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ドイツの歴史


2000年前のヨーロッパは、ローマ帝国が大分部を支配した。
ヨーロッパ大陸を流れるライン川とドナウ川は、ローマ帝国とそれ以外の地域を分ける境界となっていた。
この境界線の向こう側に住んでいた人種こそ、今のドイツ人の祖先ゲルマン人である。
支配地域を拡大させ続けたローマ人だが、川向こうのゲルマン人地域には進出しなかった。

やがて、ゲルマン人は人口が増えていき、食料が不足した。
東からはフン族が攻めてきた。
困ったゲルマン人はライン川とドナウ川を越えて、ローマ帝国内に入っていった。
ゲルマン人は長い時間をかけて、ローマ帝国内の各地に大量に移住した。
これを、ゲルマン人の大移動と呼ぶ。

ローマ帝国は東西に分裂した。
ゲルマン人は、分裂後の西ローマ帝国を滅ぼした。
西ローマ帝国だった各地に、ゲルマン人国家をどんどん作っていった。

ゲルマン人国家のなかでも、ひときわ大きな国家がフランク王国だった。
フランク王国はローマ教皇とのつながりを深めた。
キリスト教世界で大きな力を持った。

巨大になったフランク王国では権力争いが起こった。
王国は3つに分裂した。
西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国である。
それぞれ今のフランス、イタリア、ドイツの原型となっていく。

分裂した王国では、どこも王の権力が弱かった。
王とはいうものの、貴族と同等であった。
貴族の上に立ちたいと考えた東フランク王国のオットー1世は、王ではなく、皇帝として国をまとめ上げようと考えた。

大きな権威を持っていたローマ教皇に協力を依頼して962年、ローマ教皇から皇帝の称号を授かった。 
オットー1世は皇帝となり、これ以降、東フランク王国は神聖ローマ帝国と名称を変えた。

オットー1世が亡くなると、皇帝の権威は堕ちた。
皇帝は、形式的なものとなった。
帝国内の諸侯たちは独自に小さな国家をつくっていった。
これら国家のことを領邦と呼ぶ。
また、領邦をたばねる人を領邦君主と呼ぶ。

神聖ローマ帝国は、たくさんの領邦を束ねるための枠組み的なものへ役割を変えた。
皇帝の権威は相変わらず安定しなかった。
しかし、ハプスブルク家が皇帝となった1493年以降は、皇帝の権威は安定していった。




14世紀、イタリアを中心にルネサンスが起こった。
ローマにあるサンピエトロ大聖堂の再建工事が計画された。
ローマ教皇は大量の工事資金を必要とした。
資金を調達するため教皇は、罪を消すことができる贖宥状を販売した。
キリスト教徒は罪を持ったままでは死後、天国に行けない。
罪の意識を持っていた多くの教徒たちは、贖宥状を買った。
贖宥状で罪を消し、死後は天国に行こうとした。

マルティン・ルターは、贖宥状を厳しく批判した。
神からの救済はお金ではなく、神を信じることで得られると主張した。
聖書にもとづいた主張であった。

ルターは、聖書をドイツ語に翻訳した。
それまでは、聖書はラテン語で書かれていた。
聖職者以外の人々は、聖書を読むことができなかった。
民衆は教会に行き、聖職者が話すことを聞いて、キリスト教や聖書を教えを理解していた。
聖書は聖書職者が独占していた。

ルターは聖書を翻訳した。
聖書を読む民衆が増えていった。
ルターの支持者が増えた。
ルター支持者は、帝国内のローマ教皇支持者と対立した。
神聖ローマ帝国は混乱した。

ついに1546年、神聖ローマ帝国内でカトリックとルター派との間で戦争が起こった。
戦いは長引いた。
決着はつかなかった。
アウグスブルクの和議で終結した。

アウグスブルク和議によって、神聖ローマ帝国内の領邦は、領邦君主が信仰する宗派を決めることになった。
領邦内の民衆は、君主が決めた宗派を信仰することになった。
民衆に信仰の自由はなかった。

