春の歌 「花の色は 移(うつ)りにけりな」 古今和歌集 小野小町
[訳:蓬田修一]
花の色は 移(うつ)りにけりな いたづらに
わが身よにふる ながめせしまに
古今和歌集 小野小町
[現代語訳]
花の色は むなしくあせてしまった
春の長雨に なげき悲しんでいる間に
古今和歌集 小野小町
[ひとこと解説]
「いたづらに」はむなしくの意味。このことばは現代語訳にあるように、前の部分「花の色はうつりにけりな」にかかっているだけでなく、後半「わが身よにふる ながめせしまに」にもかかっている。
「ふる」は雨が降ると、経るの意味が重なっていることば。「ながめ」は長雨と、物思いにふけってながめているの意が重なっている。
この歌は古くから「よにふる」を、この世でふるびてしまったという意味にとって、絶世の美女小野小町が自分の容貌が衰えてたのを詠ったと解釈されてきた。
「よ」には、この世という意味のほかにも、男女の仲という意味もある。
そうすると「春の長雨が降っている間、うまくいかない恋をなげいていた。その間に花は色あせてしまった」と詠っているとも解釈できる。
こう解釈したほうが、美女である小野小町にふさわしい気がする。
春の歌 「さくら花 散りぬる風の」 古今和歌集 紀貫之(きのつらゆき)
[訳:蓬田修一]
亭子院歌合(ていじゐんのうたあわせ)の歌
さくら花 散りぬる風の なごりには
水なき空に 波ぞ立ちける
古今和歌集 つらゆき
[現代語訳]
亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)の歌
桜の花が (風に吹かれ)散ってしまった その風は過ぎ去っていったが 後にはなお風の余韻が残っている
風の余韻の残る水のない空に 波が立った(=花びらがひらひらと舞った)
古今和歌集 紀貫之(きのつらゆき)
[ひとこと解説]
三句目の「なごり」は、風が吹き去った後に、まだしばらく立っている波のこと。もともと、なごりは波の余波という意味。
この歌のなごりは、風がやんだ後に残っている余韻のこと。
「水なき空」というのが、とても印象的な表現。
水という言葉が使われているのは、なごりの本来の意味が波の余波ということだから。
その水がない空に、波が立った。ここの波とは、桜の花びらのこと。
桜の花が風に吹かれ、風が吹き去った後も、空にはらはらと舞っていてる。その様子を、水などないはずの空に波が立ったと表現している。
風に散らされた桜を詠った歌は数多くあるが、貫之ならではの技巧と感性が感じられる作品だ。
春の歌 「ひさかたの 光のどけき」 古今和歌集 紀友則(きのとものり)
[訳:蓬田修一]
桜の花の散るをよめる
ひさかたの 光のどけき 春の日に
静心(しずこころ)なく 花の散るらむ
古今和歌集 紀友則(きのとものり)
[現代語訳]
桜の花が散るのを詠んだ歌
日の光がのどかにふりそそぐ 春の日
どうして桜の花は落ち着かずに次々と 散っていくのであろうか
古今和歌集 紀友則(きのとものり)
[ひとこと解説]
「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞(まくらことば)。「静心(しずこころ)」は静かな心という意味。「静心(しずこころ)なく」は、静かな心がない、せわしない、落ち着きがないということ。
最後の「らむ」は普通、「今~しているだろう」という現代語訳で「現在推量」の意味になる。しかし、ここでは「どうして」というニュアンスが含まれていると解釈したほうが、この歌の鑑賞が豊かになると思う。
春の日の光がのどかに降り注ぐ中、どうして桜の花は次から次へと散ってしまうのだろう。
このように意訳して、この歌を鑑賞している。
このポイントは、風に吹かれて桜が散っているのではないことだと思う。
のどかな日の光が差している穏やかな時間。それなのに、桜の花は自らの命を全うするがごとく、次々と花びらを地面に落とし続ける。
