姥捨から名付けられた『更級日記』というタイトル
文・M&C編集部
僕はタイトルが持つ力を信じている。それはちょっとした呪文のようなもので、口にした瞬間に別の場所へと意識を運んでしまうのだ。
『更級日記』には、作品のなかに「更級」ということばは出てこない。
どうして「更級日記」と呼ばれているのか。
それは、作品の終盤に出てくる「月も出でで 闇にくれたる姨捨に なにとて今宵 たづね来つらむ」という歌による。
作者の菅原孝標の女が、歳を重ねてひとり寂しく暮らしているところに、甥が訪ねてくる。
そのとき甥に向けて詠んだ歌だ。
『古今和歌集』の一首「わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を本歌取りしている。
信濃の更級には、姨捨山の話が伝わる。
母親を亡くした男が、母親代わりに育ててくれた伯母を、妻から責められ、山に捨ててしまう話だ。
こんな話は聞くだけで胸がざわつく。
ただこの話には救いもあって、男は夜空に浮かぶ月を見ると、伯母を山に捨て置くことは忍びず、連れて戻る。
月の光がこの残酷な話に安らぎを与える。
話を日記のタイトルに戻して、後世、この日記を読んだ人々は、作品終盤に出てくる「更級」の言葉に、特別な感情を抱いたに違いない。
いつからともなく、読者のひとりが、この日記を『更級日記』と名付けた。その人はおそらく、この日記作品が「闇にくれたる姥捨」の歌の場面にきたとき、これこそがこの日記の核心だと感じたのだ。
名前ひとつで作品の輪郭が決まることもある。これはその典型だ。
『古今和歌集』における撰集方針と天皇中心の新秩序 ――王権の文化的正統性と国風和歌の確立――
はじめに
『古今和歌集』(以下、古今集)は延喜五年(905年)、醍醐天皇の勅命によって撰進された最初の勅撰和歌集である。
その背景には、律令国家から王朝国家への移行という大きな時代的変化があり、古今集の撰集は単なる歌の編集作業ではなく、天皇を中心とする新たな文化的・政治的秩序の構築作業であった。
本稿では、古今集の撰集方針とその中に見られる天皇制との関係について、具体的な作品や制度的背景をもとに考察し、和歌がいかにして王権の文化的正統性を支える装置となったのかを明らかにする。
一、勅撰和歌集の制度化とその政治的背景
『古今和歌集』は、天皇の命令により国家的事業として和歌を撰集する「勅撰集」の最初の事例である。
それ以前の和歌集、たとえば『万葉集』や『伊勢物語』は個人や集団による自発的な編纂であったが、古今集は国家権力、すなわち天皇の意思によって企画された。このような和歌の制度化には、当時の政治情勢が深く関与している。
9世紀末から10世紀初頭の日本は、藤原氏を中心とした摂関政治の成立と、律令制の弛緩という時代であった。
こうした中、天皇の文化的権威の再構築が求められ、王権の神聖性を支えるために「日本固有の文化」である和歌が再評価されていった。
すなわち、古今集の成立は、漢詩を中心とした中国的教養から脱却し、天皇を中心とする新たな国風文化の創出というイデオロギー的要請によって支えられていたのである。
二、撰集方針に見る「王権的秩序」の反映
古今集の撰者は、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の四名であり、いずれも歌壇における実力者であるとともに朝廷に仕える文人であった。
彼らは、約1100首に及ぶ和歌を収録し、それを四季・賀・離別・恋・哀傷などの部立て(部類分け)によって整然と分類した。
これは、和歌に秩序を与え、天皇を中心とした儀礼や感情の体系を可視化し、序列化する行為であった。
【事例:賀歌における天皇賛美】
賀歌の部に収められた和歌の多くは、天皇の寿命・国家の繁栄・四季の循環といったテーマが中心であり、これは儒教的・道教的な皇帝賛美の型を踏襲しながらも、和歌という日本語の形式で表現されている。たとえば、紀貫之の賀歌に次のような一首がある。
世の中を
まもるしるしに
なりぬべし
神の御代より
いでし宝は
(巻第六・賀歌)
