夏の和歌 蓮葉(はちすは)の にごりの染(し)まぬ 心もて
こんにちは
宮川です。
今回も、夏の和歌を鑑賞して参りましょう!
蓮葉(はちすは)の にごりの染(し)まぬ 心もて
なにかは露を 玉と欺く
この和歌は古今和歌集に収められています。
作者は、平安時代前期の僧・歌人の遍昭(へんじょう)です。
六歌仙および三十六歌仙のひとりで、桓武天皇の孫にあたり、素性の父親でもあります。
歌の意味は、
蓮の葉は、濁った水の中に生えていなが、濁りに染まらない清らかな心を持っている。
なのに、葉に置く露を玉に見せかけて、人の目を欺くのはどうしてだろうか。
です。
この歌は『法華経』の中のある経文を典拠としています。
それは、従地涌出品の「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」です。
「はちす」は「はす」の古い呼び方です。
確かに、はすの花托の形は蜂の巣のようです。
「なに」は副詞で、「どうして」という意味です。
「かは」とくっついて「どうして(なぜ)…か」という意味になります。
蓮の花は、とくに仏教では、泥水の中から生じ、美しい花を咲かせる姿が、仏の智慧や慈悲の象徴とされています。
ほかにも、蓮は泥の中から、綺麗な花を咲かせる。
人間もドロドロとした世間の中からでも、美しい花を咲かすことができるという考えもあります。
蓮の葉の置かれている露を、玉に見立てるのはよくあることです。
でもこの歌は、清らかな心を持つはずの蓮が、人をだますのはどうしてか?と、蓮の矛盾を歌っています。
そこが遍昭ならではの目の付け所ですね。
上野公園の不忍池には、蓮がたくさん生えています。
大きな蓮の葉に載っている水滴を見たことがありますが、光を浴びて本当に玉のようでした。
はすは7~8月に花が咲きます。
咲くとき「ぽん」と音がする、というのは本当なんでしょうか?
早朝に咲くというので、近所に蓮がないので真偽は分からず。いつか確認したいと思っています。
いかがでしたしょうか?
これからも素敵な和歌を、ご一緒に鑑賞して参りましょう!
夏の和歌 いそのかみ ふるきみやこの 郭公(ほととぎす) 素性(そせい)
こんにちは
宮川です。
今回も、夏の和歌を鑑賞して参りましょう!
いそのかみ ふるきみやこの 郭公(ほととぎす)
こえばかりこそ 昔(むかし)なりけれ
この和歌は古今和歌集に収められています。
作者は、平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶である素性(そせい)です。彼は三十六歌仙の一人です。
歌の意味は、
いそのかみの古都で鳴くほととぎすよ。
お前たちの声だけは、昔栄えていたころと少しも変わらないけれど、ほかのすべては変わってしまって、栄えた日の面影はないよ
です。
「いそのかみ」は地名で、現在の奈良県天理市石上です。枕詞で「古き」にかかります。
「声ばかりこそ昔なりけれ」の、「こそ」は係り結びで、「けり」の「已然形(いぜんけい)」の「けれ」と結びついています。意味は強調です。
この和歌には
奈良の石上寺にてほととぎすの鳴くをよめる
という詞書(和歌の前につけ、作歌の時、場所などを簡単に説明する文章)があります。
さかんに鳴きわたるほとどきすの響く声を聞くと、声だけは昔のそのまま。
でも、あたりの風物はすべて昔とすっかり変わってしまった
と、いう余韻が、この歌には込められています。
私事ですけれど、うちの近所には雑木林があって、毎春うぐいすが私たちの耳を楽しませていました。
とうとう去年、伐採され、すっかり造成されて、住宅地と姿を変えました。
いまは新しい家が建つのを待つばかりです。うぐいすの鳴き声もありません。
こういう変化を見たら、素性はどんな歌を詠むのかなあと、思います。
いかがでしたしょうか?
これからも素敵な和歌を、ご一緒に鑑賞して参りましょう!
【愛国の歌】かくすれば かくなるものと 吉田松陰
こんにちは
蓬田でございます!
今回は「愛国の歌」を、皆様とご一緒に鑑賞してまいりましょう!
