たはやすく勝利の言葉いでずして 美知子上皇后陛下御歌
たはやすく勝利の言葉いでずして
「なんもいへぬ」と言ふを肯(うべな)ふ
美知子上皇后陛下御歌
水泳の北島康介選手が2008年北京オリンピックで、100m平泳ぎ金メダル獲得(しかも前回アテネに続いて二連覇)したあと、インタビュアーにコメントを求められたとき、感極まって発した言葉「何も言えねえ」をお聞きになった美知子陛下が詠まれた御歌です。
【春の和歌】見る人も なき山里の 桜花 伊勢
亭子院歌合の時よめる
ほかの散りなむ 後(のち)ぞ咲かまし
伊勢
「古今集」春に収められている、伊勢の歌です。
歌意は、読んでそのまま。
見る人もない山里の桜花
ほかの桜が散った後で咲いたらよかろうに
こんな感じでしょう。
最後の「まし」は、~なら良かっただろう、というニュアンスでとったらよいと思います。
亭子院歌合(ていじいんうたあわせ)
詞書にある「亭子院歌合(ていじいんうたあわせ)」とは、延喜十三年(913年)、宇多法皇が自分の御所としていた亭子院で開いた歌合(うたあわせ)です。
歌合とは、歌人を左右二組に分け、詠んだ歌を比べて優劣を争う遊びです。
審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし)といいます。
左右両組とも、自陣の詠んだ歌がいかに素晴らしいかを主張します。いまでいうディベートのようなものです。
判者は、左右の意見を聞いて、どちらかに軍配を上げます。
情熱の女・伊勢
作者の伊勢は、はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕えました。
その後、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際。宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生みますが、皇子は早世してしまいます。
宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務(なかつかさ 女性。この人も歌人)を生みます。
宇多天皇の没後、摂津国に庵を結んで隠棲しました。
情熱的な恋歌で知られます。
「古今和歌集」には22首が入集。勅撰和歌集には合計176首が入集しています。
【春の歌】はるきぬと 人はいへども 鶯の 壬生忠岑(みぶのただみね)
はるきぬと 人はいへども
鶯の なかぬかぎりは あらじとぞおもふ
壬生忠岑(みぶのただみね)
(口語訳)
春が来たと世間の人は言うけれど
鶯が鳴かないうちは、まだ春ではないと思う
忠岑の熱い気持ち?!
鶯は春の到来を告げる鳥です。春といえば鶯。鶯といえば春。
和歌の世界、貴族の世界、雅の世界ではそういうことになっています。「型」みたいなものです。
歌の前半の「春が来たと世間の人は言うけれど」という部分は、ふたつの意味にとれます。
ひとつは、暦の立春となったこと。
もうひとつは、まだ立春にはなっていないけれど、春の気配になったと周りの人が言っていること。
どちらかは、歌からは分からず、作者に聞いてみないと何ともいえないと思います。
さらに、後半の「鶯が鳴かないうちは、まだ春ではない」も、ふたつの気持ちが重なっているようです。
ひとつは、鶯が鳴かないと春とは思えない、という気持ち。
もうひとつは、鶯が鳴くのを待っている、はやく鳴いてくれ、という気持ちです。
どちらの意味かを追求するよりも、歌の醸し出す、忠岑の気持ちの勢いみたいのを味わったほうがいいと思っています。
「春きぬ」と「春こぬ」
念のためですけれど、古典文法の話です
「ぬ」は誤読しがちなことばです。
「春来(き)ぬ」は「春が来た」という意味ですが、「春がこない」という否定の意味と混同することがあります。
例えば、「風立ちぬ」は、風が吹いたのか、吹かなかったのか、よく分からないという思いをした人、少なくないのではないでしょうか。