この歌は、「神の御代」=天皇の治世が「宝」であると詠んでおり、天皇の存在そのものが世界の秩序を保つ象徴であるという世界観が表れている。ここには、和歌を用いた文化的な王権正当化の装置としての意識が見て取れる。
三、和歌と天皇を中心とした儀礼の接続
古今集の撰集とほぼ同時期、宮中の年中行事や儀礼における和歌の使用が制度化されていく。たとえば「屏風歌」や「歌合」などの形式において、和歌が儀礼的な場面での必須の要素となっていく。
これにより、天皇や貴族が和歌を詠むことが、政治的・社会的な「パフォーマンス」として機能するようになる。
【事例:昌泰の変と和歌文化】
また、古今集の成立時期には、藤原時平と菅原道真の対立(昌泰の変)など、宮廷内の権力争いが激化していた。こうした時代において、和歌は政治的中立性を保ちながら、天皇を中心とする秩序回復の象徴として活用された。
歌壇の世界においても、和歌の技巧や教養が忠誠心や礼節の象徴とみなされ、官人の人事評価にも影響を与えたことが記録されている(『江談抄』などを参照)。
四、古今集の構成と「日本」意識の形成
古今集では、『万葉集』以来の古典的歌から、当代の新作歌に至るまでの和歌が体系的に編纂されている。これにより、和歌という形式が持つ歴史性と連続性が明示され、日本文学における「伝統の創出」が図られた。
このような編集方針は、天皇の統治が過去から未来へと連なる正統な系譜であるという思想と重なっている。
【事例:柿本人麻呂と和歌の祖】
仮名序では、古代の歌人・柿本人麻呂が「歌聖」として言及され、和歌の歴史を支える祖として顕彰されている。これは、和歌の歴史を天皇を中心とする歴史に接続する意図であるといえる。
五、和歌における「統制」と「自由」の交錯
古今集の撰集方針は、和歌にある種の典型性・様式性を強く要求している。たとえば、季節感、詞の綾(掛詞、縁語)、恋の段階的表現などが一定のパターンに沿って構成されており、それが儀礼的な場での使用に適した言語秩序を形成している。
これは、和歌を文化的表現としてだけでなく、制度化された言説装置とする国家的意図の反映である。
一方で、撰者たちはその中で個性や感情の表現を工夫し、和歌の「自由」や「創意」を保とうとしていた。その最たる例が、紀貫之による仮名序である。
仮名序は、和歌を「人の心の発露」として定義し、天皇を中心とする新たな枠組みの中でも文学が個人的感情の表現であることを忘れてはならないと訴えているとも解釈されうる。
おわりに
『古今和歌集』は、日本における勅撰和歌集の嚆矢として、その後の文学・文化に多大な影響を与えたが、その成立の背後には、天皇制の文化的正統性を確立・可視化しようとする明確な政治的意図が存在していた。
撰集方針における部類構成、歌の選定、文体の統一、そして儀礼との接続といった編集方針は、すべて天皇を中心とした秩序ある社会の演出に寄与している。
和歌はこの時代、「詩」としての美的実践であると同時に、「政治」としての秩序装置であった。古今集の撰集方針と天皇を中心とする新秩序との関係を理解することは、和歌を単なる文学作品として見るのではなく、国家的文芸政策として捉える視点を持つことに他ならない。
(M&C編集部 2025/8/3)
参考文献
久保田淳『古今和歌集全注釈』角川書店、1999年
鈴木日出男『古今和歌集の世界』岩波新書、2002年
小松英雄『和歌の構造と展開』笠間書院、1990年
佐佐木恵子「古今集撰集と天皇制文化の形成」『日本文学研究』第87号、2015年
岩佐美代子『古今和歌集と平安文学』明治書院、2007年
春の名歌10選
和歌を読むと、日本の文化、美意識、日本人の気持ちがとてもよく分かる。
奈良時代という遠い昔に詠まれた歌も残っている。
それからずっと今に至るまで、人々は歌を詠んできた。
この偉大な文化財産に触れないのはもったいないと思う。
わたしの和歌アンソロジーである。
☆ ☆
春の野に
すみれ摘みにと
来(こ)し我ぞ
野をなつかしみ
一夜(ひとよ)寝(ね)にける
山部赤人
●現代語訳
春の野に
すみれ摘もうと来たわたし
野辺の様子があまりに美しく
一晩を野で明かしてしまった
●語句
・なつかしみ
美しい、心惹かれる
