イスラエル歴史
4000年前、ユダヤ人の祖先が中東のウルという地域に住んでいた。
ウルにアブラハムという男がいた。
ある日、アブラハムは「カナンへ行け」という神の声を聞いた。
カナンとはパレスチナである。
アブラハムはウルに住むユダヤ人をともないカナンへ向かった。
アブラハムたちはカナンの地で新しい生活を始めた。
紀元前17世紀、パレスチナに移り住んだユダヤ人は大飢饉に見舞われた。
パレスチナに住むことをあきらめ、エジプトに移住することを決意した。
エジプトでユダヤ人は都市建設などのために、奴隷として働かされた。
エジプト王はユダヤ人をおよそ400年間にわたって、奴隷として扱った。
ユダヤ人のなかにモーセが現れた。
モーセは奴隷となっていたユダヤ人をともないエジプトを脱出した。
紀元前1000年頃、ユダヤ人はパレスチナの地にイスラエルという王国を建設した。
王国は南北に分裂した。
北の国家は隣国アッシリアに滅ぼされた。
南の国家は新バビロニアに戦争で負けた。
大量のユダヤ人がバビロンに捕虜として連行された。
これをバビロン捕囚と呼ぶ。
ユダヤ人を連れ去った新バビロニアが滅んだ。
ユダヤ人はパレスチナに戻った。
パレスチナはその後、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ローマ帝国に次々に支配されていった。
ユダヤ人は数百年間、外国人によって支配された。
支配され続けたユダヤ人は、次第にこう考えるようになった。
「我々はこんなに苦しんでいる。でも神はどうして助けてくれないのだろう。それはきっと、我々が神から与えられた決まりをきちんと守っていないからだ」
ユダヤ人は神との約束=律法を厳密に解釈して、厳しい決まりのもとで生活をしていくようになった。
ユダヤ教徒にイエスがいた。
イエスは、当時の厳格な律法にもとづくユダヤ教の教えに異論を唱えた。
イエスは律法にこだわらず、神を信じ、神の愛を信じることが大切だと説いた。
ユダヤ教の指導者たちはイエスの考えが邪魔であった。
指導者たちはイエスを神を冒涜した罪で訴えた。
イエスは磔の刑に処された。
このできごとによって、キリスト教徒はユダヤ人のことを、キリストを殺した民族として恨むようになる。
パレスチナはローマ帝国によって支配されていた。
ユダヤ人は西暦66年と132年、ローマに反乱を起こした。
ローマ帝国はユダヤ人の反乱を鎮圧した。
ユダヤ人は奴隷として売られた。
ユダヤ人は帝国内や中東各地へちりぢりになった。
ディアスポラの始まりだ。
その後イスラエルの建国までおよそ1800年間、ユダヤ人は迫害と放浪の生活を送る。
アラビア半島での話である。
610年、アラビア半島でムハンマドはアッラーの神の啓示を受けて、イスラム教を起こした。
イスラム教は拡大し、中東地域はほとんどイスラム教の勢力下となった。
パレスチナもイスラム勢力によって占領された。
パレスチナのなかにあるエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となった。
ユダヤ教にとっては、かつてシンボルとなる神殿があった場所。
キリスト教にとっては、イエスが十字架に架けられ処刑された場所。
イスラム教にとっては、ムハンマドが天に昇ったとされる場所。
11世紀、キリスト教とイスラム教は聖地エルサレムをめぐって衝突した。
キリスト教国家である東ローマ帝国がエルサレムを占領していたが、イスラム勢力がエルサレムを奪った。
東ローマ皇帝はローマ教皇に助けを求めた。
ローマ教皇は聖地エルサレムを異教徒から奪還するため、軍隊を派遣した。
十字軍である。
聖地奪還に成功した。
しかし、再度異教徒にエルサレムを奪われた。
その後、教皇は繰り返し十字軍を派遣するが、二度をエルサレムを取り返すことはできなかった。
この間、キリスト教社会ではイスラム教とともに、ユダヤ教をも排除しようとする
反ユダヤ思想が広まった。
ユダヤ人はゲットーに隔離されり処刑されたりした。
職業も制限された。
キリスト教社会では卑しい職業とされた金融業に従事した。