神聖ローマ帝国内には強大なふたつの領邦があった。
ひとつはオーストリアである。
オーストリアは、12世紀頃に誕生した。
ハプスブルク家が実権を握ると、国力を強めた。
神聖ローマ帝国内でひときわ大きな力を持った。
神聖ローマ帝国の皇帝は、ハプスブルク家から代々選ばれた。

ハプスブルク家カール5世が神聖ローマ皇帝に即位した。
カール5世はスペインとも血縁関係を持っていた。
そのため、スペインもオーストリアの領土となった。

当時のスペインは大航海時代を経て、アメリカ大陸やフィリピンも領有していた。
カール5世はヨーロッパだけでなく、世界中に広大な領土を持つこととなった。

神聖ローマ帝国内のもうひとつの強大な領邦がプロイセンだ。
プロイセンのルーツはドイツ騎士団領である。
ドイツ騎士団は、プロイセンにもともと住んでいたプロイセン人を追い払い住み着いた。
ドイツ騎士団はプロイセンという名前を引き継いで、プロイセン公国をつくった。

名門ホーエンツォレルン家がプロイセンを引き継ぐと、力をつけていった。
神聖ローマ帝国内で大きな影響力を持った。




17世紀、宗教戦争が起きた。
戦争のきっかけは、チェコの原型ベーメン王国であった。
このときのベーメン国王はハプスブルク家フェルディナント2世だった。
ベーメン王国はルター派が多かった。
フェルディナント2世はカトリックであった。
フェルディナント2世はベーメンの民衆にカトリックを強制した。

民衆は激怒した。
民衆はプラハ城にいたハプスブルク家の役人を窓から落とした。
これがきっかけとなって、カトリックとプロテスタントとの対立が大きくなった。
大規模な戦争が始まった。
戦争はおよそ30年間続いた。
三十年戦争と呼ばれる。

戦争は4つの段階に分けられる。
第1段階は、カトリックであるオーストリアと、プロテスタントのベーメン王国との戦いである。
オーストリアは強国であり、ベーメン王国は弱国あった。
オーストリアは圧勝した。
惨敗したベーメン王国の諸侯たちは処刑されたり、財産を没収された。

第2段階は、戦争が国際的に発展した。
当時のヨーロッパでは、強大な力を持つハプスブルク家に対して、フランスは危機感を覚えていた。
フランスは、オランダ、イングランド、デンマークなどといったプロテスタント派国家に、反ハプスブルク同盟の結成を呼び掛けた。
まず、デンマーク王クリスチャン4世が戦いに参加した。

カトリック側は傭兵隊長ワレンシュタインが10万の神聖ローマ皇帝軍を率いて立ち向かった。
ワレンシュタインは戦いを優位に進めた。
和平条約が1629年に結ばれた。

第3段階である。
スウェーデンのグスタフアドルフ(プロテスタント側)が1630年、神聖ローマ皇帝軍と戦った。
グスタフアドルフは戦術に長けていた。
激しい戦いの末、グスタフアドルフは皇帝軍に勝利した。

グスタフアドルフはその後、ワレンシュタインとも戦った。
この戦いでグスタフアドルフは戦死した。
戦いはスウェーデンが勝利した。

第4段階である。
フランスがハプスブルク家の弱体化を狙って参戦した。
フランスはカトリック国家であった。
ハプスブルク家と宗教的には同じ側である。
しかし、フランスは何としても、ハプスブルク家が強大化していくのを阻止したかった。
フランスはプロテスタント側に立って戦った。

フランスが参戦したことで、戦争はより国際的になり、より複雑になった。
1640年になると、カトリック側もプロテスタント側も国家が疲弊し始めた。

和平交渉が始まった。 
ウェストファリア条約が1648年に結ばれた。
ようやく三十年戦争が終わった。

ウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国内の領邦は、これまで以上に強い主権を持つこととなった。
領邦は、ほぼ独立国家と同等になった。
領邦をたばねる役割の神聖ローマ帝国の体制は失われた。
神聖ローマ帝国の存在意義が消えた。
後世、ウェストファリア条約は、神聖ローマ帝国の死亡診断書と呼ばれることになった。