かくすれば
かくなるものと
知りながら
やむにやまれぬ
大和魂
吉田松陰
安政元年、松陰25歳のときの作です。
この年の4月、江戸獄中から郷里の兄杉梅太郎に宛てた書簡中に書かれています。
松陰は、伊豆下田沖に停泊する米艦船に乗り込もうと企てたものの失敗、捕らえられました。
江戸へ檻送される途中、4月15日、高輪泉岳寺の前を通り過ぎたとき、赤穂の四十七士にたむけた歌です。
四十七士も吉良氏を打てば、死を賜ることは覚悟したはず。
それでも主家の仇を打つことは、武士としてやむにやまれぬことなのだ。
泉岳寺の前を通ったとき、松陰はそう感じ、自分が米艦船に乗り込もうとした気持ちを詠んだのです!
国法に触れるのは承知のうえ
これも国家の前途と思えば
止むに止まれぬことだった
四十七士への哀悼とともに、自らにも向けて詠んだのでした。
今日の一首が、皆様の心に感じるところがありましたら幸いです!
夏の和歌 向日葵(ひまわり)は 金(きん)の油(あぶら)を 身(み)にあびて
こにんちは
宮川です。
今回は、夏の歌の中から、印象派の絵画のような歌を鑑賞して参りましょう!
向日葵(ひまわり)は 金(きん)の油(あぶら)を 身(み)にあびて
ゆらりと高(たか)し 日(ひ)のちひささよ
作者は明治から昭和にかけて活躍した歌人、前田夕暮です。
若山牧水とともに自然主義文学を代表する歌人です。
「夕暮・牧水時代」といわれる時代を築いた後、ゴッホやゴーギャンなど印象派画家の影響を受けた外光派風の作風を経て、昭和初期には口語自由律短歌を牽引し、後の口語短歌の基礎を固めました。
この歌は、歌集『生くる日に』収められています。
教科書にも採用実績があるので、知っている方も多いかもしれません。
歌の意味は、
ひまわりの花は、金色の油のようなギラギラな真夏の光を浴びて、
ゆらりと高く咲いている。その大きさから見ると、太陽が小さく見えることだ
というようなものです。
「金の油」は比喩的表現で、日光のことです。
この歌は四句目「ゆらりと高し」のところで一旦文章の意味が切れますので、「四句切れ」の歌となります。
「区切れ」というのは修辞法の一つで、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。
作者はゴッホを愛してやまない歌人として知られており、この歌は、ゴッホの「ひまわり」に強く触発されて詠んだと言われています。
強い夏の日差しのギラギラ感、ゆらりという表現で大きさを誇示するひまわりの存在感。
空の太陽が小さく見えるという遠近的表現など、ゴッホの「ひまわり」が思い浮かぶような作品です。
いかがでしたしょうか?
これからも素敵な和歌を、ご一緒に鑑賞して参りましょう!
夏の歌 かまくらや 御(み)ほとけなれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は
こにんちは
宮川です。
今回は、夏の歌の中から、イケメンが出てくる歌を鑑賞して参りましょう!
かまくらや 御(み)ほとけなれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は
美男におは(わ)す 夏木立(なつこだち)かな
作者は明治から昭和にかけて活躍した歌人・作家にして思想家、与謝野晶子です。
この歌は歌集「恋衣」に収められています。そして、大仏様のおわす鎌倉大仏殿高徳院に歌碑があります。
歌の意味は、
鎌倉よ。仏様ではあるけれど釈迦牟尼はとても美男でいらっしゃる。夏木立の中で。
というようなものです。
「釈迦牟尼」とは釈迦の尊称です。
「おはす」は尊敬語です。
この歌のすごいところは、お釈迦様を美男子と言ってしまったところだと思います。
それは畏れ多いことで、それまではなかった表現だったのだと思います。
それが当時は読む人を驚かせたのだと思います。
いまの私たちにも当然、響きます。
いつの時代も、女性はハンサムかどうかが重要ですものね!
本当は大仏様は釈迦牟尼ではなく阿弥陀なのだそうです。
そんな間違いも通してしまうおもしろさが、この歌にはあるような気がしますがどうでしょう?
鎌倉は三方を山に囲まれ、一方を海に開いた古都。
かわいらしい江ノ電に乗って、お寺を回ったあと喫茶店に入って、お土産を見て、と楽しく観光した憶えがあります。
緑がうっそうとする夏に、鎌倉のイケメンをこの目で確かめに行ってみたいものです。
夏の和歌 五月雨(さみだれ)の 晴れ間にいでて 眺むれば
こにんちは
宮川です。
今回は、夏の歌の中から、梅雨どきの歌を鑑賞して参りましょう!
