Home > コラム, 歴史の館 > ロシアの歴史

ロシアの歴史


紀元前1世紀、現在の東ヨーロッパにロシア人の祖先が住んでいた。
ウクライナ人、セルビア人、ブルガリア人なども住んでいた。
彼らを総称してスラブ系民族という。

7世紀頃、ゲルマン人が北方から来ると、彼らは東、西、南に移り住んでいった。
いまのロシアの地に移り住んだ人たちは、土地をめぐって戦いを繰り広げた。

9世紀、リューリクがノヴゴロド地方をまとめた。
10世紀、ウラジーミル1世がキエフ大公の地位に就いた。
東ローマ皇帝バシレイオス2世は反乱鎮圧のため985年、ウラジーミル1世に助けを求めた。
ウラジーミル1世の妹とバシレイオス2世は結婚した。
キエフ公国と東ローマ帝国は親族関係となり、両国の関係は強くなった。

キエフ公国は、周辺スラブ系の国々から税金を徴収した。
東ローマ帝国や東フランク王国とも接触を持った。
ロシア地域の中心的な国となった。

東ローマ帝国との関係が強くなったことで、キリスト教が東ローマ帝国からキエフ公国に入っていった。
キエフ公国のキリスト教化が進んだ。
東ローマ帝国のキリスト教はギリシア正教であった。
キエフ公国もギリシア正教が広まった。

ヤロスラフが11世紀、大公の地位に就いた。
キエフ公国を発展させた。
ヤロスラフが亡くなると国内で内紛が起き、キエフ公国は衰退していった。

チンギスハンが13世紀はじめ、モンゴルを統一した。
モンゴル帝国が成立した。
モンゴル帝国はロシアまで侵入してきた。
モンゴル軍は、キエフ公国の首都キエフを占領した。

モンゴル帝国は13世紀後半、分裂した。
ロシア地域にキプチャクハン国が成立した。
キプチャクハン国は、キエフ公国や周辺の国から税金を徴取した。
モンゴルによる強制的支配はおよそ200年間続いた。
これを、ロシアではタタールのくびきと呼ぶ。
タタールとは、モンゴル族の一派である。
中国や日本では韃靼人と呼ぶ。
タルタルソースのタルタルもタタールのことである。

キエフ公国はモンゴルによる支配が決め手となり、事実上崩壊した。
キエフ公国に支配されていた周辺の小国は、キエフ公国の支配から脱して自立した。

ウラジーミル大公国がロシア地域の支配を始めた。
隣国ノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフキーは、ノヴフゴロド公でありながら、ウラジーミル大公にもなった。
スウェーデン、ドイツ騎士団など西方から攻めてくる勢力とは徹底的に戦い勝利した。
アレクサンドルはのちにロシア人から讃えられた。
アレクサンドルが亡くなると、ウラジーミル大公国の力は弱まった。

ウラジーミル大公国に代わってモスクワ公国が台頭した。
周辺諸国との争いに勝ち、大公国となった。
長年にわたってロシア地域を支配していたキプチャクハン国と戦い勝利した。
しかし、キプチャクハン国から完全に独立することはできなかった。
その後100年間、キプチャクハン国の支配は続いた。

対外的にはキプチャクハン国に支配され、国内では権力争いが起きた。
国は混乱してきた。
しかし15世紀、イワン3世が大公に就くと、モスクワ大公国は勢力を伸ばした。
イワン3世は周辺国家を併合して、領土を拡大させた。
東ローマ皇帝の姪と結婚した。
モスクは第三のローマと呼ばれた。
イワン3世はロシアの君主という意味で、自身をツァーリと名乗った。
モンゴルと戦い、モンゴルによるロシア支配を終わらせた。

イワン3世が亡くなると16世紀、孫であるイワン4世がツァーリの称号を正式に採用した。
イワン4世は自分に反対するものを潰していった。
周囲をイエスマンで固めた。

強引な政治を行ったので、人々から雷帝と呼ばれた。
東方へ領土を拡大して、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国を領土に組み入れた。
さらにシビル・ハン国も手に入れた。
シビルはシベリアの語源である。
イワン4世の治世のあいだ、ロシアは多民族国家となった。