このあと、神聖ローマ帝国は立て続けに戦争に巻き込まれた。
フランスは絶対君主ルイ14世のもと、大きな力を持っていた。
ルイ14世は国土を広げようと、対外戦争を起こした。

フランスは神聖ローマ帝国の国境地域、アルザスロレーヌ地方に1688年
侵攻した。
神聖ローマ皇帝は、フランスの強大化に危機感を持っていたスペイン、オランダ、スウェーデン、イギリスなどと同盟を結んで対抗した。

戦いは同盟軍の勝利となった。
ルイ14世はアルザスロレーヌ地方から退却した。

スペインで、カルロス2世が亡くなった。
ハプスブルク家が断絶した。
ルイ14世はこれを好機と捉えた。
ルイ14世はスペイン・ハプスブルク家と血縁関係を持っていた。
孫のフィリップをスペイン王に即位させようと考えた。

スペインは、フランスの強大化を恐れ、戦争が始まった。
オーストリアも戦いに巻き込まれた。
スペイン継承戦争である。

戦争はあいまいな形で終結した。
フィリップはスペイン王に即位した。
しかし、スペインとフランスとの合併は禁止された。

オーストリアに初の女帝マリア・テレジアが即位した。
プロイセンは女帝即位に反対した。
神聖ローマ帝国内のふたつの強国オーストリアとプロイセンが戦争を始めた。
オーストリア継承戦争である。

プロイセンにとって戦争の目的は、オーストリアのシュレジェン地方という、鉄が取れる地域を奪うことにあった。
マリア・テレジアが皇帝になることは、実はどうでもよかった。
オーストリアの弱体化を狙うフランスも参戦した。
国際的な戦争へと発展した。

1745年に講和条約が結ばれた。
プロイセンは念願のシュレジェン地方を獲得した。
マリア・テレジアはシュレジェンを取り返すため、驚きの策を打ち出した。
フランスとの同盟であった。

フランスとオーストリアは長年対立関係にあった。
マリア・テレジアは娘のマリー・アントワネットをフランス王家に嫁がせて、フランスとの関係を改善した。
この外交方針の大転換は、外交革命と呼ばれた。

マリア・テレジアは次にロシアと同盟を結んだ。
1756年、再びプロイセンと戦った。
七年戦争である。

初戦は、オーストリア、フランス、ロシアの軍事力がプロイセンを圧倒した。
しかし、ロシアはツァーリがピョートル3世に代わると、プロイセン側についた。
フランスは1754年からアメリカ大陸植民地を巡ってイギリスと戦争しており、そちらへ兵力を割くようになった。
オーストリアは少しづつ力を弱め、プロイセンが徐々に優位になった。
ついにオーストリアはシュレジェン地方を奪還することはできなかった。

七年戦争のあと、ヨーロッパはしばしの小康状態であった。
1789年のフランス革命が、その状況を破った。
国民が国王と王妃を処刑したのだ。
王妃はマリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットであった。
フランス革命はオーストリアに大きな衝撃を与えた。

ほかの国家も、王政が市民によって倒されたことに驚愕した。
自国の王政維持のため、フランスを倒そうと、周辺国はフランスに攻撃を行った。

フランスは周辺国とのあいだに圧倒的な戦力差があり苦戦した。
しかし、軍事の天才ナポレオンが実権を握ると、フランスは巻き返していった。

ナポレオンはオーストリアやプロイセンと戦いこれらを破った。
ナポレオンは勢力を拡大させた。
ナポレオンは神聖ローマ帝国の領邦を支配し、ライン同盟を結成した。
これによって、これまで一応は領邦の枠組み的な存在であった神聖ローマ帝国は、完全に存在する意味を失った。
およそ千年間続いた帝国は、ここに事実上滅亡した。

