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【夏の歌】はちす葉の 僧正遍昭



はちすの露をみてよめる

はちす葉の
にごりにしまぬ
こころもて
なにかは露を
玉とあざむく

僧正遍昭

古今和歌集、巻三夏に所収されている歌です。

歌の意味ですが、ちょっと分かりにくいかもしれませんね。
意味を確認しましょう。


蓮の葉に置かれた露を見て詠んだ歌

蓮の葉は
泥の濁りに染まらない
清らからな心をもっている
それなのにどうして
葉に置かれた露を
玉と見せかけて
人を欺くのだろうか

この歌は「蓮」を見て詠っているのですが、「にごりにしまぬこころ」とは、泥のなかから生えて、美しい花を咲かせる蓮のけがれのないこころを示しています。

わたしにとって蓮といって思い出すのは、上野公園の不忍池に群生している蓮です。

若い頃は上野公園はまったく縁のない場所でしたが、年を経るにつれて、上野彰義隊とか上野大仏とかの歴史遺跡を見に行ったり、上野公園には立派な美術館がいくつもありますから、展覧会を見に行ったりと、よく行く場所のひとつになりました。

不忍池の蓮は泥のなかから生えていません。水のなかから生えています。

一般に蓮は泥水から生えているのだそうです。

わたしはそういう印象は蓮に持っていないです。

この歌は「泥から生えている」と詠っていますが、正確には「泥水から生えている」ですね。

それで、そういう濁った汚い泥水から生えているのだけれど、泥に汚れず清らかな美しい花を咲かせます。

なので、蓮は清らかなこころを象徴しています。

わたしはこういう、自然の摂理を人間の側が都合よく解釈して接するという姿勢は割と好きです。

このように、もともとは「花」が美しく清らかであることを象徴しているのですが、この歌では、花を葉に変えて詠っています。

蓮は人を騙すことなんてしないはずなのに、どうして葉に置かれた露を玉だと偽っているのかと、軽妙な感じで表現しているのが面白いです。

遍昭は高僧でしたが、仏のこころの象徴である蓮を素材にして戯れているような雰囲気が伝わってきます。

この歌からを口ずさむと、遍昭の人となりに触れた思いがします。

遍昭は面白い人で、この歌のほかにもこんな洒落たセンスの歌を詠んでいます。

天つ風
雲の通い路
吹きとぢよ
をとめのすがた
しばしとどめむ

「古今和歌集」巻十七雑歌上に入っている歌です。

「小倉百人一首」にも選ばれているから知っている人も多いでしょう。

意味はこんな感じです。


五節(ごせち)の舞姫を見てよめる

天の風よ
雲のなかにある通り道を
吹き閉ざしておくれ
乙女の美しい姿を
しばらく地上に留めておきたいから

当時、五節の舞姫は天女に見立てられていました。

目の前で舞っている乙女たち(天女)があまりに美しいので、天に帰ってほしくない。

天に帰る通り道は雲のなかにあるのですが、その道を風で吹き閉ざしてほしいと天の風にお願いしています。

仏に仕える身なのに、こんなこと考えていいのか、と思っていたら、この歌は「良岑宗貞」という俗名で詠っており、出家する前の歌だと知って、納得しました。

それにしても、遍昭(良岑宗貞)のセンスは意表をついて、おしゃれで、わたしは好きです。

古今和歌集について

「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。

四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。

日本人の美意識を決定づけた和歌集である。

醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。

ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。

撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。

その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。

古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。

その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。

世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。

世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。




Posted on 2024-04-25 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed
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