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イスラエル歴史


4000年前、ユダヤ人の祖先が中東のウルという地域に住んでいた。
ウルにアブラハムという男がいた。
ある日、アブラハムは「カナンへ行け」という神の声を聞いた。
カナンとはパレスチナである。
アブラハムはウルに住むユダヤ人をともないカナンへ向かった。
アブラハムたちはカナンの地で新しい生活を始めた。

紀元前17世紀、パレスチナに移り住んだユダヤ人は大飢饉に見舞われた。
パレスチナに住むことをあきらめ、エジプトに移住することを決意した。
エジプトでユダヤ人は都市建設などのために、奴隷として働かされた。
エジプト王はユダヤ人をおよそ400年間にわたって、奴隷として扱った。
ユダヤ人のなかにモーセが現れた。
モーセは奴隷となっていたユダヤ人をともないエジプトを脱出した。

紀元前1000年頃、ユダヤ人はパレスチナの地にイスラエルという王国を建設した。
王国は南北に分裂した。
北の国家は隣国アッシリアに滅ぼされた。
南の国家は新バビロニアに戦争で負けた。
大量のユダヤ人がバビロンに捕虜として連行された。
これをバビロン捕囚と呼ぶ。

ユダヤ人を連れ去った新バビロニアが滅んだ。
ユダヤ人はパレスチナに戻った。
パレスチナはその後、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ローマ帝国に次々に支配されていった。
ユダヤ人は数百年間、外国人によって支配された。

支配され続けたユダヤ人は、次第にこう考えるようになった。
「我々はこんなに苦しんでいる。でも神はどうして助けてくれないのだろう。それはきっと、我々が神から与えられた決まりをきちんと守っていないからだ」
ユダヤ人は神との約束=律法を厳密に解釈して、厳しい決まりのもとで生活をしていくようになった。

ユダヤ教徒にイエスがいた。
イエスは、当時の厳格な律法にもとづくユダヤ教の教えに異論を唱えた。
イエスは律法にこだわらず、神を信じ、神の愛を信じることが大切だと説いた。
ユダヤ教の指導者たちはイエスの考えが邪魔であった。
指導者たちはイエスを神を冒涜した罪で訴えた。
イエスは磔の刑に処された。
このできごとによって、キリスト教徒はユダヤ人のことを、キリストを殺した民族として恨むようになる。

パレスチナはローマ帝国によって支配されていた。
ユダヤ人は西暦66年と132年、ローマに反乱を起こした。
ローマ帝国はユダヤ人の反乱を鎮圧した。
ユダヤ人は奴隷として売られた。
ユダヤ人は帝国内や中東各地へちりぢりになった。
ディアスポラの始まりだ。
その後イスラエルの建国までおよそ1800年間、ユダヤ人は迫害と放浪の生活を送る。




アラビア半島での話である。
610年、アラビア半島でムハンマドはアッラーの神の啓示を受けて、イスラム教を起こした。
イスラム教は拡大し、中東地域はほとんどイスラム教の勢力下となった。
パレスチナもイスラム勢力によって占領された。
パレスチナのなかにあるエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となった。
ユダヤ教にとっては、かつてシンボルとなる神殿があった場所。
キリスト教にとっては、イエスが十字架に架けられ処刑された場所。
イスラム教にとっては、ムハンマドが天に昇ったとされる場所。

11世紀、キリスト教とイスラム教は聖地エルサレムをめぐって衝突した。
キリスト教国家である東ローマ帝国がエルサレムを占領していたが、イスラム勢力がエルサレムを奪った。
東ローマ皇帝はローマ教皇に助けを求めた。
ローマ教皇は聖地エルサレムを異教徒から奪還するため、軍隊を派遣した。
十字軍である。
聖地奪還に成功した。
しかし、再度異教徒にエルサレムを奪われた。
その後、教皇は繰り返し十字軍を派遣するが、二度をエルサレムを取り返すことはできなかった。
この間、キリスト教社会ではイスラム教とともに、ユダヤ教をも排除しようとする
反ユダヤ思想が広まった。
ユダヤ人はゲットーに隔離されり処刑されたりした。
職業も制限された。
キリスト教社会では卑しい職業とされた金融業に従事した。
当時、キリスト教徒は金融業の重要さを認識していなかった。
金融業を営んだユダヤ人はその後、膨大な富と強大な力を手に入れた。
ヨーロッパは大航海時代を経て大きく発展した。
1789年、フランスで革命が起こった。
民衆側が王と王妃を処刑した。
革命後、人権宣言が出された。
信教の自由が認められた。
ユダヤ人も職業の自由が認められた。
人権宣言の思想はヨーロッパに広がった。
ユダヤ人はこれで差別されることはなくだろうと考えた。
ヨーロッパの社会に同化しようと努力した。