ナポレオンはロシアとの戦いで、大寒波のため敗北した。
これがきっかけとなり、ナポレオンは力を弱めた。
ナポレオンは、オーストリアやプロイセンも参加するライプツィヒの戦いで完全に敗北した。
ナポレオンはエルバ島に流された。

その後、ナポレオンは復活した。
しかし、イギリスやプロイセンなどによって完全に打倒された。
ヨーロッパ諸国は、ナポレオンによって大きく変わった領土や政治体制をどうするか、ウィーン会議を開いて話し合った。

諸国は、ヨーロッパを基本的にフランス革命が起きる前の状態に戻すことを決めた。
フランスやスペインでは王政が復活した。
ただ神聖ローマ帝国を復活させることは不可能であった。
そこで、ドイツ連邦が成立した。
ドイツ連邦はひとつの国家というより連合体であった。
引き続きオーストリアやプロイセンが大きな勢力を誇った。

フランス革命やナポレオン戦争で、自由主義とナショナリズムが広がった。
国民が王や皇帝の制約を受けず、自由に信仰し表現し生きたいという自由主義や、フランス人はフランスという統一国家をつくり、ドイツ人はドイツという統一国家をつくりたいというナショナリズムの考えが、フランスを中心に、ヨーロッパ全土へ広がった。

王や皇帝は自由主義を邪魔に考えた。
ウィーン会議で自由主義を封じ込めた。
しかし民衆のある勢力は、フランスを中心に自由主義を求め革命を起こしていった。
その流れはドイツにも及んだ。

オーストリアでは、自由主義や立憲君主制を求める学生運動が起こった。
多民族国家であるオーストリアで、言論の自由や信仰の自由を民衆に与えると国家の崩壊につながる。
そこでオーストリアは自由主義を求める学生運動を取り締まった。
そして、君主制国家であることを法律で決めた。

フランスで二月革命が起きた。
革命の熱波はドイツにも及んだ。
ドイツでは三月革命が起きた。
自由と憲法成立を求めた暴動を起こす民衆が現れた。
ナショナリズムの思想もつながり、ドイツ系統一国家の建設も求めた。

統一国家をつくる目的で、ドイツ内の各国から選挙で選ばれた代表がフランクフルトに集まり国民議会が開かれた。
現在の体制を維持したいオーストリアやプロイセンは議会を作ることに反対した。
これに対して、フランクフルト国民議会はドイツ国憲法を制定して対抗した。
皇帝が決まれば、ドイツ統一国家にすることができるところまできた。
国民議会はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世を皇帝に任命した。

ヴィルヘルム4世は、憲法によって自分の皇帝権が制限されることを懸念し、皇帝になることを拒否した。
国民議会は解散した。
三月革命はドイツ統一寸前までいったが、失敗に終わった。




革命は失敗したが、立憲君主制としての新たな国家体制が模索されていった。
オーストリアは1859年のイタリア統一戦争などで国力を下げてしまい、ドイツ統一はオーストリアではなくプロイセンを中心に進めたほうがいいという流れをつくった。

プロイセン国王ヴィルヘルム1世から宰相に任命されたビスマルクは、国家統一は演説や多数決で解決されるのではなく、鉄と血で解決されると主張した。
つまりは、ドイツ統一のために軍事行動をとることを宣言したのである。

ビスマルクは、オーストリアを排除して、プロイセンを中心とする統一ドイツの成立を目指した。

オーストリアは多民族国家であったので、統一ドイツに含めると混乱が起きると考えたからだ。

しかもオーストリアはこのところ、戦争に負け続けていた。

ビスマルクはドイツ統一に動き出した。
デンマークと戦い、シュレースヴィヒ=ホレーシュタインを奪った。
ここには85万人のドイツ人が住んでいた。
ビスマルクはこの地はドイツであると主張した。