当時、キリスト教徒は金融業の重要さを認識していなかった。
金融業を営んだユダヤ人はその後、膨大な富と強大な力を手に入れた。
ヨーロッパは大航海時代を経て大きく発展した。
1789年、フランスで革命が起こった。
民衆側が王と王妃を処刑した。
革命後、人権宣言が出された。
信教の自由が認められた。
ユダヤ人も職業の自由が認められた。
人権宣言の思想はヨーロッパに広がった。
ユダヤ人はこれで差別されることはなくだろうと考えた。
ヨーロッパの社会に同化しようと努力した。
イギリスで産業革命が起こった。
産業発展のために大量の資金が必要となった。
金融業を営んでいたユダヤ人は大きな富を得た。
そのひとつにロスチャイルド家がある。
ユダヤ人は大学にも行けるようになった。
多くのユダヤ人は努力を重ね、社会における重要な地位を得た。
そのことが人々の妬みを生み、新たな反ユダヤ思想が広がった。
1894年、フランスでドレフュス事件が起こった。
フランス陸軍参謀本部大尉のユダヤ人ドレフュスがスパイ容疑で逮捕、島流しの刑となった。
反ユダヤ主義の人たちが仕組んだ冤罪であった。
ユダヤ人はこのことから、人権宣言があっても自分たちは差別からは逃げられないと悟った。
差別を受けないようにするには、自分たちの国家を作るしかないと考えた。
ユダヤ人のふるさとであるパレスチナの地に、ユダヤ人によるユダヤ人のための国家を建設をしようとする運動が起こった。
シオニズム運動である。
20世紀に入ると、ユダヤ人は本格的にパレスチナに入植していった。
しかし、パレスチナにはイスラム教徒のアラブ人が住んでいた。
ユダヤ人とアラブ人との対立が始まった。
第一次世界大戦が始まった。
イギリスは戦いを有利に進めるため、パレスチナをめぐり、狡猾な外交を展開する。
パレスチナに国家を作りたいユダヤ人には、イギリスに協力してくれたら国家建設に協力すると約束した。
アラブ人にはイギリスに協力してくれたら、アラブ人の国家建設に協力すると約束した。
さらにフランスとロシアには、パレスチナを共同で統治しようと提案した。
三枚舌外交である。
この約束にもとづき、ユダヤ人もアラブ人もパレスチナは自分の領土であることを根拠を持って主張できた。
第一次世界大戦が終わると、イギリスはパレスチナを管理した。
管理のもと、ユダヤ人はパレスチナに入植することが認められた。
世界中のユダヤ人はパレスチナの土地を買っていった。
ユダヤ人による国家づくりは着々と進んだ。
アラブ人は反発した。
ユダヤ人とアラブ人の対立が先鋭化した。
ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握った。
ヒトラー政権はユダヤ人を劣等民族として迫害した。
大量のユダヤ人はパレスチナへ逃げた。
迫害から逃れるため、ユダヤ人国家をつくろうとする気持ちはさらに高まった。
第二次世界大戦が終結した。
世界の人々は、戦争の期間、ユダヤ人が大量に虐殺されたことを知った。
国際世論は、ユダヤ人にユダヤ人の国家をつくってあげるべきだと意識が生まれ広まった。
当時のアメリカにはユダヤ人が、およそ450万人住んでいた。
社会的に高い地位のユダヤ人も多かった。
アメリカはユダヤ人国家の建設に前向きに取り組んだ。
1947年、国連はパレスチナ分割案を出した。
この分割案は、ユダヤ人はパレスチナの56.5%を獲得した。
アラブ人からすると、56.5%の土地を失った。
翌48年、ユダヤ人指導者ベングリオンは、イスラエル国家の建国を宣言した。
アメリカのトルーマン大統領はイスラエルを国家として承認した。
アラブ人はイスラエル国家を受け入れなかった。
1948年、アラブ人とユダヤ人との間に戦争が始まった。
第一次中東戦争である。
イスラエル周辺のアラブ系国家、エジプト、シリア、レバノン、トランスヨルダン、イラクも参戦した。
建国間もないイスラエルは軍備が十分に整っておらず、アラブ系国家の総攻撃に耐えられなかった。
イギリスが介入し、1か月の停戦となった。
その間、世界中からユダヤ系軍人がイスラエルに集まり、イスラエルは強大な軍事力を持った。
