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日本美術院の歩みを一望 特別展「世紀の日本画」


世紀の日本画展

「世紀の日本画」展エントランス。会場では横山大観、狩野芳崖、小林古径、安田靫彦、平山郁夫といった近代日本画の巨匠の代表作品をはじめ、現役同人の作品、洋画と彫刻作品を含めた120点が前期と後期に分けて展観された。

[text:蓬田修一 photo:宮川由紀子]

日本美術院再興100年 特別展「世紀の日本画」が、2014年1月25日から4月1日まで東京都美術館で開催された。日本美術院は、岡倉天心により明治31年(1898年)に、東京・谷中の地に創立され、当時若手だった横山大観や菱田春草らが精力的に作品を発表していった。

しかし、彼らが描く実験的な絵画が「朦朧体」と批判され、その影響で絵が売れずに院の経営は窮乏に陥った。「朦朧体」とは、大観や春草らが空気を描くために取り入れた無線彩色描法のことを指し、これが“未熟な洋画”と非難されたのだ。

ちなみに、日本美術院の「院」とは美校(現在の東京藝術大学)に対して、大学院を意味するものであった。岡倉がそう名付けたのは、勉学を本当に深めるのは、大学を卒業した後、大学院に進んでからであると考えていたからだ。

明治39年(1906年)、岡倉天心は経営難から日本美術院の茨城県五浦への移転を決意。天心に従い五浦に赴いたのは、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人だった。彼らは五浦に設けた日本美術院研究所において、一層の勉学研究を進めた。しかし、五浦移転の翌年から開催された「文部省美術院展覧会」を作品発表の場としたことなどから、院は事実上、休止状態となる。

大正2年(1913年)、岡倉天心が志を遂げぬまま50歳で他界。翌大正3年(1914年)、天心の一周忌を期して、横山大観、下村観山、そして洋画家の小杉未醒らが中心となり、日本美術院が再興された。

再興された院は、近代美術史上珍しい日本画と洋画との合同団体だった。しかも平櫛田中も参加し、彫刻部門も誕生した。洋画部は大正9年(1920年)に離脱するものの、彫刻部は彫塑部と改称して昭和36年(1961年)まで継承した。

大正3年(1914年)から再興院展を毎年開催。大正15年(1926年)に東京府美術館(現東京都美術館)が建設されると、戦中の2回を除き以降毎年、ここで再興院展を開催されるようになった。

今回の特別展「世紀の日本画」は、日本美術院再興100年を記念する展覧会だ。日本美術院の伝統を作り上げてきた、横山大観、狩野芳崖、小林古径、安田靫彦、平山郁夫といった近代日本画の巨匠の代表作品をはじめ、現役同人の作品、そして洋画と彫刻作品を含めた120点が前期と後期に分けて展観された。タイトルどおり「世紀の日本画」展であった。

(2014年4月5日)


Posted on 2014-04-15 | Category : アートに誘われて, ギャラリー, コラム | | Comments Closed
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