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イギリスの歴史 紀元前から21世紀まで


イギリスの歴史を書く。
イギリスは4つの国(イングランド、ウエールズ、スコットランド、北アイルランド)の同君連合体である。
ここで書くのは、主にイングランドの歴史である。

紀元前6世紀、大陸から来たケルト人が先住民を征服し、イングランドの地に住むようになった。
2000年ほど前、ローマ帝国が攻めてきて、沼地に砦を作った。
それをロンディニウムという。ロンドンの語源である。
ローマ帝国は島の4分の3ほどを支配した。
島の南部はローマ帝国の属州ブリタニアとなった。
一部のケルト人は島の北や西に逃げた。
のちに北のほうがスコットランド、西のほうがウェールズとなった。

西暦400年頃、ヨーロッパ大陸ではゲルマン民族が大移動を始めた。
ゲルマン民族は200年ほどかけて西ヨーロッパの各地に住み着いた。
西ヨーロッパが混乱してきたので、ローマ帝国はイギリスから撤退した。
ローマ帝国はゲルマン人が移動してきて各地に王国を建てたので、領土が半分ほどに小さくなった。
ゲルマン民族のうち、フランク人はフランク王国を作った。
フランク王国はのちに分裂して、いまのフランス、イタリア、ドイツになる。

ゲルマン民族のアングロ族とサクソン族がイギリスに来て、住んでいたブリトン人を追い出した。
アングロ族とサクソン族は同化しながら、7つの国を作った。
七王国である。
追い出されたブリトン人は島の南西部に集まり、独自の勢力を築いた。
いまのウェールズの地である。

スカンジナビア半島にいるゲルマン民族バイキングが活発に活動を始めた。
彼らは人口が増えてきたので、周辺の地域を略奪した。
バイキングの一派デーン人のクヌートは、イギリスを侵略して王朝を建てた。
デーン朝である。
クヌートはデンマークにいた兄が亡くなると、デンマーク王を兼ねた。
彼は周辺の北欧の国を攻めて領土を拡大した。
北海帝国である。

900年頃、バイキングの一派がフランス領土を荒らした。
フランス王は困り果て、イギリスにいたバイキングに領土を守ってくれるよう頼んだ。
フランス王はフランス領土の一部を与えてそこに住まわせた。
そこがノルマンディーである。
北から来た人という意味だ。
第二次世界大戦で連合国がドイツを攻めるために上陸したところである。

デーン朝のクヌートが亡くなると、国内は乱れ、再びアングロ・サクソン人の王朝ができた。
その最後の王にエドワード懺悔王がいた。
懺悔王はノルマンディーに住んでいた。
フランス語しか話せなかった。
子どもがいなかったので、後継王にノルマンディーのウィリアム征服王を指名した。
ウィリアム征服王はノルマンディーとイングランドの王を兼ねた。
ノルマン朝が始まった。
ウィリアムというのは英語で、フランス語ではギョームという。
フランス王からみると、自分の支配下にあるウィリアム征服王がイングランド王となったわけで、上下関係が複雑になった。

ノルマン朝では男子が生まれず、再びフランス人が王となった。
プランタジネット朝である。
フランスに領土をたくさん持った。
代々の王は戦いに明け暮れ、戦費調達のため重税を課した。
貴族らから反感を買った。
1215年ジョン王の治世、マグナカルタができた。
王の権限を制限することが明らかにされた。
王であったも法に従うというイングランドの伝統を生んだ。
のちの立憲君主制が発展する土台となった。

1300年頃までにウェールズはイングランドの統治下となった。
次期イングランド王がウェールズ公になる習慣ができた。これは、いまでも続いている。

アイルランドは1100年代からイングランドの支配下となった。
スコットランドはイングランドの干渉を受けながらも独立を保ち、フランスと友好関係を築いてイングランドを牽制していた。




この頃、イングランドは血縁関係が深いフランスと王位継承をめぐりしばしば争った。
フランスに跡継ぎ問題が起きると介入し百年戦争となった。
イングランドのエドワード黒太子が活躍した。
戦争はイングランドが勝つと思われたが、謎の少女ジャンヌダルクが突然現れ、反撃された。
イングランドは大陸に持っていた領土をほとんど失った。

