【愛国の歌】古の 高市黒人
古(いにしへ)の
人にわれあれや
ささなみの
故(ふる)き京(みやこ)を
見れば悲しき
高市黒人(たけちのくろひと)
高市黒人は持統天皇、文武天皇に仕えた。
「われあれや」は、わたしはそうではないのにの意。
「ささなみ」は琵琶湖西岸の沿岸一帯。
ここには天智天皇が即位されたとき開かれた大津宮があった。
古き都のあれた様を見て悲しんでいる。
【愛国の歌】東の 柿本人麻呂
東(ひむがし)の
野に炎(かぎろひ)の
立つ見えて
かへり見すれば
月傾(かたぶ)きぬ
柿本人麻呂
柿本人麻呂は古来、歌聖と言われる。
わたしは歌の専門家ではない。
趣味で昔からときどき、和歌を読んで楽しんでいた。
読むだけで、詠んではいない。
柿本人麻呂が和歌歴史上、最高の歌人というのは知っていたけれど、ピンとこなかった。
ここにきて(令和6年3月である)、柿本人麻呂の歌が素晴らしいと思えてきた。
この歌は、軽皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの、奈良県の宇陀)で御狩をされたとき、随従していた柿本人麻呂が詠んだ歌である。
東の野に、あけぼのの光がさしてきた。
振り返ると、月は西の山の端に入ろうしていている。
雄大な自然のなかに、これから御狩が始まる緊張が伝わってくる。
【愛国の歌】八雲立つ 須佐之男命
八雲立つ
出雲八重垣
妻ごみに
八重垣つくる
その八重垣を
須佐之男命
須佐之男命は高天原で乱暴を繰り返し、姉君天照大御神から高天原を追放されてしまった。
出雲に降り立った須佐之男命は、これまでの乱暴を悔い改めたのか、心優しい勇猛な神となり、老夫婦を苦しめていた大蛇を退治する。
老夫婦の娘、クシナダヒメを妻として、新たな生活を始めた。
須佐之男命はクシナダヒメとの新婚の宮をおつくりになった。
その嬉しさがこの歌には溢れている。
わたしなりにこの歌を現代語にしてみよう。
天を幾重にも覆って沸き立つ雲
大切な妻をこもらせるため
多くの垣に囲まれたこの宮を建てた
新居を包む壮大な雲の重なりよ
須佐之男命は出雲の鳥髪という場所に降りった。
グーグルマップで鳥髪を探すと、「鳥上」が出てくる。このあたりであろうか。
【愛国の歌】敷島の 本居宣長
敷島の
大和心を
人問はば
朝日に匂ふ
山桜花
本居宣長
本居宣長はこの歌で、大和心の神髄をあらわした。
桜は日本人の心を象徴する花だ。
公園や道路に植えられている、人の手が入った桜の花も勿論いいが、本居宣長は山に咲いている野生の桜だと言っている。
しかも昼間や夕方の桜ではなくて、朝日に照らされた桜なのだ。
【愛国の歌】しきしまの 明治天皇
しきしまの
大和心の
をゝしさは
ことある時ぞ
あらはれにける
明治天皇御製
わたしたちは誰もが大和心を持っている。
でも普段はそのことに気づかない。
いまは「ことある時」、国家の一大事のときである。
大和心を持っていることを思い出してみよう。
ほこりがついているかもしれない。
払ってみよう。
輝きを取り戻すだろう。
そのことに気づいたとき、いまの様々な問題が解決に向かって進み始めるのでしょう。
【愛国の歌】異国の 貞明皇后
異国(ことくに)の
いかなる教(おしへ)
入り来るも
とかすはやがて
大御国(おほみくに)ぶり
貞明皇后
貞明(ていめい)皇后は大正天皇のお后でいらっしゃる。
上代、儒教が日本に入って来た。
仏教が入った。
それから1000年後、キリスト教が入った。
ほかにも、道教が入ったりいろいろな思想が入って来た。
そうしたいろいろな教えは、日本人を飲み込まなかった。
日本人はそうした教えを溶かして、日本古来の伝統と混ぜ合わせて造り変えた。
造り変える力は、日本が日本であり続ける、日本の神髄である。
たはやすく勝利の言葉いでずして 美知子上皇后陛下御歌
たはやすく勝利の言葉いでずして
「なんもいへぬ」と言ふを肯(うべな)ふ
美知子上皇后陛下御歌
水泳の北島康介選手が2008年北京オリンピックで、100m平泳ぎ金メダル獲得(しかも前回アテネに続いて二連覇)したあと、インタビュアーにコメントを求められたとき、感極まって発した言葉「何も言えねえ」をお聞きになった美知子陛下が詠まれた御歌です。
【春の和歌】見る人も なき山里の 桜花 伊勢
亭子院歌合の時よめる
なき山里の
桜花
ほかの散りなむ
後(のち)ぞ咲かまし
伊勢
「古今集」の「春歌上」に収められている、伊勢の歌です。
歌意は、読んでそのまま。
見る人もない山里の桜花
ほかの桜が散った後で咲いたらよかろうに
そうすればゆっくりと見られるから
こんな感じでしょう。
最後の「まし」は、~なら良かっただろう、というニュアンスでとったらよいと思います。
「春歌上」はこの歌でもって締めくくられます。
花の落下を盛り込んだ歌でひとつの巻を終わらせるという巧みな構成になっています。
亭子院歌合(ていじいんうたあわせ)
詞書にある「亭子院歌合(ていじいんうたあわせ)」とは、延喜十三年(913年)、宇多法皇が自分の御所としていた亭子院で開いた歌合(うたあわせ)です。
歌合とは、歌人を左右二組に分け、詠んだ歌を比べて優劣を争う遊びです。
審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし)といいます。
左右両組とも、自陣の詠んだ歌がいかに素晴らしいかを主張します。いまでいうディベートのようなものです。
判者は、左右の意見を聞いて、どちらかに軍配を上げます。
情熱の女・伊勢
作者の伊勢は、はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕えました。
その後、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際。宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生みますが、皇子は早世してしまいます。
宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務(なかつかさ 女性。この人も歌人)を生みます。
宇多天皇の没後、摂津国に庵を結んで隠棲しました。
情熱的な恋歌で知られます。
「古今和歌集」には22首が入集。勅撰和歌集には合計176首が入集しているという大歌人です。
【春の歌】はるきぬと 人はいへども 鶯の 壬生忠岑(みぶのただみね)
はるきぬと 人はいへども
鶯の なかぬかぎりは あらじとぞおもふ
壬生忠岑(みぶのただみね)
(口語訳)
春が来たと世間の人は言うけれど
鶯が鳴かないうちは、まだ春ではないと思う
忠岑の熱い気持ち?!