「静心(しずこころ)なく」という言葉に、無常観や天命という言葉を重ね合わせて、この歌を鑑賞している。
春の歌 「年(とし)ふれば よはひは老いぬ」 古今和歌集 前太政大臣(さきのおほきおほいまうちぎみ)
[訳:蓬田修一]
染殿后(そめどののきさき)のお前に、花瓶(はながめ)に桜の花をささせ給へるを見てよめる
年(とし)ふれば よはひは老いぬ しかはあれど
花をし見れば 物思いもなし
古今和歌集 前太政大臣(さきのおほきおほいまうちぎみ)
[現代語訳]
染殿后(そめどののきさき 藤原明子)のお前にて、花瓶(はながめ)に桜の花をおさしなさっているのを見て詠んだ歌
長い年月が経てしまい 私は老齢になった しかしなれども
(目の前にある)桜の花を見れば 物思いに沈むことなど何もない
古今和歌集 前太政大臣(さきのおおきおおいもうちぎみ)
[ひとこと解説]
作者の前太政大臣(さきのおおきおおいもうちぎみ)とは藤原良房のこと。良房の娘、藤原明子が、詞書きにある染殿后(そめどののきさき)だ。藤原明子は文徳天皇の后となった。染殿というのは良房の邸宅で、后はここに住んでいたので染殿と呼ばれている。
后は文徳天皇の皇子を生む。この皇子が清和天皇となる。即位する前年、良房は太政大臣となり、その後、即位後は摂政の地位にのぼる。人臣として最高の権力を得たわけだ。
このような良房が、自分の娘である后の部屋で、花瓶に挿されている桜の花を見て詠んだ歌がこれだ。
老境に入り、自分の人生を振り返ってみて、思い悩むことなど何もない、という気持ちを詠っている。
良房は政治家として最高の権力を手に入れ、満ち足りた気持ちでこの歌を詠んだに違いない。
私にはまだ実感がないが、老境に入って自分の人生を振り返ったとき、良房のように最高の権力を手にしなかった者でも、誰もが自分の人生に満足して最期を迎えるのではないか。もし、自分の人生に満足できないようであれば、それは悲劇であろう。そうありたいと願って誰もが頑張っているのであろうし、自分もそうである。
良房の歌に戻るが、この歌は目の前にいる自分の娘を桜にたとえてもいる。文徳天皇の后となり、天皇からの寵愛を受けている娘の姿を見れば、たとえ老境の身とはいえども、物思いに沈むことなど何もないと詠っているのだ。
春の歌 「袖ひちて むすびし水の」 古今和歌集 紀貫之
[訳:蓬田修一]
春たちける日よめる
袖ひちて むすびし水の こほれるを
春立つけふの 風やとくらむ
古今和歌集 紀貫之(きのつらゆき)
[現代語訳]
立春の日に詠んだ歌
(去年の夏に)袖を濡らして (納涼のために水辺に出て)すくった水が (冬になって)凍ってしまった
立春の今日 吹く風が(その氷を)とかしているだろう
[ひとこと解説]
去年の夏に納涼のために訪れた水辺ですくった水が、秋を過ぎ冬になると凍ってしまった。
立春の今日、風が吹いて、その氷が解かしているだろう、と一年にわたる季節の時間の経過を、一首の歌で詠んでいる。
五句にある「風」は、東から吹いてくる風、東風(こち)のこと。
暦のひとつに、一年を七十二に分けて表した七十二候というものがある。
それによると、立春の日は七十二候の「東風(こち)凍(こおり)を解(と)く」にあたる。
この和歌は、七十二候の「東風(こち)凍(こおり)を解(と)く」を踏まえて作られた歌だ。
夏、秋、冬、そして春と、一年間の時の流れを、わずか三十一文字で表して、歌に接した人も、そのことをたちどころに理解できてしまう。和歌は、そういうところが素晴らしいと思う。
私は季節の循環、世の中の循環、人生の起伏の循環など「循環」にとても関心がある。「循環」というアプローチからもこの歌を鑑賞して楽しんでいる。
春の和歌 「世の中に 絶(た)えて桜の」 古今和歌集 在原業平朝臣(ありはらのなりひらあそん)