停戦が終了した。
イスラエルは戦いを巻き返した。
第一次中東戦争はイスラエルの勝利となった。
イスラエルは領土をさらに広げた。
イギリスは、エジプトにあるスエズ運河を管理していた。
エジプトのナセル大統領はスエズ運河を国有化すると宣言した。
イギリスはフランスとイスラエルと連携し、エジプトを攻撃した。
1956年の第二次中東戦争である。
戦いはエジプトの敗北に終わった。
国際世論は、イギリスの侵攻は侵略戦争であると非難し、イギリス軍は撤退した。
その後、国連軍はパレスチナ地域を監視した。
ソ連はイスラエルを倒し、中東での影響力を高めようとした。
ソ連は、イスラエルが戦争を始めようとしているという情報をエジプトに流した。
それはフェイク情報であった。
ナセル大統領はその情報を信じた。
イスラエルにとって重要な海峡を封鎖した。
イスラエルはこれに反発し、1967年にエジプトを攻撃した。
第三次中東戦争だ。
イスラエルは奇襲攻撃を成功させた。
たった6日間でエジプト軍を壊滅させた。
戦争は、イスラエルの完全な勝利で終わった。
イスラエルはシナイ半島や東エルサレムを手に入れた。
領土を4倍に広げた。
ナセル大統領が心臓麻痺で亡くなった。
サダト大統領が就任した。
イスラエルに領土を返還するよう交渉した。
イスラエルは拒否した。
エジプトを領土を取り返すため、シリアに協力を要請した。
1973年、エジプトとシリアは、イスラエルを挟み撃ちした。
第4次中東戦争である。
挟み撃ち作戦は成功した。
イスラエルを追い込んだ。
イスラエルが反撃に転じた。
エジプトは追い込まれた。
アメリカは仲介に入った。
エジプトとイスラエルで停戦協定が結ばれた。
サダト大統領は戦争ではなく、交渉で領土を取り返そうとした。
イスラエルのベギン首相は領土返還に応じなかった。
アメリカのカーター大統領が仲介した。
カーター大統領の仲介のもと、エジプトとイスラエルは以下のことに合意した。
・エジプトはイスラエルを国家として認める
・イスラエルはシナイ半島をエジプトに変換する
・パレスチナはガザ地区とヨルダン川西岸の自治権を持つ
もともとパレスチナ全土が領土であったパレスチナ人にとっては、一部地域の行政自治権が認められただけで不満あった。
1987年、イスラエル軍のトラックがガザ地区で交通事故を起こし、4人のパレスチナ人が亡くなった。
これに怒った18歳のパレスチナ人青年は、イスラエル軍に石を投げつけた。
イスラエル軍は発砲し、青年を殺害した。
これがきっかけでパレスチナ人の青年や子供たちは、イスラエル軍に石を投げつけて抗議した。
この抗議運動をインティファーダと呼ぶ。
イスラエル軍は石を投げる子どもや若者たちを殴ったり拘束しようとした。
丸腰の子どもや若者を殴る映像が世界が流れた。
国際世論はパレスチナに同情的になった。
パレスチナ解放を目指すパレスチナ人の武装組織(パレスチナ解放機構)議長であるアラファトは国連で「我々はイスラエルの生存を認め、いかなるテロ行為も放棄する」と宣言した。
イスラエル首相ラビンとアラファトは、ノルウェーのオスロで合意した。
パレスチナ人はヨルダン川西岸やガザ地区で暫定自治が認められた。
イスラエル首相バラクはパレスチナとの和平に積極的に動いた。
バラクの和平案はイスラエル国内では批判された。
和平案は頓挫した。
和平反対派のシャロンが首相になった。
過激派武装組織ハマスはイスラエルに対してテロ行為を行った。
シャロンはハマスのテロリストをイスラエルに入れないように、ヨルダン川西岸地区にコンクリートの壁を建設した。
国際世論はイスラエルを非難した。
シャロンは国際世論を抑えるため、暫定自治区のガザ地区をパレスチナに返還することを発表した。
駐留していた軍隊を撤退させ、2005年、ガザ地区をパレスチナ自治政府に返還した。
これにより、イスラエルとパレスチナとの和平が進むとみられた。
しかし、パレスチナ人はガザ地区の返還を武力闘争の勝利と受け止めた。
武力闘争を行っていたハマスをさらに支持するようになった。
ハマスはガザ地区を統治した。
パレスチナ側はさらに戦闘的になった。