鶯は春の到来を告げる鳥です。春といえば鶯。鶯といえば春。
和歌の世界、貴族の世界、雅の世界ではそういうことになっています。「型」みたいなものです。
歌の前半の「春が来たと世間の人は言うけれど」という部分は、ふたつの意味にとれます。
ひとつは、暦の立春となったこと。
もうひとつは、まだ立春にはなっていないけれど、春の気配になったと周りの人が言っていること。
どちらかは、歌からは分からず、作者に聞いてみないと何ともいえないと思います。
さらに、後半の「鶯が鳴かないうちは、まだ春ではない」も、ふたつの気持ちが重なっているようです。
ひとつは、鶯が鳴かないと春とは思えない、という気持ち。
もうひとつは、鶯が鳴くのを待っている、はやく鳴いてくれ、という気持ちです。
どちらの意味かを追求するよりも、歌の醸し出す、忠岑の気持ちの勢いみたいのを味わったほうがいいと思っています。
「春きぬ」と「春こぬ」
念のためですけれど、古典文法の話です
「ぬ」は誤読しがちなことばです。
「春来(き)ぬ」は「春が来た」という意味ですが、「春がこない」という否定の意味と混同することがあります。
例えば、「風立ちぬ」は、風が吹いたのか、吹かなかったのか、よく分からないという思いをした人、少なくないのではないでしょうか。
「春来ぬ」は、春が「来た」です。「ぬ」は完了の助動詞です。
もし否定の意味の「ぬ」でしたら、「春来(こ)ぬと」となります。
謎多き(?!)人物・壬生忠岑
作者の壬生忠岑は生没年不詳で、どのような人生を送ったかは、おおおその職歴が分かる程度で、詳しくは分かっていません。
若い頃は六衛府(宮中および天皇や皇族の警護にあたる武官)の位が低い武官でした。
その後、御厨子所(みずしどころ 宮中で天皇の食事や節会 (せちえ) の酒肴 (しゅこう) をつかさどった所)などを経て、摂津権大目(せっつのごんのだいさかん)になったと「古今和歌集目録」にあります。
摂津権大目ですが、国司の位のひとつです。国司は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)に分かれ、目は主に文書の記録や公文書の草案作成などを担当しました。
しかし、「歌仙伝」や「忠見集」には、御厨子所や摂津権大目の官職は息子の忠見のものとあり、忠岑の官職で確実なのは「古今和歌集」の「仮名序」にある、武官の右衛門府生です。
忠岑は「古今和歌集」撰者のひとりです。「古今和歌集」の「仮名序」に仕事は右衛門府生とありますから、撰者のときは右衛門府生であったのでしょう。
息子の忠見が摂津権大目などを務めたとすると、晩年には事務方へ移ったのかもしれません。でも、史料が残っていませんので、官位は低いままであった可能性は高いです。
忠岑は「古今和歌集」に34首、勅撰和歌集全体では81首が入首されています。
家集「忠岑集」もあり、「古今集」撰者でもある、当代を代表する歌人であったわけです。
それにもかかわらず官位は低いままであることを考えると、よく出世するためには歌の力が必要、といわれることがありますが、官位と歌の実力は比例しないのが、忠岑のケースで分かります。
(M&C蓬田)
【新年の歌】あらたまの 年の若水 くむ今朝は 樋口一葉
あらたまの 年の若水(わかみず) くむ今朝は
そぞろにものの 嬉しかりけり
樋口一葉
(口語訳)
若水を汲む元日の朝
何とはなしに嬉しい気持ちが湧き上がる
若水とは、元日の朝に汲む水のこと。
樋口一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」を発表、森鴎外をはじめ文壇から絶賛されましたが、二十四歳で肺結核により亡くなりました。
経済的に困窮したなかで、息を引き取りました。
幼少から本が好きで、学校の成績も優秀。小学校は首席で卒業し、その後入った和歌の私塾でも才媛と呼ばれました。
士族出身である父親が家屋敷を売って資金を作り、事業を起こしましたが失敗。負債を残したまま亡くなり、家督を継いだ一葉は父の負債も背負うことになります。
その後、母娘で針仕事などをしながら生活しますが、経済的困窮の打開は見つかりませんでした。
もし一葉が長生きしたら、素晴らしい作品をもっと書いていたのにと思うと、切なくなります。(蓬田修一)