[訳:蓬田修一]
渚院(なぎさのゐん)にて桜をよめる
世の中に 絶(た)えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
古今和歌集 在原業平朝臣(ありはらのなりひらあそん)
[現代語訳]
渚院(なぎさのいん)で桜を詠んだ歌
世の中に まったく桜が なかったとしたら
春の気持ちは のどかなものであったに違いない
[ひとこと解説]
渚院(なぎさのいん)は、惟喬(これたか)親王の別邸があった場所。業平は親王におともし、別邸に行った際、この歌を詠んだ。
業平は親王と親しく交誼を結んでいた。
惟喬(これたか)親王という人は悲運の人で、文徳天皇の第一皇子であるから、本来だったら皇太子になってもよかったのだが、母親が当時、権勢を誇っていた藤原家の出身ではないため、皇太子にはなれなかった。
この歌は、桜への思いをそのままストレートに歌に託すのではなく、「なければ、どんなにか人の心は穏やかだろうに」と逆説的に詠んでいる。
現代でも、好きな異性が目の前に表れたとき、恋いこがれて気持ちが上の空になってしまい、「あの人がいなければ、どんなにこころが楽だろう」と思うのと似ている。
春の和歌 「ひとはいさ 心もしらず」 古今和歌集 紀貫之
[訳:蓬田修一]
初瀬(はつせ)にまうづるごとに宿(やど)りける人の家に、ひさしく宿らで、程(ほど)へてのちにいたりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやどりはある」と、言ひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる
ひとはいさ 心もしらず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほひける
古今和歌集 つらゆき
[現代語訳]
初瀬(はつせ)の長谷寺にお参りするたびに宿にしていた人の家があったのだが、長い間ご無沙汰してしまい、しばらくたってから訪れてみると、その家の主人は「このように家はちゃんとあります」と言ってきましたので、そこに植えてあった梅の花の枝を折って詠んだ歌
(そうおっしゃる)あなたの こころは、さあどうでしょう、分かりませんけれど なじみの家(=あたなの家)では
花は昔と変わらず 同じ香りで咲いています(私を歓迎しています)
古今和歌集 紀貫之(きのつらゆき)
[ひとこと解説]
「百人一首」に採られている有名な歌なので、知っている人も多いと思う。
一句目の「ひと」は、家の主人のこと。「いさ」は、さあ、どうでしょう、分かりませんが、という意味。
この歌は、宿の主人の「このように家はちゃんとあります」という皮肉に対して、機知でもってこたえたと言われている。
では、この宿の主人は男なのだろうか、女なのだろうか。男と考えることもできるが、私は女と考えたい。
貫之は初瀬に赴くときは、いつも訪れる女がいた。ところが、ご無沙汰してしまった。長い間来なかったところに、来たものだから「かくさだかになむやどりはある」(このように宿はちゃんとありますよ)と皮肉めいて言ったのである。
それに対して、貫之は「さあ、どうでしょう。あなたの気持ちは分からないけれども、梅の花は昔と同じに私を歓迎していますよ」と返している。
宿の主人は女性と考えたほうが歌の趣があると思うのだが、いかがであろうか。
春の和歌 春の夜(よ)の 闇(やみ)はあやなし 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
春の夜(よ)梅の花をよめる
春の夜(よ)の 闇(やみ)はあやなし
梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
春の夜、梅の花を詠んだ歌
歌の意味は
春の夜の闇というのは闇の役をなさないものだ