これに対して、イスラエルはテロリストの侵入を防ぐため、ガザ地区にも壁の建設を進めた。
ハマスは壁ができてテロリストをイスラエルに送り込めなくなったため、ロケットでイスラエルを攻撃するようになった。
イスラエルは2008年、ガザ地区に対して大規模な空爆を行った。
多くの女性や子どもが犠牲になった。
その後もイスラエルとハマスの間では戦闘が続いた。
2023年現在、戦争状態となっている。
イギリスの歴史 紀元前から21世紀まで
イギリスの歴史を書く。
イギリスは4つの国(イングランド、ウエールズ、スコットランド、北アイルランド)の同君連合体である。
ここで書くのは、主にイングランドの歴史である。
紀元前6世紀、大陸から来たケルト人が先住民を征服し、イングランドの地に住むようになった。
2000年ほど前、ローマ帝国が攻めてきて、沼地に砦を作った。
それをロンディニウムという。ロンドンの語源である。
ローマ帝国は島の4分の3ほどを支配した。
島の南部はローマ帝国の属州ブリタニアとなった。
一部のケルト人は島の北や西に逃げた。
のちに北のほうがスコットランド、西のほうがウェールズとなった。
西暦400年頃、ヨーロッパ大陸ではゲルマン民族が大移動を始めた。
ゲルマン民族は200年ほどかけて西ヨーロッパの各地に住み着いた。
西ヨーロッパが混乱してきたので、ローマ帝国はイギリスから撤退した。
ローマ帝国はゲルマン人が移動してきて各地に王国を建てたので、領土が半分ほどに小さくなった。
ゲルマン民族のうち、フランク人はフランク王国を作った。
フランク王国はのちに分裂して、いまのフランス、イタリア、ドイツになる。
ゲルマン民族のアングロ族とサクソン族がイギリスに来て、住んでいたブリトン人を追い出した。
アングロ族とサクソン族は同化しながら、7つの国を作った。
七王国である。
追い出されたブリトン人は島の南西部に集まり、独自の勢力を築いた。
いまのウェールズの地である。
スカンジナビア半島にいるゲルマン民族バイキングが活発に活動を始めた。
彼らは人口が増えてきたので、周辺の地域を略奪した。
バイキングの一派デーン人のクヌートは、イギリスを侵略して王朝を建てた。
デーン朝である。
クヌートはデンマークにいた兄が亡くなると、デンマーク王を兼ねた。
彼は周辺の北欧の国を攻めて領土を拡大した。
北海帝国である。
900年頃、バイキングの一派がフランス領土を荒らした。
フランス王は困り果て、イギリスにいたバイキングに領土を守ってくれるよう頼んだ。
フランス王はフランス領土の一部を与えてそこに住まわせた。
そこがノルマンディーである。
北から来た人という意味だ。
第二次世界大戦で連合国がドイツを攻めるために上陸したところである。
デーン朝のクヌートが亡くなると、国内は乱れ、再びアングロ・サクソン人の王朝ができた。
その最後の王にエドワード懺悔王がいた。
懺悔王はノルマンディーに住んでいた。
フランス語しか話せなかった。
子どもがいなかったので、後継王にノルマンディーのウィリアム征服王を指名した。
ウィリアム征服王はノルマンディーとイングランドの王を兼ねた。
ノルマン朝が始まった。
ウィリアムというのは英語で、フランス語ではギョームという。
フランス王からみると、自分の支配下にあるウィリアム征服王がイングランド王となったわけで、上下関係が複雑になった。
ノルマン朝では男子が生まれず、再びフランス人が王となった。
プランタジネット朝である。
フランスに領土をたくさん持った。
代々の王は戦いに明け暮れ、戦費調達のため重税を課した。
貴族らから反感を買った。
1215年ジョン王の治世、マグナカルタができた。
王の権限を制限することが明らかにされた。
王であったも法に従うというイングランドの伝統を生んだ。
のちの立憲君主制が発展する土台となった。
1300年頃までにウェールズはイングランドの統治下となった。
次期イングランド王がウェールズ公になる習慣ができた。これは、いまでも続いている。
アイルランドは1100年代からイングランドの支配下となった。