五月雨(さみだれ)の 晴れ間にいでて 眺むれば
青田(あおた)すずしく 風わたるなり
作者は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、良寛です。
良寛で思い出すのは、家の床下から竹が伸びてきたので、床板をはがしたり、果ては屋根に穴をあけて、竹が思う存分伸びるようにしてあげた、というエピソードです。
万物に思いやりを与えた優しい人だったのでしょうね。
良寛は歌人でもあり、この作品は「良寛禅師歌集」に収められています。
歌の意味は、
五月雨が止んだ晴れ間に、外に出て眺めてみた
青々と広がる田んぼに、初夏の風が涼しげに吹きわたっている
「五月雨(さみだれ)」とは、陰暦の5月、今でいうと6月頃に降る雨、つまり、梅雨のことです。
「青田」とは、稲が青々とよく育っている田のことです。
私は実家に帰るとき、車窓から、移りゆく景色を眺めるのが好きです。
梅雨の時期、一面に広がる田んぼは田植えがすんで、初々しい小さな苗が規則正しく並んでいるのが見られます。
晴れていれば、水面が鏡のように青空を映していて、写真に収めたくなるような光景でしょう。
さて、良寛は、梅雨どきの雨の合間に、久しぶりに外に出て、青々と広がる稲の田を見たのでしょう。
みずみずしい緑色の稲が、風を受けていっせいに動くのを見たら、きっと爽やかに思ったことでしょうね。
夏の和歌 小高(こだか)くは かつて木(き)植(う)ゑじ 万葉集
こにんちは
宮川です。
今回は、夏の歌を鑑賞して参りましょう!
小高(こだか)くは かつて木(き)植(う)ゑじ
ほととぎす 来(こ)鳴(な)きとよめて 恋(こひ)増(ま)さらしむ
万葉集 巻十
作者は不明です。
歌の意味は、
こんもりとは 決して木を植えないようにしよう
ほととぎすが来て、しきりに鳴いて 恋をつのらせるから
意味がよく分からない言葉を確認しておきましょう。
かつて
打ち消しの表現をともなって、「決して」という意味です。
とよめて
「とよむ」は、響き渡るの意味。
増(ま)さらしむ
文末の「しむ」は使役の意味。直訳すれば「増さらせる」。
ほととぎすは、夏の季節の到来を告げる、代表的な渡り鳥です。
渡ってすぐは、夜昼かまわず鳴くという特徴があります。よく響く鳴き声です。
鳴き声はYoutuneでも聞けると思います。どんな鳴き声か忘れてしまった人は、ぜひ聞いてみてください。
わたしも、この歌をご紹介するにあたって、改めてYoutuneで聞いてみました。
高原か近所の雑木林で聞いたことのある鳴き声でした。
透明感がある声です。
明るい緑の葉や、澄んださわやかな空気が思い起こされます。
自分の家の庭で、昼夜問わず鳴かれたら、気になるかもしれませんね。
歌にあるように、ほととぎすの鳴き声を聞いて恋しい気持ちが募ると胸が苦しくなるから、ほととぎすが来ないように木は植えないで、心の平静を保つのもうなずけますね。
春の歌十選(二)年のうちに 春は来にけり
ふるとしに春たちける日よめる
年のうちに 春は来(き)にけり ひととせを
去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ
古今和歌集 在原元方(ありはらのもとかた)
現代語訳は、
新年になる前に立春を迎えた日に詠んだ歌
年内のうちに 春が訪れた この一年を
去年と呼んだらいいのだろうか 今年と呼んだらいいのだろうか
『古今和歌集』の巻頭の歌です。
陰暦では、立春の前に正月が来るときもありますし、後のときもありますし、同じ日のときもあります。
現在の太陽暦では、立春はだいたい2月4日頃ですから、正月の1月1日より後であるのは決まっています。
でも、昔の陰暦ではそうとは限らなかったんですね。
新年になる前に立春が来たというの詠んでいます。
今の私たちにとっては、暦が違うのでちょっと分かりにくいですね。
歌にある「ひととせ(この一年)」とは、立春以降、大晦日までの間を指しています。
上の画像は、『古今和歌集仮名序』(巻子本)。仮名序の冒頭部分です。
国宝。大倉集古館蔵。
和歌の達人?! 在原元方(ありはらのもとかた)
歌人として活躍しました。勅撰和歌集にたくさんの歌が入集されています。
『古今和歌集』に14首、『後撰和歌集』に8首、『拾遺和歌集』に2首、『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも9首が載っています。
家集には『元方集』がありますが、断片的に伝わっています。
歌に巧みなのは、祖父が、六歌仙、三十六歌仙のひとり在原業平(ありわらのなりひら)だからでしょうか。
在原業平と言えば、『伊勢物語』の主人公。都ではプレイボーイとして活躍していた男ですね。
(一)でも書きましたが、将来の后として育てられていた高子(こうし、たかいこ)に恋し、大胆にも略奪して都からふたりで逃亡。
しかし、途中で高子の兄たちにつかまってしまって、都に連れ戻されてしまいました。
こんな業平を祖父に持つ元方(もとかた)も、勅撰集にたくさんの和歌が載せられているのをみると、感受性が豊かだったのでしょうか?
