The Japanese Spirit of Nature Worship




In many parts of the world, when people hear the word “religion,” they often think of a god, a founder, scriptures, and organized institutions. In monotheistic traditions such as Judaism, Christianity, or Islam, nature is regarded as God’s creation, but it is not worshiped as a divine being itself.

Japan, however, has a different tradition. Since ancient times, the Japanese people have revered mountains, rivers, rocks, trees, and other natural elements as “kami,” or deities. This practice is called Shinto. Yet, rather than being a religion in the institutional sense, Shinto is better understood as a way of belief, or a spiritual sensibility.

This reverence for nature is still alive in modern Japan. Visiting a shrine at the New Year (hatsumōde), holding festivals to thank the sea or mountains for their blessings, or instinctively bowing in front of a great tree or a beautiful waterfall—all these acts reflect a deep sense of respect toward nature. Japanese people may not see these as “religious” actions, but they are guided by a cultural tradition of awe and gratitude.

In many ancient civilizations, nature worship was once common. Yet, as societies developed and religions became systematized, especially under monotheistic beliefs, this form of worship largely disappeared. Japan is unique in that it has preserved a pure form of nature worship into the modern age.

For the Japanese, nature is not just “the environment.” It is a living presence—something to live with, to fear, and to appreciate. This perspective is less about religion and more about a way of life and a natural feeling of the heart.

Japanese people still carry the spirit of worshiping nature as divine. It is not so much a religion, but rather a natural sensibility that shapes the way we live.







Posted on 2025-08-28 | Category : コラム, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

世界で唯一のエンペラー日本の天皇陛下




文・M&C編集部

世界各地には20世紀初頭までエンペラー(皇帝)がいました。

ところが、革命の首謀者たちや戦争の勝利国によって徐々に数を減らされ、共産主義が広まるとともに日本を除いていなくなりました。

日本は世界で唯一のエンペラー(天皇陛下)を戴いている国であり、わたしは大変に誇りに思っており、そのことを日本国民はもっと誇ってよいと思っています。

世界史的に見ると「神の子孫」を称する皇帝・君主は非常に珍しく、日本の天皇陛下はその点で特異です。

ただし、「神の子孫」ではなく「神の化身」や「神に選ばれた者」を称するケースは、ヨーロッパやユーラシアでも見られます。

世界に存在したエンペラーを整理してみました。

これは令和7年のお盆、2025年8月16日での調査であり、間違っているかもしれません。これからも調べていきたいと思います。

1. 神の子孫を称した例(極めて少数)

●日本の天皇陛下
天照大神の子孫です。「日本書紀」「古事記」に書かれています。

血統は万世一系とされ、易姓革命や断絶の理論は存在しません。

●古代エジプト王(ファラオ)
太陽神ラーの子とされましたが、「化身」的要素が強く、代替わりのたびに神の子として生まれ直しました。

血統の連続性よりも即位儀礼が重視され、日本のような連続的な神話系譜は脆弱です。

2. 「神の化身」や「神に選ばれた者」

ヨーロッパ・ユーラシアでは多くがこちらのタイプです。

●ローマ帝国
初代アウグストゥス以降、一部皇帝が死後「神格化」され、神殿に祀られました。生前は「神の代理人」、死後に神となります。

●ビザンツ帝国
「地上における神の代理人」 であり、キリスト教的権威のもとに即位します。

●モンゴル帝国
チンギス・ハンの血統が天命を受けて即位。天そのものの子ではないが、天命を授かります。

●ヨーロッパ中世国王
「神から王権を授かった者」、所謂、王権神授説です。神の血縁ではなく、神の意志により選ばれた王です。

3. 中国

●古代の三皇五帝
皇帝が神の子孫という系譜伝承はあるものの、実際の歴代皇帝は易姓革命思想のもと、天命の有無が重視されました。神話的血統は政治的正統性の中心にはなりませんでした。

●漢王朝以降
前漢・武帝の時代に、陰陽五行説と儒教を取り込んだ新たな「漢代儒教」を構築しました。

天と人との間に秩序を作り、皇帝は天と人と媒介し、皇帝の行為は天意を体現するものとされました。

政治の善し悪しは天に影響を与えると考えられたため、皇帝は天に認められるような政治を行う必要がありました。

●インカ帝国
皇帝は太陽神(インティ)の直系子孫とされました。

皇帝は太陽神の現人神として民を統治し、帝国の支配の正当性を支えていました。

日本の天皇陛下と近い存在でした。

多くの国や文明では、皇帝は「神と人を結ぶ仲介者」と呼ぶべき立場です。世界的に見て「神の子孫」であることを一貫した血統で保持し続けている王朝は日本の天皇陛下が唯一です。

日本の場合は、神話的血統が切れないこと自体が権威の源泉で、ここが他の皇帝と決定的に異なります。







Posted on 2025-08-16 | Category : コラム, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

なぜ勅撰和歌集は500年以上にわたり21集が編まれたのか?