ただ、ビスマルクは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインを奪うのに、オーストリアと協力してデンマークと戦った。
そのため、シュレースヴィヒ=ホルシュタインはオーストリアとの共同統治になった。

シュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って、プロイセンとオーストリアが戦争を始めた。
プロイセンがオーストリアを圧倒し勝利した。
ビスマルクは、さらにほかのドイツ系国家をまとめあげ、ドイツ統一に向けて進んだ。

世論の流れもつくった。 
隣国フランスを利用した。
国民のなかに反フランス感情を高め、ドイツ統一への意識を強めた。

ビスマルクは、普仏戦争を始めた。
ドイツは戦闘で勝利を重ね、圧倒的に有利に戦争を進めた。
フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の宣言を行った。

ヴィルヘルム1世が皇帝に即位した。
ドイツの統一は達成した。

ドイツは反フランス政策を進めた。
オーストリアと同盟を結んだ。
その後、イタリアとの同盟を結び、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟を成立させた。

ヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。
野心的な皇帝であった。
ビスマルクと次第に対立していった。
ビスマルクは1890年に解任された。

ヴィルヘルム2世は対外政策を積極的に進めた。
そのひとつが3B政策である。
ベルリン、ビザンティウム、バクダッドの3都市を鉄道で結ぶ政策だ。
イギリスはこれに反応した。

イギリスは、カイロ、カルカッタ、ケープタウンの3都市を拠点として結ぶ3C政策を進めていた。
イギリスは、ドイツの進める3B政策を自国にとって邪魔な存在と考えた。

ロシアも反応した。
ロシアは不凍港を求めて、バルカン半島への進出を考えていた。
3B政策は邪魔な存在であった。

フランスとの関係も悪化した。
ヴィルヘルム2世はフランスが多くの権益を持っていたモロッコを襲撃した。
これにより、フランスと対立関係を深めた。

イギリス、ロシア、フランスはそれぞれドイツとの対立を深めた。
3か国はドイツに対抗するため、三国協商を結んだ。
三国同盟と三国協商という明確な対立の構図が生まれた。

ただし、イタリアはこのときフランスと近づいていた。
三国同盟は崩壊していて、実質的にはドイツとオーストリアとの同盟であった。

オーストリアの皇太子夫妻は1914年、ボスニアを訪問した。
夫妻はボスニアで暗殺された。
サラエボ事件である。
第一次世界大戦が始まった。

ドイツは、イギリス、ロシア、フランス、日本など多くの国々と戦った。
オーストリアは戦いへの士気が低かった。
ドイツは同盟国が役に立たないため苦戦した。

ドイツは無差別に船を攻撃した。
攻撃した船にアメリカ人が乗っていた。
これがきっかけとなり、アメリカが参戦した。
ドイツは第一次世界大戦に敗北した。

講和条約ヴェルサイユ条約が結ばれた。
ドイツは領土の13%、人口の10%を失った。
徴兵も禁止された。
現在の価値でおよそ200兆円という途方もない莫大な賠償金が課された。
ドイツ社会は混乱した。

シュトレーゼマンがドイツ首相に就いた。
戦時中の借金を返済するため、大量の貨幣を流通させた。
国内はインフレとなった。

フランスとベルギーは賠償金を支払わないドイツに対して、報復として工業地帯ルール地方を占領した。
ドイツ政府はルール地方の労働者に、働くふりをしろと指示した。
給料は払うが、生産物は生まれないという状況になった。
貨幣価値がさらに下がった。

アメリカがドイツ経済を援助した。
ドイツの状況は少しづつ良くなった。

アメリカのウォール街で株価の大暴落が起きた。
世界恐慌が始まった。
回復してきたドイツ経済は再び落ち込んだ。
ヒトラーが登場し、民衆は彼を支持した。

ヒトラーは首相となった。
ナチスによる一党独裁政治が始まった。
ヒトラーは、ドイツ経済を回復させるため、高速道路やクルマの製造を推進し、雇用を増やした。
ドイツ経済は徐々に回復した。