スコットランドはイングランドの干渉を受けながらも独立を保ち、フランスと友好関係を築いてイングランドを牽制していた。
この頃、イングランドは血縁関係が深いフランスと王位継承をめぐりしばしば争った。
フランスに跡継ぎ問題が起きると介入し百年戦争となった。
イングランドのエドワード黒太子が活躍した。
戦争はイングランドが勝つと思われたが、謎の少女ジャンヌダルクが突然現れ、反撃された。
イングランドは大陸に持っていた領土をほとんど失った。
百年戦争が終わると、イングランドでは次の王位継承をめぐり、ふたつの派閥が内戦を起こした。
バラ戦争である。
戦いののち、両陣営の男女が結婚して和解し終結した。
新しい王朝が始まった。
チューダー朝である。
国内でも王位継承をめぐりしばしば争った。
チューダー朝は王権を強化しようとした。
マグナカルタ以来の王権の制限は棚上げされた。
王への権力集中が進んだ。
2代目の王は離婚王ヘンリー8世であった。
離婚したかったが、カトリック教徒なので離婚できなかった。
王はカトリックを捨て、離婚できる新しいキリスト教を作った。
イギリス国教会である。
カトリックから分離したため、プロテスタントと呼ばれることもあるが、教義的にはカトリックと重なる部分が多かった。
離婚王から2代あとはメアリー女王であった。
メアリーは母親がカトリック信者だったので、イングランドの宗教をカトリックに戻した。
反対する300人を粛清した。
血塗られたメアリーと呼ばれた。
メアリーが亡くなると、エリザベス1世女王が即位した。
国の宗教をカトリックからイギリス国教へ戻した。
カトリックを信仰しているスペインと関係が悪くなり戦争が始まった。
スペイン無敵艦隊が攻めてきたが、イングランドが勝利した。
エリザベス1世は貴族や商人に特権を与え、強力な権力基盤を作った。
エリザベス1世は生涯独身を貫いた。
バージンクイーンと呼ばれた。
世継ぎがいなかったため、身内での醜い後継者争いは起きなかったが、チューダー朝は断絶した。
次の王はスコットランド出身ジェームズ1世だった。
スコットランドとイングランドは同君連合となった。
王は宗教を弾圧した。
一部の人は理想のキリスト教の国をつくろうと新天地アメリカに移住した。
彼らはヒルグリムファーザーズと呼ばれる。
アメリカにニューイングランドをつくった。
ジェームズ1世とその跡を継いだチャールズ1世は、高まった王の権力を背景に、議会の意向を無視して政治を行った。
議会はこれに対抗するため、ピューリタン派(宗教革命で新たに生まれたプロテスタント)を中心にまとまった。
国王派と対立して、内戦(清教徒革命)が起こった。
ピューリタン側が勝利し、国王チャールズ1世を処刑した。
王のいない共和制を敷いた。
ピューリタン派の軍人クロムウェルは護国卿となり軍事を握った。
クロムウェルは独裁者となり政治を進めた。
クロムウェルはカトリック教徒によるイングランド人への迫害を口実にアイルランドへ侵攻し、アイルランドを植民地とした。
以降200年のおよぶアイルランド支配は、アイルランド人の恨みを生むもととなった。
クロムウェルが急死すると共和国政権への求心力が保てなくなると、王を戴く政治が復活した。
清教徒革命の揺り戻しもあり、ピューリタンは弾圧されました。
議会はピューリタンとカトリック派を排除して、イギリス国教会を支持しようとした。
新国王チャールズ2世はカトリックを支持した。
次のジェームズ2世はカトリック教徒であった。
国王と議会は対立した。
議会は、ジェームズ2世を追放し、政治的野望の薄い王をオランダから呼んだ。
名誉革命である。
スチュワート朝が始まった。
新たな王は議会とのあいだで、王の権限が制限されていることを改めて確認した。
それを具体的に記した権利の章典を取り交わした。
以降、王が独断で権力を振ることはなくなった。
イングランドは内政や軍事が充実した。
フランスやスペインとの争いにも勝った。
世界中で様々な権益を手に入れた。
北方のスコットランドとは議会を統合した。
イングランドとスコットランドは、ひとつの主権国家となった。
イギリスなどヨーロッパの国々は、新大陸の原住民を働かせ、さとうきびやコーヒーを栽培して儲けた。
ヨーロッパ人は病気を新大陸に持ち込み、抗体のない原住民は大量に死んだ。
労働力が足りなくなったので、アフリカ黒人を奴隷としてアメリカに運んだ。
スチュワート朝最後の王、アン女王には跡継ぎがいなかった。
次の王はドイツから迎えた。神聖ローマ帝国のハノーバー選帝侯ゲオルクがジョージ1世としてイギリスの王となった。
ハノーバー朝が始まった。
王は54歳で即位した。
ドイツ生まれ、ドイツ育ちで英語が話せなかった。
イギリスの政治にも興味を示さなかった。
イギリスでは議会がさらに進展していった。
以降、内閣の首相が政治の責任者となった。
国王は政治の中枢から離れ、議会が政治の主導権を握った。
王権が弱まり、地主や富裕層の権利が保障された。
これは、産業の発展に大きな影響を与えた。
のちの産業革命につながった。
18世紀、産業革命が起こった。
工業生産力が爆発的に高まった。
財力、軍事力が他国を圧倒した。
イギリスはアメリカの一部、カナダ、オーストラリア、インドを植民地にした。
アメリカに高額な税金をかけた。
アメリカに住んでいる人はもともとはイギリスで暮らしていたので、故国の習慣であるお茶が大好きであった。
そのお茶に高額な税金をかけたからアメリカの人々は反発し、イギリスから独立した。
喫茶の習慣があるイギリスはチャイナから茶葉を買っていた。
一方、チャイナはイギリスから買うものはないとって輸入は行わなかった。
イギリスは貿易赤字が続いた。
イギリスは赤字を解消させるため、チャイナへアヘンを売ることを思いついた。
議会ではアヘンを売るのは人道上問題があるという意見も出たが、イギリスはアヘンを売った。
アヘンは中毒性があるので、チャイナはアヘンをイギリスから買い続けた。
チャイナはアヘンの輸入と吸引を禁止した。
イギリスは報復として武力で攻撃し戦争となった。
イギリスは戦争に勝ち、不平等条約を押し付け、香港を99年間租借した。
この頃、イギリスは日本とも戦争した。
江戸時代末、薩摩藩の武士が日本にいたイギリス人を切りつけた。
イギリスは報復として軍艦を鹿児島へ派遣し、薩摩藩と戦争になった。
イギリス艦隊は薩摩藩の砲台からの攻撃により大破、中破し、艦長ら指揮官も戦死するなど大きな被害が出た。
薩摩側は砲台などを破壊されたが、イギリス艦隊の艦砲射撃で民家や寺社などが攻撃され、軍事施設以外の被害が甚大であった。
戦闘が終わると薩摩とイギリス双方は講和に入った。
イギリスは薩摩側の交渉力を評価し、薩摩はイギリスの軍事力や文化を理解した。
以降、双方は友好な関係を築いた。
セルビアでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されると、それが引き金となり武力衝突が起きた。
各国は軍事同盟を結んでいたため、双方が相手側に宣戦布告をして、戦争はヨーロッパだけでなく世界規模に拡大した。
第一次世界大戦である。
イギリスは100万人が戦死した。
戦争には勝ったが国力は落ちた。
力をつけたアメリカがカナダを占領しそうになった。
しかし、国力が弱くなったイギリスには、カナダを守る力はなかった。
カナダを独立させた。
アイルランドも北部を除き独立した。
第一次大戦が始まると、王朝が敵国ドイツの名称であるのはふさわしくないということなった。
その頃の宮殿の所在地にちなみ、王朝名をウィンザー朝と改めた。
現在まで続いている。
ドイツにヒトラーが台頭した。
ドイツと日本は、イギリスやアメリカをはじめ世界の国々を相手に戦った。
第二次世界大戦である。
ドイツはデンマークを4時間で降伏させた。
フランスを1か月で占領した。
ドイツはヨーロッパのほとんどを占領した。
イギリスに空襲を行った。上陸はできなかった。
日本は、アジアにおけるイギリス植民地を占領した。
連合軍はフランスのノルマンディーに上陸しドイツを攻めた。
ドイツは敗北した。
日本も降伏した。
イギリスは戦争に勝ったが、国力は疲弊した。
インド、アジア、アフリカの植民地はイギリスから独立した。
イギリスとフランスの間に海底トンネルが開通した。
EUが成立した。
人の移動が自由になると、大勢の外国人がイギリスに移民した。
移民がイギリス人の職を奪うなどの問題が出た。
イギリスはEUから脱退した。
キリスト教の歴史
神ヤハウェは、自分の姿に似せて、人間をつくった。
その人間は、アダムとイブであった。
ヤハウェはアダムとイブに楽園エデンの管理を任せた。
楽園には絶対に食べてはいけない禁断の木の実がなっていた。
アダムとイブは蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べてしまった。
ヤハウェは怒り、ふたりを楽園から追放した。
アダムとイブが犯した罪は原罪と呼ばれた。
彼らの子孫である人類は、原罪を背負うこととなった。
人類は罪人というのが、ユダヤ教の思想のベースである。
アダムとイブの子孫である人間たちは地上で努力を重ねて繁栄していった。
人間たちは勢いづき、ヤハウェに背いたり、堕落した生活を行うようになった。
ヤハウェは人間を滅ぼすことにした。
大洪水を起こした。
人類は滅亡した。
生き残った人類がいた。
その中にアブラハムがいた。
ヤハウェは年老いたアブラハムにこう言った。
「イスラエルを与える。いまからすべてを捨てて向かうのです」
アブラハムたちはイスラエルを目指し旅だった。
ようやくイスラエルに着いた。
新しい生活を始めた。
アブラハムの子孫たちはそこに住み続けた。
あるとき大飢饉が起こった。
彼らは不毛の地イスラエルを捨て、エジプトに行くことを決意した。
エジプト王は彼らを奴隷として扱った。
400年間の長きにわたった。
そこにモーセが現れた。
モーセはヤハウェの力を授かっていた。
彼は奴隷となってた民を引き連れ、イスラエルの地を目指した。
何十年にもわたる苦難の旅であった。
モーセはヤハウェから、ふたつの石板に刻まれた十戒を授かった。
そこには神との十の約束が刻まれていた。
神の教えを守り、正しく生きるための指針であった。
約束は数百にも及び、それが十にまとめられていた。
神はヤハウェだけであることが記されていた。
神との約束は律法と呼ばれ、大事にされた。
モーセの子孫はイスラエルの地で十二の支族に分かれ、イスラエルを統治していった。
十二支族を統治するダビデ王が現れた。
その息子ソロモン王の時代に最盛期を迎えた。
十戒が刻まれた石板、ヤハウェから授かった杖、空から降ってくる食べ物マナが入った金の壺を収めた宝の箱をアークと呼ぶ。
ソロモン王はアークの中を見た。
石板はあったが、ほかのふたつはなかった。
その後、アークの行方は分からなくなった。
ソロモン王には多くの妻がいたが、そのなかに異国出身の女性がいた。
彼女はヤハウェ以外の神を信じていた。
ソロモン王はそれを許した。
ヤハウェは激怒した。
イスラエルの地を南北に分断した。
十支族による北イスラエル王国と、二支族による南ユダ王国に分かれた。
北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされた。
民は散り散りとなり、それぞれの土地で融合していった。
彼らはイスラエルの失われた十支族と呼ばれている。
一方、南ユダ王国は紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされた。
南ユダの民は、捕囚としてバビロニアへ連行された。
彼らは連行された地で、自分たちのアイデンティティを失わないことをヤハウェに誓った。
滅ぼされたユダ王国の遺民という意味から、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。
土地を失っても、律法を心のよりどころとして固く守り続けた。
宗教的・民族的アイデンティティを貫くために、移民族との交わりを拒んだ。
ユダヤ人は苦しいときを経て、ローマが支配するイスラエルに戻った。
しかしローマ帝国は多神教であった。
ヤハウェのみを神とするユダヤ人とローマとの間で争いが起こった。
何回かの争いのあと、ユダヤ人はイスラエルの土地を完全に失った。
135年ごろ、ユダヤ人は世界中へ離散していった。