イギリスで産業革命が起こった。
産業発展のために大量の資金が必要となった。
金融業を営んでいたユダヤ人は大きな富を得た。
そのひとつにロスチャイルド家がある。
ユダヤ人は大学にも行けるようになった。
多くのユダヤ人は努力を重ね、社会における重要な地位を得た。
そのことが人々の妬みを生み、新たな反ユダヤ思想が広がった。

1894年、フランスでドレフュス事件が起こった。
フランス陸軍参謀本部大尉のユダヤ人ドレフュスがスパイ容疑で逮捕、島流しの刑となった。
反ユダヤ主義の人たちが仕組んだ冤罪であった。
ユダヤ人はこのことから、人権宣言があっても自分たちは差別からは逃げられないと悟った。
差別を受けないようにするには、自分たちの国家を作るしかないと考えた。
ユダヤ人のふるさとであるパレスチナの地に、ユダヤ人によるユダヤ人のための国家を建設をしようとする運動が起こった。
シオニズム運動である。

20世紀に入ると、ユダヤ人は本格的にパレスチナに入植していった。
しかし、パレスチナにはイスラム教徒のアラブ人が住んでいた。
ユダヤ人とアラブ人との対立が始まった。
第一次世界大戦が始まった。
イギリスは戦いを有利に進めるため、パレスチナをめぐり、狡猾な外交を展開する。
パレスチナに国家を作りたいユダヤ人には、イギリスに協力してくれたら国家建設に協力すると約束した。
アラブ人にはイギリスに協力してくれたら、アラブ人の国家建設に協力すると約束した。
さらにフランスとロシアには、パレスチナを共同で統治しようと提案した。
三枚舌外交である。
この約束にもとづき、ユダヤ人もアラブ人もパレスチナは自分の領土であることを根拠を持って主張できた。
第一次世界大戦が終わると、イギリスはパレスチナを管理した。
管理のもと、ユダヤ人はパレスチナに入植することが認められた。
世界中のユダヤ人はパレスチナの土地を買っていった。
ユダヤ人による国家づくりは着々と進んだ。
アラブ人は反発した。
ユダヤ人とアラブ人の対立が先鋭化した。

ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握った。
ヒトラー政権はユダヤ人を劣等民族として迫害した。
大量のユダヤ人はパレスチナへ逃げた。
迫害から逃れるため、ユダヤ人国家をつくろうとする気持ちはさらに高まった。

第二次世界大戦が終結した。
世界の人々は、戦争の期間、ユダヤ人が大量に虐殺されたことを知った。
国際世論は、ユダヤ人にユダヤ人の国家をつくってあげるべきだと意識が生まれ広まった。
当時のアメリカにはユダヤ人が、およそ450万人住んでいた。
社会的に高い地位のユダヤ人も多かった。
アメリカはユダヤ人国家の建設に前向きに取り組んだ。
1947年、国連はパレスチナ分割案を出した。
この分割案は、ユダヤ人はパレスチナの56.5%を獲得した。
アラブ人からすると、56.5%の土地を失った。
翌48年、ユダヤ人指導者ベングリオンは、イスラエル国家の建国を宣言した。
アメリカのトルーマン大統領はイスラエルを国家として承認した。

アラブ人はイスラエル国家を受け入れなかった。
1948年、アラブ人とユダヤ人との間に戦争が始まった。
第一次中東戦争である。
イスラエル周辺のアラブ系国家、エジプト、シリア、レバノン、トランスヨルダン、イラクも参戦した。
建国間もないイスラエルは軍備が十分に整っておらず、アラブ系国家の総攻撃に耐えられなかった。
イギリスが介入し、1か月の停戦となった。
その間、世界中からユダヤ系軍人がイスラエルに集まり、イスラエルは強大な軍事力を持った。
停戦が終了した。
イスラエルは戦いを巻き返した。
第一次中東戦争はイスラエルの勝利となった。
イスラエルは領土をさらに広げた。

イギリスは、エジプトにあるスエズ運河を管理していた。
エジプトのナセル大統領はスエズ運河を国有化すると宣言した。
イギリスはフランスとイスラエルと連携し、エジプトを攻撃した。
1956年の第二次中東戦争である。
戦いはエジプトの敗北に終わった。
国際世論は、イギリスの侵攻は侵略戦争であると非難し、イギリス軍は撤退した。

