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【春の歌】萌えいづる 僧都覚雅(かくが)


萌えいづる
草葉(くさば)のみかは
小笠原(をがさはら)
駒(こま)のけしきも
春めきにけり
僧都覚雅(かくが)

歌の意味は、

春めいたのは
萌えいづる
草葉のみではない
小笠原の牧の馬も
野に放たれて
すっかり春らしくなったことよ

となる。

小笠原とは、甲斐(山梨県)の国にある朝廷直轄の牧場。今の韮崎市にある。

山麓には広大な牧が広がっていた。

馬は冬の間、柵の中で繋がれ、春になると牧の野に放たれた。

それが春のしるしであった。

人々は春の題材として、「春駒」を詠んだ。

ここで育った馬は、毎年8月に朝廷へ献上された。

都の人々は、はるばる東国から牽かれてくる馬を、秋の風物詩としてめでた。

こちらも多くの歌に詠まれた。

ところで、わたしは千葉県船橋市に住んでいる。

船橋、松戸、習志野、成田など下総一帯は徳川時代、幕府直轄の牧場であった。

馬は野に放たれ飼育され、選り分けられて軍馬として幕府に送られた。

それなので、牧場と聞いて親近感を覚えた。

平安時代、下総にも朝廷直轄の牧場があったのかは、わたくしは知らない。調べてみるのは面白そうである。

この歌に戻るが、詠者の僧都覚雅(かくが)は実際に甲斐の国に来て、牧場に馬が放たれた光景をみたのか?

調べたわけではないが、どうもそうではないだろう。

土佐日記を書いた紀貫之は、

みやこまで
なづけてひくは
小笠原
逸見(へみ)の御牧の
駒にやあらん

と詠んだといわれ、現地には歌碑まであるが、

凡河内躬恒が

都まで
慣らして行くは
小笠原 
逸見の御牧の
駒にぞあるらん

という歌を詠んだとも言われる。

ふたりはほぼ同時代に生きた。

貫之のほうが6歳ほど年下で、20ほど躬恒より長生きしたから、貫之は躬恒の歌を下敷きに詠んだのかもしれない。

ふたりとも甲斐の国に来て詠んだのではあるまい。

覚雅は右大臣の息子であるので、こちらも都で詠んだのであろう。

歌はフィクションなのである。

フィクションとして詠んで、歌を聞いている人たちもフィクションであることを知ったうえで楽しんだ。

この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。

眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。

そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。

この歌は「詞花和歌集」に収められている。

「詞花和歌集」は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

歌集の撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間から和歌を選んで歌集を編んだ。




Posted on 2024-04-03 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed
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