イワン4世の死後、ロシアは大飢饉に見舞われた。
農民は暴動を起こした。
ポーランドの策略で、ツァーリの座が奪われた。
ツァーリの権威は堕ちていった。
ロシア各地の有力者はモスクワ大公国から独立していった。

スウェーデン人やポーランド人は、弱くなったモスクワ大公国を侵略した。
外からは攻められ、国内は統一感が失われ、ロシア人は危機感を覚えた。
結束しなければならないと考えた。

1613年、各地の有力者が集まり、全国会議が開かれた。
この会議で、ミハエル・ロマノフが新しいツァーリに選ばれた。
ロマノフ朝が始まった。首都はモスクワに定めた。

会議法典が作成された。
この法典で、農民は領主へ税金を払う義務を負った。
もし税金を逃れるため農地から逃げ出せば、死ぬまで追われた。
死ぬまで領主に支配され、移動の自由がない農民を農奴と呼ぶ。
農奴を基礎とする社会と農奴制と呼び、ロマノフ朝は農奴制を敷いた。

しかし、多くの農民は農地から逃げ出した。
ステンカラージンは逃げ出した農民をまとめあげ、大規模反乱を起こした。
政府は反乱を鎮圧した。
ステンカラージンは処刑された。
のちに、ステンカラージンは政府に反旗を翻した人物として語り継がれることになった。

ロマノフ朝は反乱を鎮め、国家としてのまとまりをもつようになった。
本格的に東に領土を広げ始めた。
その目的は、外敵を減らすこと、岩塩を得ることにあったが、おもな目的は黒貂の毛皮を得ることであった。
黒貂の毛皮は高く売れるため、ロシアは大きな利益を得ることができた。

東へ伸びたロシア領土は、清王朝とぶつかった。
ロシアと清は国境を決めるため、1689年にネルチンスク条約を結んだ。
スタノヴォイ山脈とアルグン川を国境と定めた。

ロマノフが亡くなると、ロシアを大国へと導く皇帝が現れた。
ピョートル1世である。
9歳で即位した。
幼いため、姉が実権を握った。
そのあいだ、彼は学問に励んだ。
1694年、実権を掌握した。

ピョートル1世はロシアを発展させるには、他国に学ぶ必要があると考え、使節団を派遣した。
自らも身分を隠してイギリスとオランダに赴き、大学を見学したり、工場で実際に働いた。
自ら先頭に立ってヨーロッパ文化や技術の摂取に務めた。

ピョートル1世はロシアの発展には、世界各地への貿易ルーツを持つ必要がると考えた。
ピョートル1世はバルト海に目を付けた。
バルト海はスウェーデンが支配していた。
スウェーデンに戦争を仕掛けた。
スウェーデンと20年あまりにわたる北方戦争を戦って、バルト海沿岸を手に入れた。

戦争のあいだ、首都をモスクワからバルト海に近いサンクトペテルブルクに遷した。
ロシアはバルト海の覇権を握った。

ピョートル1世の死後、即位したツァーリは何代にもわたって有能ではなかった。
1762年、エカチェリーナ2世がツァーリに即位すると、ロシアは再び力を持ち始めた。

エカチェリーナ2世はクリミア半島を奪おうと考えた。
それまでロシアは冬になると海が凍ってしまい、海を使って外へ行くことができなかった。
冬でも凍らない黒海のクリミア半島を奪い、地中海に出るルートを確保しようとした。

クリミア半島はオスマン帝国が領有していた。
エカチェリーナ2世はオスマン帝国に攻撃を開始した。
露土戦争である。
戦争は2度にわたって行われた。
ロシアは戦争に勝って、クリミア半島を領有した。
現在のウクライナのほとんどは、このときロシア領となった。

次に、エカチェリーナ2世はポーランドを狙った。
ポーランドの内政に干渉し始めた。
ポーランドは反発した。
ロシアは軍を進攻させた。
1772年、エカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアに声をかけ、サンクトペテルブルクで会議を開いて、ポーランドの領土分割を決めた。
第一次ポーランド分割である。
分割はあわせて3回行われた。
第三次ポーランド分割が終わったとき、ポーランドは地図から消えた。