ややこしい暦
この時代、暦が入れ替わる時期であったようです。
昔の暦については詳しくないのですが、いろいろな暦が使われていたようで、変更も珍しくなかったようですね。
暦というのは、国家(当時、政権を担当する貴族たちに「国家」という意識があったのかどうかは分かりませんが)の時間を規定する、政権にとってとても重要なものです。
中国でも古代から暦は国家の根幹として重要視されてきました。中国に限らず、世界中の文明でそうなのではないでしょうか。
面白くない歌?!
『古今和歌集』は初代の勅撰和歌集という極めて重要な和歌集です。
その巻頭を飾る歌ですから、気合いを入れた歌のはずです。
その歌が、
「まだ年内なのに、もう春が来た。この一年を去年というべきか今年といべきか」
という内容って、なんとなく違和感あります。皆さんはどうお感じでしょう?
この歌に初めて接したとき、わたしは「あまり面白くない歌だな」と思いました。
太陽暦で過ごしている私たちにとって、旧暦の感覚は馴染みが薄いということはもちろんあります。
それを差し引いても、ただ事実を述べているような感じで、「だから、どうした?!」という印象でした。
時間が経って、再び接したときは、少しは暦のズレに焦点を当てて鑑賞できるようになり、「何となく面白いな」という感じには変わってきました。
呆れ返った無趣味の歌
同じように感じている人はほかにもいて、明治時代の正岡子規もそうでした。
子規の『再び歌よみに与ふる書』に、この歌についてこうあります。
「古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返った無趣味の歌に有之候。日本人と外国人の合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候」
意味は、
「古今集を手に取って1ページ目を開くと、すぐに「去年と言えばいいのか、今年と言えばいいのか」という歌が出て来る。実に呆れ返った無趣味の歌である。日本人と外国人との間に生れた子を「日本人と言えばいいのか、外国人と言えばいいのか」とシャレているのと同じことで、実際はシャレにもならないつまらない歌だ。」
日本人と外国人の間に生まれた子どもを「日本人と言えばいいのか!? 外国人と言えばいいのか!?」という例えは面白いですね。
当時、日本に外国人が増えてきたことも背景にあるのでしょう。
小林一茶も同様の感想を持ちました。
年の内に 春は来にけり いらぬ世話
『七番日記』(文化十三年十一月)にある句です。
確かに、いらぬ世話ですね。
子規や一茶でさえ「くだらない歌」と言っているのですから、とりあえずそうしておきたい気持ちですが、この歌を賞賛している人もいます。
藤原俊成です。
「この歌まことに理(ことわり)つよく又おかしくもきこえてありがたくよめる歌なり」と褒めています。
興味深いことに、『続後撰和歌集』の巻頭歌は、俊成が「年内に春が来た」というのを歌っている歌です。
年のうちに 春立ちぬとや
吉野山 霞かゝれる 峰のしら雲
(現代訳)
年のうちに、立春になったそうだ
吉野山の霞のかかった峰には、白雲が出ている
年はまだ改まっていないけれど、吉野山には、霞がかかり白雲が出て春のようだ、と歌っています。
なぜくだらない歌が巻頭に?
ではどうして、「くだらない歌」(この歌が好きな人、申し訳ありません)と思っている人が少なくないのに、初代勅撰和歌集という重要な和歌集の巻頭に入ったのか?
私なりに、みっつ考えてみました。
1. 暦は天下国家を統(す)べる基本中の基本という考え方から、巻頭に置いたのではないでしょうか。
社会は暦によって動き、民は暦によって生活し仕事します。
これほど重要な暦をテーマに、貴族らしい趣で和歌を読み、勅撰和歌集の最初に置くのは、政権を担当する貴族としてあり得るのかもしれません。
2. 詠み手の元方は、当時、最大の実力者ではなかったかということ。実力者が詠った歌ですから、冒頭に置いて敬意を表したのかも。
3. ひとつ目と少しかぶりますが、暦をテーマにした歌を冒頭に置くことで、勅命を下した醍醐天皇にとっての「新しい世の幕開け」のような気分を出したかったのではないか?