「春来ぬ」は、春が「来た」です。「ぬ」は完了の助動詞です。
もし否定の意味の「ぬ」でしたら、「春来(こ)ぬと」となります。
謎多き(?!)人物・壬生忠岑
作者の壬生忠岑は生没年不詳で、どのような人生を送ったかは、おおおその職歴が分かる程度で、詳しくは分かっていません。
若い頃は六衛府(宮中および天皇や皇族の警護にあたる武官)の位が低い武官でした。
その後、御厨子所(みずしどころ 宮中で天皇の食事や節会 (せちえ) の酒肴 (しゅこう) をつかさどった所)などを経て、摂津権大目(せっつのごんのだいさかん)になったと「古今和歌集目録」にあります。
摂津権大目ですが、国司の位のひとつです。国司は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)に分かれ、目は主に文書の記録や公文書の草案作成などを担当しました。
しかし、「歌仙伝」や「忠見集」には、御厨子所や摂津権大目の官職は息子の忠見のものとあり、忠岑の官職で確実なのは「古今和歌集」の「仮名序」にある、武官の右衛門府生です。
忠岑は「古今和歌集」撰者のひとりです。「古今和歌集」の「仮名序」に仕事は右衛門府生とありますから、撰者のときは右衛門府生であったのでしょう。
息子の忠見が摂津権大目などを務めたとすると、晩年には事務方へ移ったのかもしれません。でも、史料が残っていませんので、官位は低いままであった可能性は高いです。
忠岑は「古今和歌集」に34首、勅撰和歌集全体では81首が入首されています。
家集「忠岑集」もあり、「古今集」撰者でもある、当代を代表する歌人であったわけです。
それにもかかわらず官位は低いままであることを考えると、よく出世するためには歌の力が必要、といわれることがありますが、官位と歌の実力は比例しないのが、忠岑のケースで分かります。
(M&C蓬田)
【新年の歌】あらたまの 年の若水 くむ今朝は 樋口一葉
あらたまの 年の若水(わかみず) くむ今朝は
そぞろにものの 嬉しかりけり
樋口一葉
(口語訳)
若水を汲む元日の朝
何とはなしに嬉しい気持ちが湧き上がる
若水とは、元日の朝に汲む水のこと。
樋口一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」を発表、森鴎外をはじめ文壇から絶賛されましたが、二十四歳で肺結核により亡くなりました。
経済的に困窮したなかで、息を引き取りました。
幼少から本が好きで、学校の成績も優秀。小学校は首席で卒業し、その後入った和歌の私塾でも才媛と呼ばれました。
士族出身である父親が家屋敷を売って資金を作り、事業を起こしましたが失敗。負債を残したまま亡くなり、家督を継いだ一葉は父の負債も背負うことになります。
その後、母娘で針仕事などをしながら生活しますが、経済的困窮の打開は見つかりませんでした。
もし一葉が長生きしたら、素晴らしい作品をもっと書いていたのにと思うと、切なくなります。(蓬田修一)
【新年の歌】年くれぬ 春来(く)べしとは 思ひ寝に(西行)
たつ春の朝(あした)よみける
年くれぬ 春来(く)べしとは 思ひ寝に
まさしく見えて かなふ初夢
西行
こんにちは 蓬田です!
今回は西行の歌です。
西行、俗名は佐藤義清(のりきよ)。佐藤家は武家で、出家する前は、鳥羽上皇の北面の武士で、官職は兵衛尉(ひょうえのじょう、上から3番目)でした。
ちなみに、北面の武士は上皇に仕え、近衛府は天皇に仕えます。
義清は二十三歳で出家。法名は円位、西行と号しました。
この歌は、西行の歌集「山家集」に収められています。
いろいろな解釈
詞書にある「たつ春」は立春。歌は、西行が諸国を訪ねる旅に立つ春の日に詠んだ、という解釈があるようです。
歌の内容から考えると、詞書の「立つ春」は立春でしょう。
また、西行が想っている人が初夢に出てきた、という解釈もあります。
でも、どうなんでしょう? 北面の武士のエリートで、その職を捨て、世を捨てた男が、一途な恋愛のようなことを詠うのでしょうか?