わたしは和歌が好きである。それで、こんな疑問をかねがね感じていた。

平安時代、古今和歌集が初の勅撰和歌集として編まれたが、以降、数多くの勅撰和歌集が生まれた。

その理由は、勅撰和歌集は天皇陛下を中心とした政治的・文化的な秩序に、とても有効だったからだと思うが、それだけではなかっただろう。

古今和歌集以降、500年以上にわたって、21の勅撰和歌集が生まれたのはなぜか?

調べて分かったのは、以下の政治・制度・文化的要因が複合的に作用したためだ。

☆   ☆

天皇陛下による文化的正統性の確立および伝達
古今和歌集は天皇陛下からの下命で国家事業として編まれた最初の和歌集であり、以後「天皇が選んだ歌」を公的に示すことで、天皇中心の文化秩序を作り上げる役割を担った。

勅撰という制度は、天皇や上皇がどの歌を正統として認めるかを示す行為であり、政治的メッセージ性が強かった。

宮廷文化の規範化・歌風の制度化
勅撰という形で歌を選ぶことは、何が「正統な歌風」「良い歌」かを公的に規定することであった。

撰者(編者)の編纂基準が、後続の歌人の作法や審美を規定していった。古今和歌集の仮名序はその典型的な例だと言える。こうして歌風が世代を超えて正規化され、宮廷文学の規範が定着していった。

宮廷内の人事・流派政治
 誰を撰者にするか、どの歌人の歌を収録するかは、官位、栄達、藤原氏などの政治勢力との結びつきを反映した。

勅撰集に入首することで、その歌人や家が名声と権威を得た。

その一方で、政治的に疎外された歌人や家は除外されうることになり、勅撰という行為は歌の評価を通じた人事・勢力調整の手段となった。

宮廷社会における和歌の実用的価値
和歌は単なる趣味でなく、貴族の日常的なコミュニケーション手段であり、宴会、歌合など儀礼の核であった。

和歌の巧拙は社交・出世・評判に直結したため、歌の規範を公的に定め、学び伝える必要性が高まった。このことは勅撰集を編み続ける土壌になった。

制度的仕組み「和歌所」と「文化インフラ」
 勅撰集の編纂は内裏の組織、和歌所で行われた。そこでの行為は、資料収集・選定・配列・清書・奏覧という手続きを踏む公的事業だった。

こうした制度的な仕組みがあったため、時代が変わっても勅撰での編纂が継続され、500年以上にわたり21集が編まれた。

さらに、和歌についての知識継承の仕組みが作られ、世代を超えた歌人を育成に役割を果たした。

(文・M&C編集部)







Posted on 2025-08-11 | Category : うた日記, コラム, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

姥捨から名付けられた『更級日記』というタイトル




文・M&C編集部

僕はタイトルが持つ力を信じている。それはちょっとした呪文のようなもので、口にした瞬間に別の場所へと意識を運んでしまうのだ。

『更級日記』には、作品のなかに「更級」ということばは出てこない。

どうして「更級日記」と呼ばれているのか。

それは、作品の終盤に出てくる「月も出でで 闇にくれたる姨捨に なにとて今宵 たづね来つらむ」という歌による。

作者の菅原孝標の女が、歳を重ねてひとり寂しく暮らしているところに、甥が訪ねてくる。

そのとき甥に向けて詠んだ歌だ。

『古今和歌集』の一首「わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を本歌取りしている。

信濃の更級には、姨捨山の話が伝わる。

母親を亡くした男が、母親代わりに育ててくれた伯母を、妻から責められ、山に捨ててしまう話だ。

こんな話は聞くだけで胸がざわつく。

ただこの話には救いもあって、男は夜空に浮かぶ月を見ると、伯母を山に捨て置くことは忍びず、連れて戻る。

月の光がこの残酷な話に安らぎを与える。

話を日記のタイトルに戻して、後世、この日記を読んだ人々は、作品終盤に出てくる「更級」の言葉に、特別な感情を抱いたに違いない。

いつからともなく、読者のひとりが、この日記を『更級日記』と名付けた。その人はおそらく、この日記作品が「闇にくれたる姥捨」の歌の場面にきたとき、これこそがこの日記の核心だと感じたのだ。

名前ひとつで作品の輪郭が決まることもある。これはその典型だ。







Posted on 2025-08-09 | Category : コラム, 和歌とともに, 文学の談話室, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