百年戦争が終わると、イングランドでは次の王位継承をめぐり、ふたつの派閥が内戦を起こした。
バラ戦争である。
戦いののち、両陣営の男女が結婚して和解し終結した。
新しい王朝が始まった。
チューダー朝である。

国内でも王位継承をめぐりしばしば争った。
チューダー朝は王権を強化しようとした。
マグナカルタ以来の王権の制限は棚上げされた。
王への権力集中が進んだ。

2代目の王は離婚王ヘンリー8世であった。
離婚したかったが、カトリック教徒なので離婚できなかった。
王はカトリックを捨て、離婚できる新しいキリスト教を作った。
イギリス国教会である。
カトリックから分離したため、プロテスタントと呼ばれることもあるが、教義的にはカトリックと重なる部分が多かった。

離婚王から2代あとはメアリー女王であった。
メアリーは母親がカトリック信者だったので、イングランドの宗教をカトリックに戻した。
反対する300人を粛清した。
血塗られたメアリーと呼ばれた。

メアリーが亡くなると、エリザベス1世女王が即位した。
国の宗教をカトリックからイギリス国教へ戻した。
カトリックを信仰しているスペインと関係が悪くなり戦争が始まった。
スペイン無敵艦隊が攻めてきたが、イングランドが勝利した。
エリザベス1世は貴族や商人に特権を与え、強力な権力基盤を作った。
エリザベス1世は生涯独身を貫いた。
バージンクイーンと呼ばれた。
世継ぎがいなかったため、身内での醜い後継者争いは起きなかったが、チューダー朝は断絶した。

次の王はスコットランド出身ジェームズ1世だった。
スコットランドとイングランドは同君連合となった。
王は宗教を弾圧した。
一部の人は理想のキリスト教の国をつくろうと新天地アメリカに移住した。
彼らはヒルグリムファーザーズと呼ばれる。
アメリカにニューイングランドをつくった。

ジェームズ1世とその跡を継いだチャールズ1世は、高まった王の権力を背景に、議会の意向を無視して政治を行った。
議会はこれに対抗するため、ピューリタン派(宗教革命で新たに生まれたプロテスタント)を中心にまとまった。
国王派と対立して、内戦(清教徒革命)が起こった。
ピューリタン側が勝利し、国王チャールズ1世を処刑した。
王のいない共和制を敷いた。
ピューリタン派の軍人クロムウェルは護国卿となり軍事を握った。
クロムウェルは独裁者となり政治を進めた。

クロムウェルはカトリック教徒によるイングランド人への迫害を口実にアイルランドへ侵攻し、アイルランドを植民地とした。
以降200年のおよぶアイルランド支配は、アイルランド人の恨みを生むもととなった。

クロムウェルが急死すると共和国政権への求心力が保てなくなると、王を戴く政治が復活した。
清教徒革命の揺り戻しもあり、ピューリタンは弾圧されました。
議会はピューリタンとカトリック派を排除して、イギリス国教会を支持しようとした。
新国王チャールズ2世はカトリックを支持した。

次のジェームズ2世はカトリック教徒であった。
国王と議会は対立した。
議会は、ジェームズ2世を追放し、政治的野望の薄い王をオランダから呼んだ。
名誉革命である。
スチュワート朝が始まった。
新たな王は議会とのあいだで、王の権限が制限されていることを改めて確認した。
それを具体的に記した権利の章典を取り交わした。
以降、王が独断で権力を振ることはなくなった。

イングランドは内政や軍事が充実した。
フランスやスペインとの争いにも勝った。
世界中で様々な権益を手に入れた。
北方のスコットランドとは議会を統合した。
イングランドとスコットランドは、ひとつの主権国家となった。

イギリスなどヨーロッパの国々は、新大陸の原住民を働かせ、さとうきびやコーヒーを栽培して儲けた。
ヨーロッパ人は病気を新大陸に持ち込み、抗体のない原住民は大量に死んだ。
労働力が足りなくなったので、アフリカ黒人を奴隷としてアメリカに運んだ。

