【春の歌】わがせこが 紀貫之
歌たてまつれとおほせられし時に、よみたてまつる
わがせこが
衣はるさめ
降るごとに
野辺の緑ぞ
色まさりける
紀貫之
古今和歌集、春歌上に所収の歌である。
いまのわたしたちにとっては、一読してこの歌の意味がすらすら分かる人は、よほど和歌に親しみを持っている人とか、言葉遊びが好きなひととかをのぞいていないと思う。
われわれにとっては少々複雑に感じられる歌なので、まずは、歌の意味をふたつに分解しながらみてみよう。
そのまえに、貫之はこの歌を女性の立場になって詠んだということを念頭に置いていただきたい。
ではひとつ目の歌の意味である。
わがせこが
衣はる
ここの部分である。
わたしは夫の服を
洗い張りしています
「洗い張り」というのは、和服の洗い方の方法で、生地を縫ってある糸をすべてほどいて反物にもどして洗い、そして乾かすことだ。
ふたつ目の意味は、ひとつ目の部分にある「はる」を重ねて使って、そのあとに続く部分である。
はるさめ
降るごとに
野辺の緑ぞ
色まさりける
意味はこのままである。
春雨が降るごとに
野辺の緑が
一段と色づく
この歌の鑑賞ポイントはいくつかあるが、最大ポイントは、上の句と下の句とで、場面(歌の意味)が急展開するとことであろう。
上の句では、妻が夫の服を洗って、天気のよい屋外で干しているという場面である。
下の句では、天気が一転して、春の雨が降り続き、緑が一層映えていると詠む。
歌を聞いた人は、「衣はる」という言葉から、洗濯物を干している天気のいい屋外を思い起こしたその直後、「はるさめ」という言葉が詠われ、雨の場面を頭の中に思い描く。
この急展開なダイナミズムが、「はる」という言葉を介して行われているのが、この歌の味わいどころである。
和歌はフィクション
わたしはいつも言っているが、和歌とはフィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。
フィクションというか、詠む人の想像の世界である。
和歌は一見写実的に見えたり、自分の心の中を表現しているように見えても、実は想像の世界を詠っている。
あるいは言葉の技巧を駆使して、歌を構成している。
この歌でも、貫之は夫の服を洗濯する人妻の姿を見ているわけではないし、春雨に映える植物を見ているわけでもない。
貫之の空想の世界である。
もちろん、空想の世界を詠うことは悪いことではない。
空想を詠うのはよくない、眼前にあるリアルな世界を詠うのがよい、という考え方が明治になってでてきた考え方だ。
明治の時代になると、世の中に欧米文化がどっと入り込んだ。
明治の人たちは欧米文化を取り込んでいくと、それまでの日本独自の感性や考え方は古くて変えていかないといけないと思うようになった。
和歌の世界でも、リアリズムが強調されるようになった。
リアリズムを詠うという姿勢は、いまの短歌づくりにも引き継がれている。
だからわたしたちはむかしの人もなんとなくリアリズムを詠っているように思ってしまうが、多くは空想を詠っている。
われわれは和歌に接するとき、真面目に構えすぎるきらいがある。
あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。
和歌独自の世界観を知り、そして和歌を楽しみ鑑賞する。
そんな心構えを忘れないようにしたいものである。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。