『古今和歌集』における撰集方針と天皇中心の新秩序 ――王権の文化的正統性と国風和歌の確立――

はじめに

『古今和歌集』(以下、古今集)は延喜五年(905年)、醍醐天皇の勅命によって撰進された最初の勅撰和歌集である。

その背景には、律令国家から王朝国家への移行という大きな時代的変化があり、古今集の撰集は単なる歌の編集作業ではなく、天皇を中心とする新たな文化的・政治的秩序の構築作業であった。

本稿では、古今集の撰集方針とその中に見られる天皇制との関係について、具体的な作品や制度的背景をもとに考察し、和歌がいかにして王権の文化的正統性を支える装置となったのかを明らかにする。

一、勅撰和歌集の制度化とその政治的背景

『古今和歌集』は、天皇の命令により国家的事業として和歌を撰集する「勅撰集」の最初の事例である。

それ以前の和歌集、たとえば『万葉集』や『伊勢物語』は個人や集団による自発的な編纂であったが、古今集は国家権力、すなわち天皇の意思によって企画された。このような和歌の制度化には、当時の政治情勢が深く関与している。

9世紀末から10世紀初頭の日本は、藤原氏を中心とした摂関政治の成立と、律令制の弛緩という時代であった。

こうした中、天皇の文化的権威の再構築が求められ、王権の神聖性を支えるために「日本固有の文化」である和歌が再評価されていった。

すなわち、古今集の成立は、漢詩を中心とした中国的教養から脱却し、天皇を中心とする新たな国風文化の創出というイデオロギー的要請によって支えられていたのである。

二、撰集方針に見る「王権的秩序」の反映

古今集の撰者は、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の四名であり、いずれも歌壇における実力者であるとともに朝廷に仕える文人であった。

彼らは、約1100首に及ぶ和歌を収録し、それを四季・賀・離別・恋・哀傷などの部立て(部類分け)によって整然と分類した。

これは、和歌に秩序を与え、天皇を中心とした儀礼や感情の体系を可視化し、序列化する行為であった。

【事例:賀歌における天皇賛美】

賀歌の部に収められた和歌の多くは、天皇の寿命・国家の繁栄・四季の循環といったテーマが中心であり、これは儒教的・道教的な皇帝賛美の型を踏襲しながらも、和歌という日本語の形式で表現されている。たとえば、紀貫之の賀歌に次のような一首がある。

世の中を
まもるしるしに
なりぬべし
神の御代より
いでし宝は
(巻第六・賀歌)

この歌は、「神の御代」=天皇の治世が「宝」であると詠んでおり、天皇の存在そのものが世界の秩序を保つ象徴であるという世界観が表れている。ここには、和歌を用いた文化的な王権正当化の装置としての意識が見て取れる。

三、和歌と天皇を中心とした儀礼の接続

古今集の撰集とほぼ同時期、宮中の年中行事や儀礼における和歌の使用が制度化されていく。たとえば「屏風歌」や「歌合」などの形式において、和歌が儀礼的な場面での必須の要素となっていく。

これにより、天皇や貴族が和歌を詠むことが、政治的・社会的な「パフォーマンス」として機能するようになる。

【事例:昌泰の変と和歌文化】

また、古今集の成立時期には、藤原時平と菅原道真の対立(昌泰の変)など、宮廷内の権力争いが激化していた。こうした時代において、和歌は政治的中立性を保ちながら、天皇を中心とする秩序回復の象徴として活用された。

歌壇の世界においても、和歌の技巧や教養が忠誠心や礼節の象徴とみなされ、官人の人事評価にも影響を与えたことが記録されている(『江談抄』などを参照)。

四、古今集の構成と「日本」意識の形成

古今集では、『万葉集』以来の古典的歌から、当代の新作歌に至るまでの和歌が体系的に編纂されている。これにより、和歌という形式が持つ歴史性と連続性が明示され、日本文学における「伝統の創出」が図られた。

このような編集方針は、天皇の統治が過去から未来へと連なる正統な系譜であるという思想と重なっている。

【事例:柿本人麻呂と和歌の祖】

仮名序では、古代の歌人・柿本人麻呂が「歌聖」として言及され、和歌の歴史を支える祖として顕彰されている。これは、和歌の歴史を天皇を中心とする歴史に接続する意図であるといえる。

五、和歌における「統制」と「自由」の交錯

古今集の撰集方針は、和歌にある種の典型性・様式性を強く要求している。たとえば、季節感、詞の綾(掛詞、縁語)、恋の段階的表現などが一定のパターンに沿って構成されており、それが儀礼的な場での使用に適した言語秩序を形成している。

これは、和歌を文化的表現としてだけでなく、制度化された言説装置とする国家的意図の反映である。

一方で、撰者たちはその中で個性や感情の表現を工夫し、和歌の「自由」や「創意」を保とうとしていた。その最たる例が、紀貫之による仮名序である。

仮名序は、和歌を「人の心の発露」として定義し、天皇を中心とする新たな枠組みの中でも文学が個人的感情の表現であることを忘れてはならないと訴えているとも解釈されうる。