ヒトラーはドイツ民族以外を排斥していった。
ユダヤ人を迫害した。

ナチスの目標はヴェルサイユ体制を崩すことであった。
ヴェルサイユ条約により軍の増強は制限がかけられていたが、軍を増強した。
オーストリアやズデーテン地方を併合した。

ポーランドに対して、ドイツ人が90%が占めているかつてのドイツ領ダンチヒの返還と、ドイツの飛び地である東プロシアとのアウトバーンと鉄道の建設を要求した。

ポーランドとしては交渉の余地のある妥協できる要求といえた。
しかし、アメリカのルーズベルト政権はポーランドに対して、ナチスと妥協しないよう強硬に圧力をかけた。
さらに、イギリスとフランスはポーランドの独立を保障していた。
ポーランドはこの保証をバックに、ナチスの要求を受け入れなかった。

ポーランドは旧ドイツ領内のドイツ系住民の虐殺を始めた。
これは、ヒトラーに自国民保護の大義名分を与えることになった。
ドイツは1939年、ポーランドに侵攻した。
イギリスとフランスにとっては、思惑どおりといってよいだろう。
両国はドイツに宣戦布告した。
第二次世界大戦が始まった。

地球上の広い範囲で、イギリス、フランス、アメリカを中心とする連合国と、ドイツ、イタリア、日本を中心とする枢軸国との戦いが展開された。
ドイツは、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。
オランダとベルギーを占領した。
フランスに進攻し、パリを陥落させた。
ギリシアとユーゴスラビアを占領した。
イギリスと戦うも、イギリスには勝てなかった。

ソ連と戦うが、85万人の兵を失って敗北した。
同盟国イタリアは連合国に降伏した。
ドイツは力を弱めていった。

連合国はノルマンディー上陸作戦を決行した。
2か月の戦いののち、ドイツ軍は敗北した。
パリは解放された。
ヒトラーは自殺した。
第二次世界大戦が終結した。

敗戦国ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領された。
新たなドイツは自由主義でいくか、社会主義でいくか模索されたが、合意にはいたらなかった。
アメリカ、イギリス、フランスが支配する西ドイツと、ソ連が支配する東ドイツに分裂した。
東ドイツ内にあるベルリンも、西ベルリンと東ベルリンに分割された。

西ドイツはアメリカの援助などで徐々に経済が回復した。
東ドイツはソ連向け製品を生産させられた。経済は悪化した。
東西ドイツで経済格差が開いた。
東ベルリン住民のなかには、西ベルリンに逃げていく人が増えた。
東ドイツは西ベルリン全周を壁で囲い、監視を強めた。
東ドイツ政府は壁を乗り越え西側に入っていく住民を射殺した。

キューバ危機が起きた。
第三次世界大戦の勃発寸前までいった。
戦争は回避された。
冷戦状態も徐々に緩和されていった。

西ドイツでブラントが1969年、首相に就いた。
ドイツの東西対立が解消に向かった。
ソ連との関係改善を図った。
ポーランドに謝罪した。
東側の国々とも関係を改善した。
ブラントはその後、ノーベル平和賞を受賞した。

東ドイツで1989年、大規模な抗議デモが起こった。
東ドイツ政府が出国の自由を認めるような、あいまいな発言をした。
ベルリンの壁に多くの国民が集まった。
東ドイツ国民の手で、ベルリンの壁が壊された。
アメリカとソ連の代表が会談し、冷戦の終結が決まった。

東西に分裂していたドイツは統一されることになった。
東西ドイツには経済格差があった。
大量の住民が経済力の低い東から経済力の高い西に移動した。

メルケルが女性初首相として2005年に就任した。
メルケルが引退する2018年には、統一直後にあった不穏な空気はほとんど解消された。

Posted on 2024-01-01 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed
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