●鑑賞
春先に野に出て若菜を摘むのは、大地のエネルギーに触れる神聖な儀式とでもいえるものであった。
☆ ☆
梅の花
今盛りなり
おもふどち
かざしにしてな
今盛りなり
筑後守葛井大夫(ふぢゐのだいぶ)
●現代語訳
梅の花は
今が盛り
親しい皆様
髪に挿しましょう
今が花盛り
●語句
・おもふどち
気の合った人、親しい人
●鑑賞
春になると、男女は野に出て、咲く花を摘んで髪に挿して飾った。
植物の生命力を自身に取り込もうとしたのだ。
万葉集以前の古代人の話である。
この時代になっても、その風習は残っていた。
大地のエネルギーを取り込もうとするより、風流な遊びとしてであるが。
☆ ☆
ひさかたの
光のどけき
春の日に
しづ心なく
花の散るらむ
紀友則
●現代語訳
日の光がこんなにも
のどかに照っている春の日
桜の花はどうして落ち着かない様子で
散っているのだろう
●語句
・光のどけき
「のどけき」は、のんびりとしている様子。
・しづ心
漢字で書けば「静心(しづごころ)」で、「落ち着いた心」という意味になる。
●鑑賞
柔らかな春の日差しの中、桜の花びらはせわしなく散っていく。
眼前に情景がぱっと広がるとてもビジュアル的な歌である。
同時に、散り行く桜への哀愁や、人生の無常観も感じられる。
☆ ☆
おもふどち
春の山べに
うちむれて
そこともいはぬ
旅寝(たびね)してしが
素性法師(そせいほうし)
●現代語訳
仲の良い友人同士
春の山辺に
連れだって
どこということもなしに
旅寝をしたい
●語句
・おもふどち
仲の良い友人同士。
・そこともいはぬ
どこということもなく。
・旅寝(たびね)
旅に出て寝ることだが、遠くへ旅立つだけでなく、近所に行って自宅以外で寝ることも旅寝といった。
・しが
願望を表す。
●鑑賞
仲の良い友人同士で、春の山辺に連れだって行って、場所も特に決めずに行った先で、楽しくひと晩を明かしたいものだ、という内容で、特に深い意味は込められていない。
内容は深くはないが、素直な情緒が込められていて、当時の貴族の雰囲気がしのばれる。
☆ ☆
春の夜の
夢の浮橋
とだえして
峰にわかるる
横雲の空
藤原定家
●現代語訳
春の夜の
儚い夢から
目覚めると
山の頂から
横にたなびく雲が離れていく
●語句
・夢の浮橋
夢の中に出てきた、浮橋のようにあぶなっかしい渡り道。
あるいは、浮橋のように揺れる、はかない夢。
わたしは、この「夢の浮橋」のように、言葉の意味をぎゅっと凝縮したような語句が、とても和歌らしく思えて好きなのだ。
・峰に別るる
解釈が分かれる言葉である。
ひとつは「峰から雲が離れていく」という意味。もうひとつは「雲が峰によって分断され、左右に別れていく」という意味だ。
どちらにしても「離れ離れになる」というイメージである。
・横雲の空
横にたなびくように広がる雲。これも「横」「雲」「空」というみっつの言葉が凝縮して意味を作り上げている、とても和歌らしい言葉であり、わたしは好きなのだ。
●鑑賞
一見すると、朝起きて、目の前にある山と雲の様子を詠んだだけの歌だ。
しかし、この歌には、恋しく思う人と離れ離れになって会えない苦しさや切なさが表現されている。
「春の夜」「夢の浮橋」「わかるる横雲の空」などのフレーズは、はかなさ、頼りなさなどを思い起こさせ、幻想的、夢幻的な雰囲気を漂わせている。
わたしは、こういう幻想的な歌が好みである。
☆ ☆
さくら花
ちりぬる風の
なごりには
水なき空に
波ぞ立ちける
紀貫之
●現代語訳
桜の花が散っていく
その風の“なごり”には
まるで水が無い空に
波が立っているようだ
●語句
・なごり
桜の花が散ったあとの「余韻」と考えれば、少しは分かりやすいと思います。
風が吹いて花びらを散らせた。風はやんだが、枝から離れた花びらは、ひらひらと空(くう)を舞っている。
その状況を、風がやんだあとにも残っている波のようだと表現しているのだ。
●鑑賞
この歌の鑑賞ポイントは、花が散っている状態を「水がない空に波が立っている」状態に見立てていることに気づくかどうかだ。
もう少し細かくいうと、空を海に、花びらを波に見立てている。
「見立て」とは何か?