しかも、この歌は「三家集」の冒頭に収められています。
歌集の冒頭には、歌集全体を象徴するような歌、または、歌集のスタートを切るにふさわしい切れ味のいい歌を載せるように、個人的には思います。
わたくしはこんな風に現代語訳しました。
今年も一年が暮れた。穏やかな春が来るに違いないと、そんな気持ちで眠ると
思ったとおりの世の中になっている。そんな初夢を見た
意味深長な歌だと思います。
【年末の歌】何事を 待つとはなしに 明け暮れて(源国信)
何事を 待つとはなしに 明け暮れて
今年も今日に なりにけるかな
源国信(みなもとのくにざね)
(現代語訳)
とりたてて何を待つわけでもなく(いたづらに)毎日を過ごしている間に
今年も終わってしまった
こんにちは 蓬田でございます!
「金槐和歌集」冬の巻の最後に、つまりは一年の最後として収められている歌です。
読んでそのままの意味。まさに、光陰矢のごとし!
金槐和歌集の撰者、源俊頼(みなもとのとしより)も、感じるところがあって撰んだのでしょう。
作者は何を「待っていたわけではない」のか?
ところで、この歌を見て、皆さんは「何を待っていたのか?」と疑問には思いませんでしたか?
作者は一体何を「待っていたわけではない」のかと?
その答は、なかなかに興味深いです! わたしなりに迫ってみたいと思います。
作者源国信(みなもとのくにざね)の官位は正二位・権中納言。この官位は、貴族としてはものすごい出世です。
源国信は四十二歳で亡くなっていますから、毎年のように、順調に出世を遂げていたような感じだったのかもしれません。
貴族たちの人事は毎年、春と秋に発表がありました。春は高位貴族の朝廷における人事、秋は中位貴族の地方における受領人事でした。
受領は、官位としては四位、五位で、高級貴族よりは低かったですが、地方で徴税した税収を、一部を除いて、規定の額を中央に収めれば、受領個人で自由に運用できたため蓄財ができました。
実際、貴族の中には、高位高官となり、名誉を得たり、国政を動かすことを目指すよりも、あえて受領階級にとどまり、財産を増やすほうを選んだ貴族もいます。
こうしたわけで、高級貴族も中級貴族も春と秋は、自分が出世する知らせを、じりじりした気持ちで毎年「待っていた」わけです。
一方、源国信はほかの貴族のように、自分が出世する知らせをじりじりする気持ちで「待つ」こともなく、毎年のように順調に出世を重ねていたのでしょう。
だから、「何事を 待つとはなしに 明け暮れ」たのだと、感じたのだと思います。
撰者の源俊頼(みなもとのとしより)も、こうした背景を知っていて、本人自身も人事の知らせを「待って」いたひとりであったから、この歌に思うところもあり、一年の最後という目立つところに置いたのではないでしょうか。
人気の言い回し?!
この歌は、後世の歌人にも感じるところがあったらしく、藤原俊成の歌学書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」や、後鳥羽院が配流先の隠岐で撰した歌合「時代不同歌合(じだいふどううたあはせ)」などにも採られています。
ほかにも、この歌をもとにして詠まれたと思われる歌を、挙げておきます。
なに事を まつとはなしに ながらへて をしからぬ身の 年をふるかな
守覚法親王(続後撰和歌集)
むつきのはつねの日、身のあやしさを思ひつづけてよめる
なに事を まつ身ともなき あやしさに はつねはくれど ひく人もなし
源俊頼(散木奇歌集)
関白前太政大臣の家にて郭公の歌おのおの十首づつよませ侍りけるによめる
ほととぎす なくねならでは よのなかに まつこともなきわが身なりけり
藤原忠兼(詞花和歌集)
題しらず
何事を 待つとはなくて うつり行く 月日のままに 世をやすぐさん
道雄法師(新後拾遺和歌集)
【新年の歌】あらたまの 年たちかへる あしたより 素性(そせい)
延喜の御時、月次の御屏風に
あらたまの 年(とし)たちかへる あしたより
待たるるものは 鶯のこゑ
素性(そせい)
(口語訳)
一年がはじめに戻る 正月の朝から 心待ちなのは 鶯の鳴き声
☆☆☆☆☆☆☆☆
こんにちは 蓬田です! 今回も新年の歌です!