スチュワート朝最後の王、アン女王には跡継ぎがいなかった。
次の王はドイツから迎えた。神聖ローマ帝国のハノーバー選帝侯ゲオルクがジョージ1世としてイギリスの王となった。
ハノーバー朝が始まった。
王は54歳で即位した。
ドイツ生まれ、ドイツ育ちで英語が話せなかった。
イギリスの政治にも興味を示さなかった。
イギリスでは議会がさらに進展していった。
以降、内閣の首相が政治の責任者となった。
国王は政治の中枢から離れ、議会が政治の主導権を握った。
王権が弱まり、地主や富裕層の権利が保障された。
これは、産業の発展に大きな影響を与えた。
のちの産業革命につながった。

18世紀、産業革命が起こった。
工業生産力が爆発的に高まった。
財力、軍事力が他国を圧倒した。
イギリスはアメリカの一部、カナダ、オーストラリア、インドを植民地にした。

アメリカに高額な税金をかけた。
アメリカに住んでいる人はもともとはイギリスで暮らしていたので、故国の習慣であるお茶が大好きであった。
そのお茶に高額な税金をかけたからアメリカの人々は反発し、イギリスから独立した。

喫茶の習慣があるイギリスはチャイナから茶葉を買っていた。
一方、チャイナはイギリスから買うものはないとって輸入は行わなかった。
イギリスは貿易赤字が続いた。
イギリスは赤字を解消させるため、チャイナへアヘンを売ることを思いついた。
議会ではアヘンを売るのは人道上問題があるという意見も出たが、イギリスはアヘンを売った。
アヘンは中毒性があるので、チャイナはアヘンをイギリスから買い続けた。
チャイナはアヘンの輸入と吸引を禁止した。
イギリスは報復として武力で攻撃し戦争となった。
イギリスは戦争に勝ち、不平等条約を押し付け、香港を99年間租借した。

この頃、イギリスは日本とも戦争した。
江戸時代末、薩摩藩の武士が日本にいたイギリス人を切りつけた。
イギリスは報復として軍艦を鹿児島へ派遣し、薩摩藩と戦争になった。
イギリス艦隊は薩摩藩の砲台からの攻撃により大破、中破し、艦長ら指揮官も戦死するなど大きな被害が出た。
薩摩側は砲台などを破壊されたが、イギリス艦隊の艦砲射撃で民家や寺社などが攻撃され、軍事施設以外の被害が甚大であった。
戦闘が終わると薩摩とイギリス双方は講和に入った。
イギリスは薩摩側の交渉力を評価し、薩摩はイギリスの軍事力や文化を理解した。
以降、双方は友好な関係を築いた。

セルビアでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されると、それが引き金となり武力衝突が起きた。
各国は軍事同盟を結んでいたため、双方が相手側に宣戦布告をして、戦争はヨーロッパだけでなく世界規模に拡大した。
第一次世界大戦である。
イギリスは100万人が戦死した。
戦争には勝ったが国力は落ちた。
力をつけたアメリカがカナダを占領しそうになった。
しかし、国力が弱くなったイギリスには、カナダを守る力はなかった。
カナダを独立させた。
アイルランドも北部を除き独立した。

第一次大戦が始まると、王朝が敵国ドイツの名称であるのはふさわしくないということなった。
その頃の宮殿の所在地にちなみ、王朝名をウィンザー朝と改めた。
現在まで続いている。

ドイツにヒトラーが台頭した。
ドイツと日本は、イギリスやアメリカをはじめ世界の国々を相手に戦った。
第二次世界大戦である。
ドイツはデンマークを4時間で降伏させた。
フランスを1か月で占領した。
ドイツはヨーロッパのほとんどを占領した。
イギリスに空襲を行った。上陸はできなかった。
日本は、アジアにおけるイギリス植民地を占領した。
連合軍はフランスのノルマンディーに上陸しドイツを攻めた。
ドイツは敗北した。
日本も降伏した。

イギリスは戦争に勝ったが、国力は疲弊した。
インド、アジア、アフリカの植民地はイギリスから独立した。
イギリスとフランスの間に海底トンネルが開通した。
EUが成立した。
人の移動が自由になると、大勢の外国人がイギリスに移民した。
移民がイギリス人の職を奪うなどの問題が出た。
イギリスはEUから脱退した。




Posted on 2023-12-16 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed
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