その後、国連軍はパレスチナ地域を監視した。
ソ連はイスラエルを倒し、中東での影響力を高めようとした。
ソ連は、イスラエルが戦争を始めようとしているという情報をエジプトに流した。
それはフェイク情報であった。
ナセル大統領はその情報を信じた。
イスラエルにとって重要な海峡を封鎖した。
イスラエルはこれに反発し、1967年にエジプトを攻撃した。
第三次中東戦争だ。
イスラエルは奇襲攻撃を成功させた。
たった6日間でエジプト軍を壊滅させた。
戦争は、イスラエルの完全な勝利で終わった。
イスラエルはシナイ半島や東エルサレムを手に入れた。
領土を4倍に広げた。

ナセル大統領が心臓麻痺で亡くなった。
サダト大統領が就任した。
イスラエルに領土を返還するよう交渉した。
イスラエルは拒否した。
エジプトを領土を取り返すため、シリアに協力を要請した。
1973年、エジプトとシリアは、イスラエルを挟み撃ちした。
第4次中東戦争である。
挟み撃ち作戦は成功した。
イスラエルを追い込んだ。
イスラエルが反撃に転じた。
エジプトは追い込まれた。
アメリカは仲介に入った。
エジプトとイスラエルで停戦協定が結ばれた。

サダト大統領は戦争ではなく、交渉で領土を取り返そうとした。
イスラエルのベギン首相は領土返還に応じなかった。
アメリカのカーター大統領が仲介した。
カーター大統領の仲介のもと、エジプトとイスラエルは以下のことに合意した。
・エジプトはイスラエルを国家として認める
・イスラエルはシナイ半島をエジプトに変換する
・パレスチナはガザ地区とヨルダン川西岸の自治権を持つ

もともとパレスチナ全土が領土であったパレスチナ人にとっては、一部地域の行政自治権が認められただけで不満あった。

1987年、イスラエル軍のトラックがガザ地区で交通事故を起こし、4人のパレスチナ人が亡くなった。
これに怒った18歳のパレスチナ人青年は、イスラエル軍に石を投げつけた。
イスラエル軍は発砲し、青年を殺害した。
これがきっかけでパレスチナ人の青年や子供たちは、イスラエル軍に石を投げつけて抗議した。
この抗議運動をインティファーダと呼ぶ。
イスラエル軍は石を投げる子どもや若者たちを殴ったり拘束しようとした。
丸腰の子どもや若者を殴る映像が世界が流れた。
国際世論はパレスチナに同情的になった。
パレスチナ解放を目指すパレスチナ人の武装組織(パレスチナ解放機構)議長であるアラファトは国連で「我々はイスラエルの生存を認め、いかなるテロ行為も放棄する」と宣言した。
イスラエル首相ラビンとアラファトは、ノルウェーのオスロで合意した。
パレスチナ人はヨルダン川西岸やガザ地区で暫定自治が認められた。

イスラエル首相バラクはパレスチナとの和平に積極的に動いた。
バラクの和平案はイスラエル国内では批判された。
和平案は頓挫した。
和平反対派のシャロンが首相になった。
過激派武装組織ハマスはイスラエルに対してテロ行為を行った。
シャロンはハマスのテロリストをイスラエルに入れないように、ヨルダン川西岸地区にコンクリートの壁を建設した。
国際世論はイスラエルを非難した。
シャロンは国際世論を抑えるため、暫定自治区のガザ地区をパレスチナに返還することを発表した。
駐留していた軍隊を撤退させ、2005年、ガザ地区をパレスチナ自治政府に返還した。
これにより、イスラエルとパレスチナとの和平が進むとみられた。
しかし、パレスチナ人はガザ地区の返還を武力闘争の勝利と受け止めた。
武力闘争を行っていたハマスをさらに支持するようになった。
ハマスはガザ地区を統治した。
パレスチナ側はさらに戦闘的になった。
これに対して、イスラエルはテロリストの侵入を防ぐため、ガザ地区にも壁の建設を進めた。

ハマスは壁ができてテロリストをイスラエルに送り込めなくなったため、ロケットでイスラエルを攻撃するようになった。
イスラエルは2008年、ガザ地区に対して大規模な空爆を行った。
多くの女性や子どもが犠牲になった。
その後もイスラエルとハマスの間では戦闘が続いた。
2023年現在、戦争状態となっている。




Posted on 2023-12-21 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed
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