正月の屏風絵に添える歌として詠まれました。
鶯の鳴き声は、元旦の朝にふさわしいものとして、当時は受け入れられていたことがうかがえます。
いまの感覚では、お正月に鶯の声では季節的にまだ早すぎます。
当時は陰暦で、正月は立春頃(いまの2月4日頃)でした。
ただし、立春=元日ではありません。
立春は太陽の動きから決められた二十四節気のひとつです。一方、元日は月の動きをもとに決められた陰暦だからです。
枕詞
歌にある「あらたまの」は、「年」にかかる枕詞。「年」以外にも「月」や「春」などにもかかります。
どうしてこれらの言葉にかかるかは不明です。
(年が)があらたまる、から来ているという説がありますが、定説ではないようです。
枕詞は、これなんか言葉遊び、ダジャレの類ですけれど、こういう言葉遊び、言語感覚は、暮らしや社会・自然現象との関わりにおける感性や余裕みたいのが感じられて、個人的には好きです。
「年たちかへる」は、一年がもとに戻る、つまり、新年を迎えるということ。
延喜年間と醍醐天皇
詞書にある「延喜(えんぎ)の御時」は醍醐天皇の治世。901年から923年までの期間です。
延喜年間の前後をあわせて34年間にわたって天皇親政が行われ、数々の業績をあげたため、のちに「延喜の治」と呼ばれ、理想的な治世として謳われるようになります。
ただ、摂政・関白は置きませんでしたが、左右両大臣が政務を行いましたから、親政は形式上です。
醍醐天皇は、いまは「学問の神様」として親しまれている菅原道真と関わりが深い天皇です。
父帝(宇多上皇)の訓示「寛平御遺誡」を受けて、藤原時平、菅原道真を左右大臣として政務を行わせました。
しかし、昌泰四年(901年)、時平の讒言を聞き入れ、菅原道真を大宰府に左遷させます(昌泰(しょうたい)の変)。
時平と道真との対立が原因とされていますが、それだけはないようです。
醍醐天皇と時平は道真の政治手法に不満をもっていたことに加え、近年の研究では、天皇の父上である宇多上皇の政治力を取り除こうと、昌泰の変が起こったとされています。
醍醐天皇は和歌にも造詣が深く、延喜五年(905年)に「古今和歌集」の撰進を紀貫之らに命じました。
天皇自身も和歌を詠み、勅撰集に合計43首が入っています。
作者・素性(そせい)
俗名は諸説あるが、「尊卑分脈」によれば良岑玄利(よしみねのはるとし)。
清和天皇の時に殿上人となりましたが若くして出家。石上の良因院(りょういんいん)に住みました。
昌泰元年(898年)、宇多上皇が大和国を御幸。石上に立ち寄った上皇に召され、供奉して和歌を奉りました。
次の醍醐天皇からも寵遇を受けました。
古今集には36首入集。勅撰集には合計63首入集しています。
ちなみに、今回の歌は勅撰集「拾遺和歌集」に収められています。
ほかの歌人も詠んだ「新年」と「鶯」
大伴家持の「万葉集」に収められている歌です。
あらたまの 年ゆきがへり 春立たば まづ我が宿に 鶯は鳴け
本居宣長も、このように詠んでいます。
鶯の こゑ聞きそむる あしたより 待たるるものは 桜なりけり
【新春の歌】正月(むつき)立つ 春の初めに 大伴家持(おおとものやかもち)
判官久米朝臣広縄(はんがんくめのあそんひろつな)の館に宴する歌一首
正月(むつき)立つ 春の初めに
かくしつつ 相(あひ)し笑(ゑ)みてば 時(とき)じけめやも
こんにちは 蓬田です!