アレクサンドル1世が即位した。
フランスではナポレオンが台頭した。
ナポレオンは西ヨーロッパを席捲した。
アウステルリッツ三帝会戦でオーストリア、プロイセンと組んで、ナポイントと戦ったが敗北した。
アレクサンドル1世はフランスに協力することを約束した。

ナポレオンはイギリスを弱らせるために大陸封鎖令を出した。
ナポレオンはイギリスと大陸諸国の貿易を禁じた。
ロシアはイギリス製品の輸入ができなくなり困った。
ナポレオンに隠れて、イギリスとの交易を始めた。
ナポレオンはこの約束違反を知ると激怒した。
ロシア攻撃を決めた。

ナポレオンはモスクワ周辺でロシア軍と戦い勝利を収めた。
ナポレオン軍はモスクワを越えてさらに北へ侵攻した。
ナポレオン軍は厳しい寒さに苦しみ、食料が不足した。
多くの兵が脱走した。
ロシアはナポレオン軍にゲリラ攻撃を仕掛けた。
ナポレオン軍は苦しんだ。
ロシアはナポレオン軍を破った。

ナポレオンはこの敗北がきっかけとなり、力を弱めた。
アレクサンドル1世はナポレオンを退位させて、エルバ島に流した。
ナポレオンはその後復活した。
しかし、アレクサンドル1世はヨーロッパ諸国と協力して、ナポレオンを完全に倒した。
ナポレオンを破ったアレクサンドル1世は、ヨーロッパにおける発言力を高めた。

ナポレオンなきあとのヨーロッパ世界には、自由と平等を求める勢力が生まれ、革命の時代になった。
その流れはロシアにも及んだ。
当時のロシアはツァーリを頂点とする専制政治だった。
それに不満を持つ勢力が革命の準備を進めた。

アレクサンドル1世が急死した。
後継者は決まらなかった。
政治的空白が生まれた。
革命を起こしたい勢力は、これを好機と捉えた。
反乱を起こした。
しかし、反乱は統制が取れずに行動がもたついた。

ニコライ1世が即位した。
ニコライ1世は革命勢力を鎮圧した。
この反乱をデカブリストの乱と呼ぶ。

ニコライ1世は自分に従う貴族を官僚に取り立てた。
革命を望む人たちを取り締まった。
経済面では、綿織物、砂糖、穀物の生産が伸びた。
輸出して大きな利益を得た。

さらなる貿易拡大のためには、地中海の物流拠点が必要だった。
地中海に出るには、アナトリア半島を領有しているオスマン帝国が邪魔であった。
ニコライ1世は、オスマン帝国とエジプトとの戦争に介入して、地中海に出る海峡の通行権を得ようとした。
しかし、他国の介入で実現できなかった。

フランスナでは、ナポレオン3世が即位した。
ナポレオン3世の支持基盤はカトリック教会であった。
ナポレオン3世は聖地エルサレムの管理権を得ようとした。
当時、エルサレムの管理権はオスマン帝国が持っていた。
ナポレオン3世はエルサレムの管理権をカトリック教会に移すことをオスマン帝国に要求し認めさせた。

ロシアはギリシア正教の国であった。
ニコライ1世はギリシア正教を代表する立場から、ギリシア正教徒の保護を名目に、オスマン帝国に軍事進攻を行った。
ニコライ1世の真の目的は、オスマン帝国を打倒し、地中海ルートを確保することにあった。

イギリスとフランスは、ロシアが地中海ルートを持つと圧倒的な力を持つと懸念した。
両国はオスマン帝国とともに、ロシアを攻撃した。
ここにクリミア戦争が始まった。
ロシアは35万人の犠牲者を出して大敗した。

クリミア戦争に負けたロシアは、国力を強くするため、近代化を進めた。
当時のロシアは農奴制だった。
農奴には移動の自由がないため、工場で働く労働者を確保することができなかった。
アレクサンドル2世は農奴解放を進めた。
貴族たちは農奴解放に反対した。
アレクサンドル2世と貴族たちは長い期間話し合った。
1861年、アレクサンドル2世は農奴解放令を発した。
土地に縛られていた農民が工場で働けるようになった。
イギリスの産業革命からおよそ100年がたっていた。