「比喩」とはどう違うのか?
比喩とは、あるものを別のものになぞらえることだ。
例えば「君は僕の太陽だ」が比喩である。
見立てとは、あるものが別のものであるかのごとく表現することだ。
柳を糸としてみたり、雪を花としてみたり、これらは日本文学を大いに発展させた。
文学だけでなく、落語でそばを食べるとき、扇子を箸として演じるのも見立てである。
見立ては、日本の文学と文化には欠かせないものなのである。
☆ ☆
春ごとに
花のさかりは
ありなめど
あひ見むことは
命なりけり
●現代語訳
春が来るごと
見事な花を咲かせるのだろう
それに比べて
花を見る人のほうは
毎年咲く花に出会うことは
生きているからこそ
●語句
・ありなめど
あるだろうけれど
●鑑賞
春になると花は咲き誇るけれど、それを愛でることができるのは命あってこそだ。
作者自身、間もなく訪れる死を感じ取っていたのであろうか。
☆ ☆
鶯の
声なかりせば
雪消えぬ
山里いかで
春を知らまし
藤原朝忠
●現代語訳
もしも鶯が
鳴かなかったら
雪が消え残る山里は
どうして春の到来を知ろうか
●語句
・春を知らまし
直前の「いかで=どうして」と呼応して、春を知ることはないでしょう、という反語の表現。
●鑑賞
山では、春の季節になったといっても、雪がまだ残っているほど寒い。
そんなところでは景色を眺めても春の兆しは感じられない。
でも鶯の声を聞けば、春の到来を実感できる。
視覚は冬、聴覚は春を感じているのである。
☆ ☆
春の鳥
な鳴きそ鳴きそ
あかあかと
外(と)の面(も)の草に
日の入(い)る夕(ゆうべ)
北原白秋
●現代語訳
春の鳥よ
そんなに鳴かないでおくれ
外の草原(くさはら)に
あかあかとした夕日が
沈もうとしている
●語句
・な鳴きそ鳴きそ
鳴かないでおくれ、という意味。
「な」~「そ」で禁止を表現する。
●鑑賞
わたしは春が嫌いである。
どうしてか。
春の温かい風を感じると、理由は分からないが不安になり、死にたくなるのである。
特に夕焼けを見ると、胸が張り裂けそうになり、いたたまれなくなる。
だからこの歌は、実感を伴って鑑賞できる。
☆ ☆
いたつきに
三年こもりて
死にもせず
又命ありて
見る桜かな
正岡子規
●現代語訳
病気となって
三年間もこもっていたけど
死ぬこともなく
また命がつながり
見ることができた桜よ
●語句
・いたつきに
病気で
●鑑賞
子規は結核を患い、徐々にほかの病気にもなり、晩年は寝たきりになった。
寝たきりの自分が、死にもせずまた桜が見られたと、自虐的に詠っているけれど、それでいてどこかユーモア味もある。
【夏の歌】塵をだに 躬恒
となりより常夏(とこなつ)の花をこひにおこせたりければ、
惜しみてこの歌をよみてつかはしける
塵をだに
すゑじとぞ思ふ
咲きしより
妹(いも)とわが寝る
とこ夏の花
躬恒
古今和歌集、巻三夏に所収されている歌です。
この歌はユーモラスで面白い歌です。
まずは意味を確認しましょう。
詞書は、このようなことが書かれています。
隣の家から、我が家のなでしこの花をくれてくれないかと手紙が来た。
差し上げるのはもったいなくて、この歌を詠んで家の者に持って行かせた。
歌の意味はこんな感じです。
咲いたときから
ほんの少しの塵も
積もらせないようにしているのです
妻とともに寝るとこ(=常夏の花)の上には
「常夏の花」は、なでしこです。
結句にある「とこ」は、「常夏の花」と寝床の「床」との掛詞です。
夫婦の寝床に塵が積もるとは、夫婦仲が疎遠であることの象徴です。
隣の家から常夏の花がほしいと言われたこの家の主人は、
「我が家の寝床は塵が積もっていませんよ。
そんな大事な寝床(=常夏の花)を差し上げることはできません」
とユーモアを交えて断っています。
「寝床の塵を払う」という表現は、この時代すでに、夫婦仲が円満に続くことを願う定型の文句でした。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【夏の歌】はちす葉の 僧正遍昭
はちすの露をみてよめる