正月、久米広縄(くめひろつな)の屋敷で宴が催されたときに、大伴家持が詠んだ歌です。
「万葉集」に収録されています。
意味は
正月の 春の初めに
こんなふうに みんなでともに笑いあうというのは まさにこのときならではのこと
こんな感じです。
「かくしつつ」は、こんな風に。
「時(とき)じ」は形容詞で、そのときではない、季節はずれ、の意味です。
「時じけめやも」の「めやも」は、そんなことはないでしょう、という反語のニュアンス。
「時じけめやも」全体では、そのときではないことではないでしょう、つまり「いまでしょ、いま」っていう感じです。
当時、笑いが幸せをもたらすと考えられていました。
いまでもその考えは引き継がれていて「笑う門には福来る」と言いますよね。
関西のある神社では、年末になると、神職さん、氏子、参拝者らがいっしょに大笑いして、幸せを願うという行事を行っています。
映像で見たことありますが、先導する神職さんの笑い方は、大きな声ではっきりとわざとらしく「あーはーはっーはっー」という感じでした。
どことなく、能舞台の役者さんのよう。神事の趣もあって興味深かったです。
話を歌に戻しますが、奈良時代、笑って幸せを願う、というよりは、笑うことで繁栄がもたらされると考えられていたようです。
心理学的にも、幸せになりたければ、まず「行動」を変えよ、といいますよね。
幸せになったから笑うのではなくて、笑うから幸せになる。
奈良時代から笑うことの効用を知っていたのかと考えると、1300年前でも、いまは学問的に検証されてきたことが、人々の知恵として受け入れられていたということで、昔の人も今の人も変わらないんだなあと思ってしまいます。
そしてそれは、これからも変わらないのでしょうか? 変わらないようにしていきたいと思います。
【年末の歌】かぞふれば 年の残りも なかりけり 和泉式部
年の暮に身の老いぬることを歎きて、よみ侍りける
かぞふれば 年の残りも なかりけり
老いぬるばかり 悲しきはなし
(現代語訳)
数えてみれば、今年もわずか
こうしてまた一年が終わっていく
年を取ってしまうことほど、悲しいものはない
こんにちは 蓬田です!
この歌、女性の実感なのかもしれないですけれど、歌を聞いた人(特に男性)からのウケを狙ってるんじゃないかと思ったりもします。
今でいえば、ウケ狙いの自虐ネタというところでしょうか?
和泉式部は恋愛遍歴が多い人で、天然なのか努力して身につけたのかは分かりませんが、男からの関心を惹きやすい女性だったのではないかと、この歌から想像してしまいました。
妻にいわせると「そんなことはない!」「自虐ネタで男からの関心は引き寄せない!」と強く反論がありましたが。。。
今と違って、当時、和泉式部が活躍した環境は貴族サロンとかで、紫式部や清少納言のように、たちに囲まれて生活し歌を詠んでいた環境ではなくて、恐らく和泉式部のほかは男ばかりだったろうと推測しましたので、こんな風に考えたのです。
この歌は「新古今和歌集」冬の巻に収められています。
【秋の和歌】川風の すずしくもあるか 紀貫之
皆様こんにちは
宮川です。
今回も、秋の和歌を鑑賞して参りましょう!
川風(かわかぜ)の すゞしくもあるか
うちよする 浪(なみ)とゝもにや 秋(あき)はたつらむ
作者は、平安時代前期から中期にかけての貴族、紀貫之です。
この作品は貫之が撰者を務めた古今和歌集の巻第四・秋歌上に収められています。
歌の前には
秋立日、うへのをのこども、加茂の川原に川逍遥しける、ともにまかりて、よめる
という詞書(ことばがき)があります。
立秋の日、殿上の男ども、賀茂の河原に河遊びした供に参って詠んだ歌です。
歌の意味は
吹いてくる川風、涼しいことよ
この風に吹かれて打ち寄せる波とともに、秋は立つのだろうか
「うちよする」は「打ち寄せる」の意味です。
「秋立日」は立秋のことで、太陽暦では8月7日ごろです。この日から立冬(11月8日ごろ)の前日までが秋です。
「立つ」は秋が「立つ」のと、波が「立つ」のとを掛けています。
季節の変わり目が見つかると、うれしいものですよね。
私は「秋が立つ」という言い方は、ちょっと新鮮な表現に感じました。
そういえば昔、松田聖子の名曲にも「風立ちぬ」がありましたね。
季節や自然現象は「立つ」という表現もするのですね。
昔の言い方を勉強すると、感性も豊かになっていくような気がします。
これからも素敵な歌を、ご一緒に鑑賞して参りましょう!