ロシアはアジアへ進出するため、1891年、シベリア鉄道の建設を本格化させた。
ロシア経済は次第に大きく発展した。
一方、労働者の労働環境は悪かった。

社会主義の思想がロシアに入って来た。
資本主義社会で苦しむ労働者を救うため、社会主義の考えを支持する人が増えた。
革命を唱えるウラジミール・レーニンが支持者を集めた。

ロシアは東に勢力を伸ばし、満州を占領した。
朝鮮半島にも触手を伸ばした。
日本は危機感を持った。
ロシアは日本も植民地にするつもりではないかと考えた。
ロシアにこれ以上進出させないため、ロシアに対して宣戦布告した。
日露戦争が始まった。
ロシアはシベリア鉄道を使い物資を東方へ送ることができたため、初戦はロシアが優位であった。
しかし次第に日本が優勢となった。
アメリカの斡旋で両国は講和会議に臨み、ロシアは敗北した。

ロシア国内は戦争中、社会主義運動が盛り上がった。
ツァーリによる専制体制でなく、新しい体制での政治を求める声も出た。
労働者の代表は嘆願書を携え、ペテルブルクの宮殿に向かった。
ツァーリは約束の時間になっても現れなかった。
労働者たちは不満を募らせた。
警備兵との衝突が始まった。
警備兵は発砲し、数百人の労働者死傷した。
これが血の日曜日事件である。

この事件以降、労働者は各地で大規模なストライキを起こした。
革命を求めた。
ストライキを指導した組織はソヴィエトと呼ばれた。
政府を脅かすほどの大きな勢力と持った。

ニコライ2世は国会を開設すると発表した。
国会議員選挙が行われたものの、不平等な選挙であった。
憲法が発布されたが、ツァーリの専制体制は維持された。
政府と民衆は対立し、ロシア社会は混乱した。

ヨーロッパでは、ドイツがヴィルヘルム2世のもと躍進してきた。
ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んだ。
一方、ロシア、イギリス、フランスは三国協商を成立させた。
三国同盟と三国協商の対立が先鋭化した。

1914年、セルビアのサラエボでオーストリアの皇位継承者が殺害された。
オーストリアはセルビアに宣戦布告した。
ロシアはスラブ人国家のセルビアを助けるため、オーストリアとの戦いに参加した。
オーストリアはドイツを頼ったため、ドイツが戦いに参加した。
ロシアの同盟国イギリスとフランスも参加した。
ヨーロッパは一気に大規模な戦争状態になった。

ニコライ2世は国をあげて戦う姿勢を示した。
労働者は工場に戻り仕事に従事した。
ロシアは初戦は優勢だった。
しかし、ドイツが戦いに本格的に参加すると戦況は悪化した。
ドイツとのタンネンベルクの戦いでは大敗を喫した。
ドイツはロシア領内へ攻め入った。
ロシア国民は急激に食料事情が悪化した。

生活が苦しくなった人たちは、首都ペトログラードで、パンを寄越せと叫びながらデモを起こした。
こうして始まったのが二月革命である。

ペトログラードの市民は、戦争中であるにもかかわらず、大規模ストライキを起こした。
新聞も発行されず、電車も動かなかった。
戦争反対、専制政府打倒のスローガンを掲げて、農民、労働者、兵士などがソヴィエトを組織した。

ニコライ2世はデモが大きくなったため、国会を解散し、自身も皇帝から降りた。
これによりロマノフ朝は終わった。

臨時政府が樹立した。
一方、ソヴィエトの勢力も大きかった。
臨時政府とソヴィエトのふたつの勢力が並立した。
二重権力の状態となった。

臨時政府は、イギリスやフランスと協力して勝利するまで戦いを続けるべきだと主張した。
一方、ソヴィエトは戦争は早期終結すべきだと主張した。
臨時政府とソヴィエトの主張が平行線をたどるなか、レーニンが現れた。

レーニンは亡命先からロシアに帰国した。
四月テーゼを発表した。
臨時政府を打倒し、ソヴィエトが全権力を持つべきとの基本方針を出した。
ソヴィエトは臨時政府を倒す準備を進めた。