どうでしょうか?
皆様の和歌鑑賞のとっかりにでもなれば幸いです。
※和歌の現代語訳のなかには、筆者(蓬田)による意訳もございます。
※間違いや違う解釈がありましたら、ご教示ください。
※画像はWikipediaより引用しています。
春の歌十選(一)雪のうちに 春は来にけり
二條后(にでうのきさき)の春のはじめの御歌
雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐひす)の
こほれる涙 今やとくらむ
古今和歌集 二條后(にじょうのきさき 藤原高子)
現代語訳です。↓↓↓
二條后(にじょうのきさき)が詠んだ歌
(庭先に)雪は積もっているが 春はやって来た (谷間にいた)鶯は
(冬の寒さのために流していた)涙は凍っていたが それも今はとけているだろう
実際の風景から想像の世界へ
七十二候「東風(こち)凍(こおり)を解(と)く」にもとづいて詠まれた歌です。
立春になって、東から吹く温かい風が氷をとかすという七十二候の意味と、寒さ厳しい谷間で、鶯の流した涙も凍っていたが、立春になってその涙もとかしているだろうという歌の意味が重なっています。
始めの二句「雪のうちに 春は来にけり」は実際の風景、後半の三句「鶯の こほれる涙 今やとくらむ」は想像の世界を詠っているのでしょうか。
実際の風景を見ているうちに、想像の世界へと気持ちが動いていったとも言えますね。
「鶯のこほれる涙」というフレーズは大変に印象的です。もちろん、鶯が涙を流すというのは作者のイマジネーションです。
このフレーズは後世にも影響を与えていて、惟明(これあき)親王は次のように詠んでいます。
鶯の 涙の冰(つらら) うちとけて
ふるすながらや 春を知るらむ
(現代語訳)
谷間の寒さで鶯の流した涙はつららとなっていたが、立春になってその涙もとけて
古巣にいた鶯も春の到来を知ったことだろう
『新古今和歌集』に載っているこの歌では、鶯の涙が寒さのためにつららになっているというのです。
もちろん想像の世界でありますが、つららにまで誇張されているのが面白いですね。
伊勢物語の主人公、在原業平との激しい恋
作者の藤原高子(こうし)ですけれど、歌人で平城天皇の孫、在原業平(ありわらのなりひら)とラブラブの関係にありました。
ところで、女性の名前の呼び方ですが、作者の「高子」をどう呼ぶのか? 実は当時どう呼ばれていたか、分かりません。
そこで、普通は音読みで呼ぶのが通例となっています。高子の場合は「こうし」。「たかいこ」と表記されることもありますが、そう呼ばれていたかは、はっきり分からないんですね。
話を在原業平に戻して、業平は天皇(平城天皇)の孫という高貴な血筋でした。しかし、叔父の高岳親王が薬子の乱に関連して廃王子となり、兄の行平中納言も文徳天皇の皇嗣問題に関連して失脚。業平も、政権から遠ざけられてしまったのです。
そんな業平ですが、外形は美男、プレイボーイでした。しかも和歌がうまい。業平は昔から美男の代名詞です。
その業平が高子のところに通うようになりました。皇后になる前のことです。
このあたりの事情は「伊勢物語」に書かれています。
昔、男ありけり。ひむがしの五条わたりに、いと忍びて行きけり。密かなるところなれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり
密通ですから、表門からは入れません。築地の崩れた所から忍び込んで、人目を避けているわけです。
しかし、ついにバレます。高子は名門藤原氏の出身。将来の妃候補です。高子の兄たち(基経、国経たち)からすれば、平城天皇の孫とはいえども、政治の表舞台からは遠ざけられた業平は、妹の相手ではありません。
兄たちは、築地の崩れにも番人を立たせ、業平が通えなくします。業平は、高子に和歌を送ります。
人知れぬ わが通ひ路の 関守は
よひよひごとに うちも寝ななむ
(夜になったら番人が寝てくれれば、あなたのもとに通えるのに)
こうした日が続いたある夜、業平は大胆な行動に出ます。夜、高子を盗み出してしまうのです。
高子を背負い、芥川(いまの大阪府高槻市)を渡って行くふたり。高子は草の上の露を見て「あれは何?」と業平に聞きます。
深層の姫君として大切に育てられた高子は、露を見たことがなかったのです。
下の画像は、月岡芳年が描いた《在原業平と二条后》です。このエピソードはいろいろな画家によって描かれています。
雷鳴が轟き、雨が強く降ってきため、ふたりは粗末な倉に入りました。業平は、高子を押し入れて匿い、弓矢を持って戸口の見張り番をしました。
しかし、兄たちに見つかり、高子は連れ戻されてしまいます。
失意の業平は、歌を詠みました。
白玉か 何ぞと人の 問ひし時
露と答へて 消えなましものを
(あれは何とあなたが聞いたとき、「露だよ」と答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのに)
何とも頼りない男ですなあ。平安時代の貴族というのはこういうものだったんでしょうか? それとも、業平のプレイボーイ術なのでしょうか?