おわりに

『古今和歌集』は、日本における勅撰和歌集の嚆矢として、その後の文学・文化に多大な影響を与えたが、その成立の背後には、天皇制の文化的正統性を確立・可視化しようとする明確な政治的意図が存在していた。

撰集方針における部類構成、歌の選定、文体の統一、そして儀礼との接続といった編集方針は、すべて天皇を中心とした秩序ある社会の演出に寄与している。

和歌はこの時代、「詩」としての美的実践であると同時に、「政治」としての秩序装置であった。古今集の撰集方針と天皇を中心とする新秩序との関係を理解することは、和歌を単なる文学作品として見るのではなく、国家的文芸政策として捉える視点を持つことに他ならない。

(M&C編集部 2025/8/3)

参考文献

久保田淳『古今和歌集全注釈』角川書店、1999年

鈴木日出男『古今和歌集の世界』岩波新書、2002年

小松英雄『和歌の構造と展開』笠間書院、1990年

佐佐木恵子「古今集撰集と天皇制文化の形成」『日本文学研究』第87号、2015年

岩佐美代子『古今和歌集と平安文学』明治書院、2007年








Posted on 2025-08-03 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

令和七年建国記念の日に寄せて

本日2月11日は建国記念の日です。

この日、神武天皇が奈良・橿原の地で初代天皇に即位されました。

昭和20年に占領されるまでは「紀元節」と呼ばれておりました。

今年は、日本のオリジナルカレンダー皇紀2085年です。

日本建国に思いを馳せ、日本の国柄について、改めて考えてみる良い機会だと思います。

株式会社M&Cメディア・アンド・コミュニケーション
代表取締役 蓬田修一

Posted on 2025-02-11 | Category : コラム, ニュース&メッセージ, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

【愛国の歌】御民(みたみ)われ 海犬養宿禰岡麻呂(あまのいぬかいのすくねおかまろ)

御民(みたみ)われ
生ける験(しるし)あり
天地(あめつち)の
栄(さか)ゆるときに
遇(あ)へらく思へば

海犬養宿禰岡麻呂

作者の海犬養宿禰岡麻呂(あまのいぬかいのすくねおかまろ)という名前は、古代史や古代文学に関心ある人でも聞き覚えのないことであろう。

この歌は万葉集に採られている。
そこの詞書には「詔(みことのり)に応(こた)ふる歌」とある。
聖武天皇の詔に応えた歌である。

作者は聖武天皇に仕えていたと思うが、それ以外は一切分かっていない。

「御民われ生ける験あり」、この国の民として生まれてきた甲斐がある、という実感。

そして「天地の栄ゆるときに遇へらく思へば」、天地が栄えているときに生きていることへの感謝。

こう思えるよう、日々の精進に務めたい。




Posted on 2024-03-21 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

【愛国の歌】旅人の 遣唐使の母

旅人(たびびと)の
宿りせむ野に
霜降らば
わが子羽ぐくめ
天(あめ)の鶴群(たづむら)
遣唐使の母

天平五年(733)、遣唐使が難波から旅立った。
難波の場所は、大阪市中央区の三津寺に比定されている。

使節一行の母親は、この歌を我が子に贈った。

大空の鶴の群れに、旅先で我が子が霜に濡れるようなら、その大きな翼で包んで守ってほしい、と祈った。




Posted on 2024-03-19 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

【愛国の歌】千万の 高橋虫麻呂

千万(ちよろづ)の
軍(いくさ)なりとも
言挙(ことあげ)せず
取りて来ぬべき
男(をのこ)どぞ思ふ
高橋虫麻呂

この歌で一番こころに響くのは「言挙せず」である。

古来、日本は神国であり、一切を見ておられる神がいる。

神慮に背かないかぎり栄えていく。すべては神慮のままにあるべきで、とりたてて言う必要はない。

言葉には精霊が宿っている。

これは私たちの信仰でもある。

藤原宇合(うまかい)が西街道の節度使として派遣されたとき、壮行の歌である。

歌の意味は、

「たとえ相手が千万の軍勢でも、あなたはあれこれと言わず、必ずや打ち取ってくると信じている」

であり、勇士への信頼がほとばしっている。




Posted on 2024-03-18 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed

【愛国の歌】我が園に 大伴旅人

我が園(その)に
梅の花散る
ひさかたの
天(あめ)より雪の
流れくるかも
大伴旅人

天平二年(730)、太宰府の長官である大伴旅人は部下を集めて梅花を愛でる宴を催した。
大伴旅人はこの宴で、この歌を詠んだ。

庭に散る梅の花を、天から流れ来る雪に見立てている。




Posted on 2024-03-17 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed