【春の歌】春日野の 紀貫之
歌たてまつれと仰せられし時よみてたてまつれる
春日野の
若菜つみにや
白妙の
袖ふりはへて
人のゆくらむ
紀貫之
平安時代の和歌のなかには、現代に生きるわれわれも簡単に意味が取れる歌も多いが、困るのはこの歌のように、一見しただけでは何を言っているのか分からない歌も数多くあることだ。
ともかく、歌の意味をみてみよう。
春日野の
若菜を摘みに行くのだろうか
いかにもそれらしく
白い袖を振りながら
人々がゆくよ
とりあえず、ざっくりと現代語訳してみた。
われわれ現代人がこの歌を鑑賞するにあたって、問題となる点はいくつかあるが、まずは「ふりはえて」という言葉の意味だ。
すぐわかるのは、袖を「振る」の意味が含まれていることだ。
それともうひとつ、「ふりはふ」には「ことさら」、「わざわざ」という意味がある。
それから、歌にある「人」とはどういう人を指すのか。
「白妙の袖」とあるから、女性であろう。
女性が(ひとりか複数かは分からないが、恐らく複数であろう)白い袖をことさらのように振りながら若菜を摘みに出かけているのだろうか、という意味になるが、貫之は一体何を詠んでいるのだろうか。
わたしはこの解説文をここまで書いてきて、若菜摘みにゆく女性たちのうきうきとした気持ちを、貫之は詠んだのかもしれないと感じた。
解説文を書くまでは感じなかったことだ。
わたしは貫之の気持ちに一歩近づいたことになったのだろうか。
詞書に着目
詞書に「おほせられ」とある。
誰が「おほせられ」たのか。帝であろう。
帝が「歌を詠め」と仰せられで、詠んだのがこの歌。
なんかピンとこないのは私だけであろうか。
あるいは、屏風絵があって、その絵について歌を詠めと仰せられたのかもしれないが、不明である。
もしかしたら、歌に暗号が隠されているのではないかとも感じる。
紀貫之ほどの言葉の才能があれば、歌に暗号を隠し込めるなど朝飯前ではなかろうか。
春日野のイメージ
「春日野」という言葉は万葉集でも使われているが、そこでは季節は限定されていない。
しかし、万葉集の時代から150年~300年たった貫之の時代では、「春日野」は春のイメージに限定された。
まあ、これだけの時間がたてば、言葉が持つイメージも変わるのが自然であろう。
いまは令和6年だが、いまから150年前といえば幕末であり、300年前は徳川吉宗の時代である。
そのころの文章をわれわれ現代人がどれほど正確に読めるかというと、敗戦による文化の断絶は大きいが、それを勘案しても、言葉のもつ意味やニュアンスは変わっていくことは実感できる。
和歌はフィクション
フィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。
フィクションというか想像の世界を詠んだのだろう。
和歌は一見写実的に見えても、想像の世界を詠っている。
歌人たちは見えていないものをあれこれと頭の中で想像し、言葉で表現していく。
言ってみれば、小説家なのである。
だからわれわれも和歌に接するときは、あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。
この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。
眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。
そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。
この歌については、いまはよく分からないので、今後の研究課題である。
こんなふうに、よく分からない歌があって、それをぼちぼちと調べていって、明らかにしていくのは楽しい。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。