はちす葉の
にごりにしまぬ
こころもて
なにかは露を
玉とあざむく
僧正遍昭
古今和歌集、巻三夏に所収されている歌です。
歌の意味ですが、ちょっと分かりにくいかもしれませんね。
意味を確認しましょう。
蓮の葉に置かれた露を見て詠んだ歌
蓮の葉は
泥の濁りに染まらない
清らからな心をもっている
それなのにどうして
葉に置かれた露を
玉と見せかけて
人を欺くのだろうか
この歌は「蓮」を見て詠っているのですが、「にごりにしまぬこころ」とは、泥のなかから生えて、美しい花を咲かせる蓮のけがれのないこころを示しています。
わたしにとって蓮といって思い出すのは、上野公園の不忍池に群生している蓮です。
若い頃は上野公園はまったく縁のない場所でしたが、年を経るにつれて、上野彰義隊とか上野大仏とかの歴史遺跡を見に行ったり、上野公園には立派な美術館がいくつもありますから、展覧会を見に行ったりと、よく行く場所のひとつになりました。
不忍池の蓮は泥のなかから生えていません。水のなかから生えています。
一般に蓮は泥水から生えているのだそうです。
わたしはそういう印象は蓮に持っていないです。
この歌は「泥から生えている」と詠っていますが、正確には「泥水から生えている」ですね。
それで、そういう濁った汚い泥水から生えているのだけれど、泥に汚れず清らかな美しい花を咲かせます。
なので、蓮は清らかなこころを象徴しています。
わたしはこういう、自然の摂理を人間の側が都合よく解釈して接するという姿勢は割と好きです。
このように、もともとは「花」が美しく清らかであることを象徴しているのですが、この歌では、花を葉に変えて詠っています。
蓮は人を騙すことなんてしないはずなのに、どうして葉に置かれた露を玉だと偽っているのかと、軽妙な感じで表現しているのが面白いです。
遍昭は高僧でしたが、仏のこころの象徴である蓮を素材にして戯れているような雰囲気が伝わってきます。
この歌からを口ずさむと、遍昭の人となりに触れた思いがします。
遍昭は面白い人で、この歌のほかにもこんな洒落たセンスの歌を詠んでいます。
天つ風
雲の通い路
吹きとぢよ
をとめのすがた
しばしとどめむ
「古今和歌集」巻十七雑歌上に入っている歌です。
「小倉百人一首」にも選ばれているから知っている人も多いでしょう。
意味はこんな感じです。
五節(ごせち)の舞姫を見てよめる
天の風よ
雲のなかにある通り道を
吹き閉ざしておくれ
乙女の美しい姿を
しばらく地上に留めておきたいから
当時、五節の舞姫は天女に見立てられていました。
目の前で舞っている乙女たち(天女)があまりに美しいので、天に帰ってほしくない。
天に帰る通り道は雲のなかにあるのですが、その道を風で吹き閉ざしてほしいと天の風にお願いしています。
仏に仕える身なのに、こんなこと考えていいのか、と思っていたら、この歌は「良岑宗貞」という俗名で詠っており、出家する前の歌だと知って、納得しました。
それにしても、遍昭(良岑宗貞)のセンスは意表をついて、おしゃれで、わたしは好きです。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
The Scent of Tachibana Orange
Tachibana orange trees wait until May to bloom
When I smell the scent of Tachibana orange
A lover I used to have a close relationship with
I remember the perfume on her sleeve
Translation into English by YOMO
等待五月
橘花盛開
我聞到橘花的香味
一個我曾經很親近的女人
我記得她袖子上的香水
YOMO翻譯成中文
五月待つ
花橘の
香をかげば
昔の人の
袖の香ぞする
よみ人知らず
古今和歌集 巻第三 夏
【夏の歌】五月待つ よみ人知らず
五月待つ
花橘の
香をかげば
昔の人の
袖の香ぞする
