情は、漢文の記録文では捉えきれないものだった。仮名だからこそ、あるいは「女の視点」を装ったからこそ、細やかに描き得た情緒がここにはある。

文学における「私」とは、常に虚構を孕んだ存在である。貫之がなぜ女性の視点で書いたのかという問いは、文学的戦略として捉えるべきだろう。

貫之は、仮名で書くための「必然」として、女という仮面を必要とした。仮名で書くこと、それ自体が傍流であった時代において、女性性はそのの「新規性」を担保する役割を果たしたのである。

現代の視点から見ると、『土佐日記』はジェンダー論的にも、メディア論的にも、実に多義的なテキストである。

男性が女性を演じることで初めて書けた日記。仮名という言語で初めて拓かれた感情の領域。そこにあるのは、言葉と性、権力と感情のせめぎあいである。

紀貫之は漢詩人であり官人でありながら、仮名で書くという選択をした。そして、そのために「女性の目で見る」ことを選んだ。

この逆説的な構造が、『土佐日記』を不朽の名作たらしめている。

貫之が拓いた仮名文学の地平の先に、やがて紫式部や清少納言が立ち現れることは、彼は予想しなかったであろう。







Posted on 2025-08-08 | Category : コラム, 文学の談話室 | | Comments Closed
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