違和感を覚える現代アートの「社会活動化」について
文・M&C編集部
美術は、常に時代とともに変容してきた。西洋絵画は、宗教美術からやがて王侯貴族がパトロンとなり、市民社会の成立とともに個人の内面を描き出す方向へと展開した。
近代に入ると、印象派は光を追い、象徴派は夢と神秘へと向かった。
そして20世紀のアヴァンギャルドは、芸術そのものの制度と形式を問い直すことによって、新たな表現の地平を切り拓いた。
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近年、現代アート作品を展覧会で見るとき、違和感を覚えることがある。
政治性や社会性を主題とした作品が結構多い。
環境問題、人種差別、ジェンダー、移民、戦争――これらを直接的に取り上げる作品は、国際的なビエンナーレやアートフェアにおいて高い評価を受け、メディアの注目を集めている。
しかしながら、こうした潮流に対して、私たちはある種の違和感を覚える。
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その違和感とは、美術作品が「主張の媒体」として過度に機能しているのではないかという懸念である。
芸術とは本来、可視化できないもの、名づけ得ない感情や精神の振幅を象徴的かつ詩的に表す営みであった。
ところが今日のアートは、政治的な主張を訴える「プラカード」と化してはいないか。
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こうした現象の背景には、グローバル化したアート市場とキュレーター主導の展覧会構成がある。
特に1990年代以降、国際展では「社会におけるアートの役割」が強く意識されるようになり、アーティストには「社会的実践者」としての側面が求められるようになった。
それは一見、アートの公共性を高める試みに見えるが、裏を返せば、アートが時代が抱える「課題」への反応装置として消費されるリスクも孕んでいる。
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私たちは、政治や社会をテーマとするアートを否定しているのではない。
ゴヤの『1808年5月3日』や、ピカソの『ゲルニカ』を思い起こせば明らかなように、芸術は歴史的な暴力や不条理を前にして深い人間的表現を成し得る。
しかしそれは、政治的スローガンではなく、人間存在に根ざした内面からの叫びであった。
問題は、現代の社会派アートがしばしば「内面の強度」を欠いたまま、あるいは日本の伝統や歴史に対する思いが足らず、またはグローバルな風潮に合わせただけの表層的なメッセージの提示に終始しているのではないかと感じる点にある。
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なぜ、現代アートにおいて、こうした作品が生まれてしまったのか。
いくつもの要因があるだろうが、ひとつには、世界があまりに「情報化」されたことと無関係ではない。
スマートフォンを通じてあらゆる社会問題にリアルタイムでアクセスできる現代人にとって、アートにもわかりやすく、納得できる言葉に還元される作品が求められる。
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社会活動、政治活動のような作品は、ただのキャンペーンである。それは「アート」と呼べないだろうし、そうした「作品」を展覧会場に置いて、観覧者に「鑑賞」させるのは、人々の意識をミスリードしていくことにもつながりかねない。