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身ひとつは もとの身にして
(月は昔と同じ月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか。 私だけは去年とかわらず、あなたを思っているままなのに)
怒り狂った高子の兄たちは、業平を押さえつけて髪を切ったと伝えられています。
また、このことを聞きつけた帝も、業平を従五位から従六位に降格し、東国に追放してしまいます。やむなく業平の東下りとなるのです。
業平と高子の再会
連れ戻された高子は、清和天皇と結婚。清和天皇は、高子の9歳年下でした。
高子27歳のとき、貞明親王(後の陽成天皇)を産みます。
親王は九歳で天皇に即位。高子は夫(清和上皇)、兄の藤原基経とともに幼帝を輔佐して(基経は摂政)、政治の場で活躍を始めます。
一方、在原業平は蔵人頭となって、天皇に近侍するようになりました。すると高子とも顔を合わせる機会があったのではないでしょうか。高子にしてみれば、かつての恋人が、再び目の前に現れたのです。
ちはやぶる かみよもきかず 龍田川
から紅(くれない)に 水くくるとは
(不思議なことが多くあったという神代の頃にだって聞いたことがない。竜田川の綺麗な紅葉が、流れる水を鮮やかな赤の絞り染めにするなんて)
これは、業平が高子に捧げた歌です。高子への愛のメッセージが込められているのかもしれません。
そして高子は、今回の冒頭で紹介した和歌を詠みます。
雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐひす)の
こほれる涙 今やとくらむ
((庭先に)雪は積もっているが 春はやって来た (谷間にいた)鶯は
(冬の寒さのために流していた)涙は凍っていたが それも今はとけているだろう)
高子と業平の恋の成り行きが分かると、意味深な歌ですね。
業平は蔵人頭に就任。しかし翌年、五十六歳で世を去ります。同年末には高子の夫の清和上皇も他界します。
高子は夫・清和上皇、兄で摂政の基経とともに幼い陽成天皇を輔佐していましたが、清和上皇が崩御し、関係が良くなかった基経とも対立。基経は陽成帝を退位させます。
高子は内裏を離れて二条院に移り、二条の后と呼ばれました。
寛平八年(896)、高子は自ら建立した東光寺の座主善祐と密通したことを理由に、皇太后の地位を廃されてしまいます。高子五十五歳のことでした。
※和歌の現代語訳のなかには、筆者(蓬田)による意訳もございます。
※間違いや違う解釈がありましたら、ご教示ください。
※画像はWikipediaより引用しております。
夏の歌 「夏と秋と 行きかふ空の」 古今和歌集 凡河内窮恒(おおしこうちのみつね)
[訳:蓬田修一]
六月(みなつき)のつごもりの日よめる
夏と秋と 行きかふ空の かよひじは
かたへすずしき 風や吹くやむ
古今和歌集 みつね
[現代語訳]
六月の最後の日に詠んだ歌
夏と秋とが すれ違う空の 道は
片方に涼しい 風が吹いているだろう
古今和歌集 凡河内窮恒(おおしこうちのみつね)
[ひとこと解説]
旧暦では、六月は夏の最後の月でした。
その月の最後の日に詠んだ歌です。
明日からは秋になる、そのちょうど境目の日。
窮恒(みつね)は空には通り道があって、暑い夏が通り過ぎていき、もう一方からは涼しい秋がやって来ていると考えたのです。
空に「季節が通る道」があるというイマジネーションは素敵だと思います!
京都特有の暑さに音を上げている貴族たちが、秋の到来をいかに待ち望んでいたかが分かるような歌です。


