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【春の歌】ももちどり よみ人知らず


題しらず

ももちどり
さへづる春は
ものごとに
あらたまれども
われぞふりゆく

よみ人知らず

古今和歌集に所収の歌である。まずは、歌の意味をみてみよう。


たくさんの
鳥がさえずる春
もの皆あらたまるのに
わたしは
年老いてゆくばかり

「ももち」は百、たくさん、という意味。

春になりたくさんの鳥がさえずり、自然は新しい命が吹き込まれたようになったのに、わたしは年老いてゆくばかりだ、と自然と自分の老いとを対比させている。

万葉集の巻十にも同じような歌がある。

冬過ぎて
春し来たれば
年月は
新たなれども
人はふりゆく

古今集の作者はきっと、この万葉集の歌を踏まえて詠んだはずだ。

わたしの個人的印象だが、万葉集の歌はその詠みぶりから、素直に、年月は改まったけれど自分は年をとっていく、という感慨が詠われているように思う。

一方、古今集のほうは命が改まった自然と、歳をとっていくばかりの自分とを、技巧的に対比させて構成している印象だ。

みなさまはどう感じられただろうか。

「題知らず」について

詞書に「題知らず」とある。

これは、題がない(お題が与えられて詠んだのではない)ということとは違う。

詠われた事情や背景が不明である、ということだ。

和歌はフィクション

わたしはいつも言っているが、フィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。

フィクションというか、詠む人の想像の世界である。

和歌は一見写実的に見えたり、自分の心の中を表現しているように見えても、実は想像の世界を詠っている。

あるいは言葉の技巧を駆使して、歌を構成している。

もちろん、それはいけないことではない。

言葉を駆使しているからこそ、和歌は言葉の芸術なのだ。

われわれは和歌に接するとき、真面目に構えすぎるきらいがある。

あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。

和歌独自の世界観を知り、そして和歌を楽しみ鑑賞する。

そんな心構えを忘れないようにしたいものである。

古今和歌集について

「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。

醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。

ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。

撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。

その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。

古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。

その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。

世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。

世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。




Posted on 2024-04-07 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed
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