よみ人知らず
古今和歌集、巻三夏に所収されている歌です。
歌の大意は読んでそのまま、簡単に取れますね。
意味を確認しましょう。
五月を待って咲くという
橘の香りをかぐと
昔親しかった人の
袖の香りを思い出す
橘の花は、万葉の時代から、花、葉、実の美しさが際立ち、ときを越える存在と考えられていました。
この歌は橘の不変のイメージを、懐かしさへと転用して詠っています。
「五月待つ」は、橘の花は五月になってから咲くという考え方を表しています。
「昔の人」は、詠者が昔かかわった恋人でしょう。
「袖の香」は、袖に焚き染めた香り。橘は香木ではないので、橘そのものの香りではなくて、橘に似た香りを焚き染めたと思われます。
香り、匂いは、記憶を瞬間的に呼び覚まします。
わたしは、街なかを歩いていて、ふとどこからか漂ってきた匂いを嗅いだとき、20年も30年も前の記憶を突然思い出した経験が何度もあります。
平安時代の歌人たちもこの歌に大変共感したらしく、この歌はたくさんの本歌取りを生みました。
「伊勢物語」六十段では、別れた夫が元妻に向けてこの歌を詠んでいます。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
Farewell Poem “I say goodbye to you today” Kino Toshisada
KYO WAKARE
ASUWA OMITO
OMOEDOMO
YOYA FUKENURAMU
SODENO TSUYUKEKI
Kino Toshisada
This poem is included in Kokin Wakashu, Volume 8 Farewell.
First, let’s check the meaning of this poem.
Kino Toshisada composed a farewell poem at the farewell banquet for Fujiwara Kiyofu when he was appointed as Afuminosuke at the house of Imperial Prince Sadatoki.
I say goodbye to you today
Tomorrow you are leaving for Omi.
Omi is also known as ”Meet You Again”
It must have been nightfall
The sleeves of my garment
Getting wet from the night dew
Imperial Prince Sadatoki was the seventh prince of Emperor Seiwa.
It is unknown why Fujiwara Kiyofu’s farewell banquet was held at the residence of Imperial Prince Sadatoki.
“Omi” is a combination of “we will meet again” and “the place name of Omi”.
“Tsuyukeki” refers to the state of being wet with dew.
The sleeves of his garment was wet from the tears of goodbye, but I guess he insisted that it was from the night dew.
The poet, Kino Toshisada, insists that since Omi is nearby, we will be able to meet again, and I’m not so sad.
I can picture Toshisada’s face smiling as hard as he could while crying.
