【春の歌】はるきぬと 人はいへども 鶯の 壬生忠岑(みぶのただみね)
はるきぬと 人はいへども
鶯の なかぬかぎりは あらじとぞおもふ
壬生忠岑(みぶのただみね)
(口語訳)
春が来たと世間の人は言うけれど
鶯が鳴かないうちは、まだ春ではないと思う
忠岑の熱い気持ち?!
鶯は春の到来を告げる鳥です。春といえば鶯。鶯といえば春。
和歌の世界、貴族の世界、雅の世界ではそういうことになっています。「型」みたいなものです。
歌の前半の「春が来たと世間の人は言うけれど」という部分は、ふたつの意味にとれます。
ひとつは、暦の立春となったこと。
もうひとつは、まだ立春にはなっていないけれど、春の気配になったと周りの人が言っていること。
どちらかは、歌からは分からず、作者に聞いてみないと何ともいえないと思います。
さらに、後半の「鶯が鳴かないうちは、まだ春ではない」も、ふたつの気持ちが重なっているようです。
ひとつは、鶯が鳴かないと春とは思えない、という気持ち。
もうひとつは、鶯が鳴くのを待っている、はやく鳴いてくれ、という気持ちです。
どちらの意味かを追求するよりも、歌の醸し出す、忠岑の気持ちの勢いみたいのを味わったほうがいいと思っています。
「春きぬ」と「春こぬ」
念のためですけれど、古典文法の話です
「ぬ」は誤読しがちなことばです。
「春来(き)ぬ」は「春が来た」という意味ですが、「春がこない」という否定の意味と混同することがあります。
例えば、「風立ちぬ」は、風が吹いたのか、吹かなかったのか、よく分からないという思いをした人、少なくないのではないでしょうか。
「春来ぬ」は、春が「来た」です。「ぬ」は完了の助動詞です。
もし否定の意味の「ぬ」でしたら、「春来(こ)ぬと」となります。
謎多き(?!)人物・壬生忠岑
作者の壬生忠岑は生没年不詳で、どのような人生を送ったかは、おおおその職歴が分かる程度で、詳しくは分かっていません。
若い頃は六衛府(宮中および天皇や皇族の警護にあたる武官)の位が低い武官でした。
その後、御厨子所(みずしどころ 宮中で天皇の食事や節会 (せちえ) の酒肴 (しゅこう) をつかさどった所)などを経て、摂津権大目(せっつのごんのだいさかん)になったと「古今和歌集目録」にあります。
摂津権大目ですが、国司の位のひとつです。国司は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)に分かれ、目は主に文書の記録や公文書の草案作成などを担当しました。
しかし、「歌仙伝」や「忠見集」には、御厨子所や摂津権大目の官職は息子の忠見のものとあり、忠岑の官職で確実なのは「古今和歌集」の「仮名序」にある、武官の右衛門府生です。
忠岑は「古今和歌集」撰者のひとりです。「古今和歌集」の「仮名序」に仕事は右衛門府生とありますから、撰者のときは右衛門府生であったのでしょう。
息子の忠見が摂津権大目などを務めたとすると、晩年には事務方へ移ったのかもしれません。でも、史料が残っていませんので、官位は低いままであった可能性は高いです。
忠岑は「古今和歌集」に34首、勅撰和歌集全体では81首が入首されています。
家集「忠岑集」もあり、「古今集」撰者でもある、当代を代表する歌人であったわけです。
それにもかかわらず官位は低いままであることを考えると、よく出世するためには歌の力が必要、といわれることがありますが、官位と歌の実力は比例しないのが、忠岑のケースで分かります。
(M&C蓬田)