臨時政府はソヴィエトを攻撃した。
レーニンの支持者は臨時政府を反撃した。
臨時政府の代表は逃亡した。
ソヴィエトが政権を担った。
レーニンは1918年、社会主義ソヴィエト共和国を宣言した。
これを十月革命という。
レーニンは賠償金を支払うことを約束し、第一次大戦から離脱した。
ロシアの支配下であったウクライナ、ラトビア、ベラルーシとともに1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦を成立させた。 

レーニンは体調を崩した。
後任者としてスターリンがソ連の書記長に就任した。
スターリンは独裁政治を展開した。
反対する者を殺害し恐怖政治を行った。

1922年、アメリカで世界恐慌が起こった。
ドイツでヒトラーが政権を掌握した。
1939年、ドイツはポーランドに侵攻した。
イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。
第二次世界大戦が始まった。

戦争が始まっても、ソ連は戦争に直接参加しなかった。
ドイツは1941年、ソ連に侵攻した。
ソ連は本格的に戦争に参加した。
ドイツ軍は優勢に戦いを進めた。
モスクワなどの重要都市を攻めた。

劣勢だったソ連は、レニングラードやスターリングラードでの戦いでドイツ軍を撃退した。
フランスではノルマンディー上陸作戦が、イギリスやアメリカを中心に決行された。
ドイツは大きな打撃を受けた。
ソ連、アメリカ、イギリスはドイツの首都ベルリンを攻めた。
ソ連軍がベルリンを占領した。
ドイツは降伏した。
第二次世界大戦が終わり、ソ連は戦勝国となった。

第二次世界大戦が終わると、ソ連とアメリカとの冷戦の時代へとなった。
ソ連は東ヨーロッパとの関係を深めた。
ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどで、親ソ連政権を誕生させた。
これらの国は共産党による独裁体制を敷いた。

アメリカはイギリス、フランス、西ドイツに対して経済援助を行った。
これらの国では経済が復興していった。
東側諸国は諸国同士で協力して経済復興に取り組んだ。
しかしどの国も経済が発展していなかったため、強力しても復興にはつながらなかった。

スターリンは1953年に亡くなった。
フルシチョフが後継者となった。
スターリンの独裁的手法を批判し、集団指導体制を敷いた。

キューバで革命が起こり、社会主義国家が誕生した。
フルシチョフはキューバのリーダーを援助した。
アメリカに近いキューバに、極秘にミサイル基地の建設を進めた。
ケネディ大統領はこれを知り、ソ連とアメリカとの政治的対立はピークに達した。

核戦争が起こる寸前までいった。
フルシチョフとケネディは話し合いを重ねた。
フルシチョフはキューバからミサイルを引き上げた。
核戦争の危機はとりあえず去った。

ブレジネフが第一書記となった。
ソ連とアメリカとの対立関係は緩和に向かった。

ゴルバチョフが書記長に就任した。
1989年、アメリカのブッシュ大統領とマルタ島で会談を行った。
ふたりは冷戦の終了を確認した。
ソ連とアメリカとの関係は、新しい時代に入った。

ソ連の強い影響下にあった東ヨーロッパ諸国の人々が、民主化を求めて活動を起こした。
ハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアなどが民主化した。
これらの国々は自由経済を導入していった。 

エリツィンは改革を進めようと考えた。
現体制を維持したいゴルバチョフと対立した。

ウズベキスタン、ウクライナ、カザフスタンが1991年にソ連から独立した。
ソ連邦の存在意義が失われていった。
エリツィンはゴルバチョフを辞任に追いやった。
エリツィンはソ連を消滅させた。
エリツィンを初代大統領とするロシア連邦が誕生した。

エリツィンは経済の自由化に力を入れた。
イギリス、フランス、アメリカからもモノやサービスが入って来た。
しかし70年間、社会主義のもとで暮らしていた国民は、自由経済にうまく対応できなかった。

プーチンが1999年、大統領に就任した。
2008年に一度、大統領を退任し首相となった。
2012年、再び大統領に就任した。
プーチンは2014年、クリミア半島を併合した。
国民投票が2020年行われ、プーチンは2036年まで続投することが可能となった。
2022年、ウクライナに軍を派遣した。
2023年現在も、戦争が継続している。




Posted on 2023-12-27 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed
関連記事