【悲しみの歌】きょう別れ 紀利貞
貞辰親王(さだときのみこ)の家にて藤原清生(きよふ)が近江介(あふみのすけ)にまかりけるときに、むまのはなむけしける夜よめる
きょう別れ
あすはあふみと
思へども
夜(よ)やふけぬらむ
袖の露けき
紀利貞
古今和歌集、巻八離別歌に所収されている歌です。
まず歌の意味を確認しましょう。
貞辰親王(さだときのみこ)の家で、藤原清生(きよふ)が近江介(あふみのすけ)として赴任するときに、送別の宴を開いた夜に詠んだ歌
あなたとはきょうでお別れ
あすは「会う身」という名の
近江へと旅立つのですね
夜がふけてきたのでしょう
わたしの衣の袖が
夜露で濡れてきました
詞書にある貞辰親王(さだときのみこ)は、清和天皇第七皇子でいらっしゃいます。
藤原清生(きよふ)の送別の宴が、どうして貞辰親王の邸宅で宴が開かれたのかは不明です。
「むまのはなむけ」は、送別の宴のこと。
もともとは、旅立つ人の馬の鼻を、旅立つ方向へと向けたことから、こう呼ばれるようになりました。
「あふみ」は、「会う身」と「近江(あふみ)」の掛詞。
「露けき」は、露で濡れている状態のこと。
別れの涙で濡れたのですが、夜露で濡れたと強がっているのでしょう。
詠者の紀貞利は、近江は「近い」のだから、また会えるしそんなに悲しくないと、虚実あい混じる気持ちを詠いながら、涙で濡れた服の袖を、夜露で濡れたと強がっています。
わたしには、泣きながら精一杯の笑顔を作っている貞利の顔が思い浮かぶようです。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【別れの歌】立ち別れ 在原行平朝臣
題しらず
立ち別れ
いなばの山の
峰に生(お)ふる
まつとし聞かば
いま帰り来む
在原行平朝臣
古今和歌集、巻八離別歌の巻頭に所収されている歌です。
編者たちは巻頭に置く歌に、自分たちの想いを込めているはずです。
国文学の研究者たちは、どんな想いが込められているのかを研究しているのかもしれません。
そうした学問的なアプローチとは別に、わたしたちが「どうしてこの歌が巻頭に置かれているのだろう?」と、人それぞれに考えることは、「古今和歌集」に接するとき、意義あることでしょう。
皆さん、歌の意味が理解できましたでしょうか。
この歌は、わたしたち現代に生きる人にとって馴染のない、和歌独特の掛詞が使われていますので、意味が取りにくかったと思います。
歌の意味を確認しましょう。
題知らず
これでお別れですね
わたしは因幡の国へ赴任します
因幡の山には松の木が育っているでしょう
その松にちなんで
わたしの帰りを待っていてくださると
聞いたならば
すぐにでも帰ってまいりましょう
詞書にある「題知らず」は、「歌の題が分からない」という意味ではありません。
平安時代は「歌合せ」と呼ばれる歌会が盛んに行われていましたが、そうした歌会で詠われた歌ではないということです。
また、お題を与えられて詠われた歌でもありません。
つまりは、歌ができた背景がよく分からないという意味です。
「いなば」は、「去(い)なば」と「因幡(いなば)」の掛詞。
「今」は、今すぐの意味。
作者の行平は斉衡二年(855)、因幡守になっています。
行平はこの歌を、因幡に赴くときの送別の宴で詠んだのでしょう。
「いなば」「まつ」という掛詞が使われていて和歌らしい和歌だと思います。
それと、詠みぶりから「できたら赴任したくない」という気持ちが見え隠れてしているようにも感じます。
当時の貴族たちは、都を離れるのを嫌がっていたのが分かるようで、とても興味深いです。
古今和歌集の編者たちは、そうした貴族に共有する気持ちを詠った歌として、巻頭に置いたのかもしれません。
(とはいうものの、地方に行けば経済的な旨みがあったり、のんびり暮らせたりと、地方に行くことを肯定的に捉えていた貴族もいたのかもしれませんが、「都を離れるのはつらい」という定型の想いが、好んで和歌に詠まれたとも思われます)
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
