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【新年の歌】あらたまの 年たちかへる あしたより 素性(そせい)


延喜の御時、月次の御屏風に

あらたまの 年(とし)たちかへる あしたより 
待たるるものは 鶯のこゑ

素性(そせい)

(口語訳)
一年がはじめに戻る 正月の朝から 心待ちなのは 鶯の鳴き声

☆☆☆☆☆☆☆☆

こんにちは 蓬田です! 今回も新年の歌です!

正月の屏風絵に添える歌として詠まれました。

鶯の鳴き声は、元旦の朝にふさわしいものとして、当時は受け入れられていたことがうかがえます。

いまの感覚では、お正月に鶯の声では季節的にまだ早すぎます。

当時は陰暦で、正月は立春頃(いまの2月4日頃)でした。

ただし、立春=元日ではありません。

立春は太陽の動きから決められた二十四節気のひとつです。一方、元日は月の動きをもとに決められた陰暦だからです。

枕詞
歌にある「あらたまの」は、「年」にかかる枕詞。「年」以外にも「月」や「春」などにもかかります。

どうしてこれらの言葉にかかるかは不明です。

(年が)があらたまる、から来ているという説がありますが、定説ではないようです。

枕詞は、これなんか言葉遊び、ダジャレの類ですけれど、こういう言葉遊び、言語感覚は、暮らしや社会・自然現象との関わりにおける感性や余裕みたいのが感じられて、個人的には好きです。

「年たちかへる」は、一年がもとに戻る、つまり、新年を迎えるということ。

延喜年間と醍醐天皇
詞書にある「延喜(えんぎ)の御時」は醍醐天皇の治世。901年から923年までの期間です。

延喜年間の前後をあわせて34年間にわたって天皇親政が行われ、数々の業績をあげたため、のちに「延喜の治」と呼ばれ、理想的な治世として謳われるようになります。

ただ、摂政・関白は置きませんでしたが、左右両大臣が政務を行いましたから、親政は形式上です。

醍醐天皇は、いまは「学問の神様」として親しまれている菅原道真と関わりが深い天皇です。

父帝(宇多上皇)の訓示「寛平御遺誡」を受けて、藤原時平、菅原道真を左右大臣として政務を行わせました。

しかし、昌泰四年(901年)、時平の讒言を聞き入れ、菅原道真を大宰府に左遷させます(昌泰(しょうたい)の変)。

時平と道真との対立が原因とされていますが、それだけはないようです。

醍醐天皇と時平は道真の政治手法に不満をもっていたことに加え、近年の研究では、天皇の父上である宇多上皇の政治力を取り除こうと、昌泰の変が起こったとされています。

醍醐天皇は和歌にも造詣が深く、延喜五年(905年)に「古今和歌集」の撰進を紀貫之らに命じました。

天皇自身も和歌を詠み、勅撰集に合計43首が入っています。

作者・素性(そせい)
俗名は諸説あるが、「尊卑分脈」によれば良岑玄利(よしみねのはるとし)。
清和天皇の時に殿上人となりましたが若くして出家。石上の良因院(りょういんいん)に住みました。

昌泰元年(898年)、宇多上皇が大和国を御幸。石上に立ち寄った上皇に召され、供奉して和歌を奉りました。

次の醍醐天皇からも寵遇を受けました。

古今集には36首入集。勅撰集には合計63首入集しています。

ちなみに、今回の歌は勅撰集「拾遺和歌集」に収められています。

ほかの歌人も詠んだ「新年」と「鶯」
大伴家持の「万葉集」に収められている歌です。

あらたまの 年ゆきがへり 春立たば まづ我が宿に 鶯は鳴け

本居宣長も、このように詠んでいます。

鶯の こゑ聞きそむる あしたより 待たるるものは 桜なりけり




Posted on 2020-12-29 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed
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