(闇に咲く)梅の花は見えこそしないが 香りは隠れようもない
という感じです。
二句目の「あやなし」は、理屈が立たない、というような意味。闇に咲く梅の花は、暗くて姿こそ見えないが、その香りから咲いているのは隠しようもないと詠っています。
五句目の「やは」は反語。直訳すれば、隠れるだろうか、いや隠れはしない、という意味。反語というのは強調。ここでは「隠れはしない」ことを強調しています。
暗香浮動(あんこうふどう)という観念
梅の花の美しさを詠んでいますが、「色」ではなくて、「香」のほうを讃えているのが、この歌の味わいどころですね。
漢詩で「暗香浮動(あんこうふどう)」という言葉があります。暗闇の中、花の香りがかすかに漂ってくることです。
躬恒のよりも後の時代ですけれど、中国・宋の詩人、林逋(りんぽ)の「山園小梅」という詩の一節にこんな言葉があります。
疎影横斜 水清淺(そえんおうしゃ みずせいせん)
暗香浮動 月黄昏(あんこうふどう つきこうこん)
意味は、
梅のまばらな枝は、清く透きとおった水面に影を落とし
月影おぼろな黄昏どき、梅の香りがどこからともなくほのかに漂う
平安前期を代表する宮廷歌人
作者、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、平安時代前期の人。地方官を歴任し、官位は六位。
和歌の第一人者で、紀貫之、紀友則、壬生忠岑とともに「古今和歌集」の撰者。
自ら撰んだ「古今和歌集」に58首が入集。勅撰和歌集に合計194首入集しています。家集に「躬恒集」があります。
「香り」や「匂い」に敏感な王朝人
平安貴族たちは「香り」や「匂い」に対して、特別な思いを持っていたようです。
衣服に香を焚きしめていたのも、「香り」や「匂い」に対する愛着の表れなのでしょう。
もっとも当時は、今のような入浴や洗濯の習慣がないので、不快な臭いを消す目的もあったでしょう。
「源氏物語」にも重要な登場人物として薫大将(かおるのたいしょう)と匂宮(におうのみや)がいます。
ふたりとも、かおり、におい、に直結した名付けは、当時の貴族たちの「香り」に対する関心を想像するうえで興味深いです。
(M&C蓬田)
春の和歌 「君(きみ)ならで 誰(たれ)にか見せむ」 古今和歌集 紀友則(きのとものり)
[訳:蓬田修一]
梅の花を折りて人におくりける
君(きみ)ならで 誰(たれ)にか見せむ 梅の花
色をも香(か)をも しる人ぞしる
古今和歌集 とものり
[現代語訳]
梅の花を折って人に贈ったときの歌
あなたでなくて 誰に見せましょう 梅の花
色の素晴らしさも香りの素晴らしさも あなただけが分かるのですから
[ひとこと解説]
普通は梅の花の素晴らしさを詠うのだが、この歌のユニークなところは、梅の花を贈った相手の素晴らしさを詠っているところ。
春の歌 「見わたせば 柳桜を」 古今和歌集 素性(そせい)法師
[訳:蓬田修一]
花ざかりに京を見やリてよめる
見わたせば
柳(やなぎ)桜(さくら)を
こきまぜて
都(みやこ)ぞ春の
錦(にしき)なりける
素性(そせい)法師
[現代語訳]
花の盛りに 京を見おろして詠んだ歌
はるかに見渡すと
柳の青と桜の紅が
織りなされたよう
都こそが春の
錦であることよ
[ひとこと解説]
比叡山から平安の都を見下ろしたときに詠んだ歌であろうか。
こきまぜては、柳と桜とが織りなされたように一体となっている情景を言ったもの。
「こく」は、花や実を枝からもぎ取ること。
「こきまぜ」は、もぎ取った花や実を混ぜ合わせることをいう。
あたかも見えざる手が、まち全体に広がる花や実を混ぜ合わせているようだ。
「春の錦」とは「秋の錦(=紅葉)」に対する言葉。
秋の錦は山の美しさだが、春の錦は都の美しさである。
柳の青と桜の紅が織りなす錦の色彩イメージがとても鮮やかである。
古今和歌集所収。