いわゆるディアスポラである。
苦難が続くユダヤ人は、救世主メシアを待望するようになった。
救世主は永遠の王国イスラエルを築いてくれるはずだと願った。
そのときが来るまで律法を守り続けることを心に誓った。
救世主は世界の終末に現れると考えた。
そこから、人間が堕落したときにメシアが現れると信じるようになった。
当時の地中海の人々は、たくさんの神を信じる多神教であった。
そのなかで、ユダヤ人の一神教は異質だった。
ユダヤ人と他の人との対立は絶えなかった。
時間を少し戻す。
西暦0年イエスが生まれた。
十二人の弟子とともに教えを広め、民衆からの人気と支持を得ていた。
イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教の熱心な信徒であった。
古い考えに凝り固まっていた従来のユダヤ教に、異議を唱えた。
ユダヤ教の権力者はイエスを警戒した。
イエスの弟子ユダはイエスを裏切り、イエスは十字架に架けられ処刑された。
しかしイエスは復活した。
イエスこそ救世主だと人々は口にした。
こうしてキリスト教が生まれた。
キリスト教は、はじめはユダヤ教の派閥のひとつだと見做された。
イエスは偉大な予言者ではあるが、救世主ではないと考える人は、キリスト教徒にはならずユダヤ教徒のままであった。
キリスト教は、ペテロとパウロの活躍によって広まっていった。
ペテロとパウロは、イエスは原罪を背負って十字架に架けられた。そして神と新たな契約を結んでくれたと人々に語った。
イエスが十字架に架けられたことで、人類の原罪は消えた。
律法を守るユダヤ人だけが救われる契約内容から、ユダヤ人以外の異邦人でも罪を犯した人でも、イエスを通して祈れば、すべての人は救われると説いた。
ユダヤ教は圧倒的な選民思想と厳しい律法が特徴だった。
キリスト教は民族に関係なく全人類が救われると説いた。
しかし、キリスト教も一神教であることはユダヤ教と変わらなかった。
人々はイエスは神の子であり、唯一神ヤハウェと同じ存在だと考えた。
このときローマ帝国においては、皇帝は神同等の存在であった。
キリスト教徒は皇帝を敬うことができなかった。
皇帝はキリスト教徒を迫害した。
キリスト教は祈るものは誰でも救われるという、ハードルの低さが特色だった。
各地に建てられた教会によって信者が増えていき、キリスト教徒は増えていった。
皇帝はキリスト教を迫害しても効果はあがらないと考えるようになった。
コンスタンティヌス1世はキリスト教を認めた。
キリスト教は帝国への影響力を増していった。
392年、ローマ帝国はキリスト教以外の宗教を禁止とした。
ローマ帝国の領土は広大だった。
キリスト教は各地域に建てた教会ごとに、信仰のスタイルや教えの解釈が違った。
教会同士のいさかいは絶えなかった。
395年、ローマ帝国が東西に分裂した。
教会も東西に分かれた。
やがて東西で別々の教義を持つようになった。
東西の溝は深まっていった。
帝国の分裂から600年あまりの年月が流れた1054年、東西教会のトップが対立し、東方教会と西方教会とに決定的に分裂した。
東方教会は正教会、西方教会はカトリック教会と呼ばれる。
正教会とカトリック教会の決定的な違いは、神とイエスと精霊は本質的に同じ存在であるという三位一体説の解釈の違いであった。
正教会とカトリック教会は、組織のあり方も違っていた。
正教会はあらゆる人は宗教的奉仕者に過ぎないという考え方であり、組織には絶対的な存在を作らなかった。
カトリック教会は、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型組織を作った。
ローマ教皇はイエスの一番弟子であるペテロの正統な後継者と位置付けた。
神の国に入るための鍵を持ち、イエスの教えに対する解釈の最終的な決定権を持った。
教皇の考え次第で様々なルールを生み出すことが可能であった。
その一例が、16世紀に発行した免罪符である。
一部の信徒は反対し、勝手にルールを変える教会ではなく、聖書に書かれていることだけを信じると主張した。
彼らはプロテスタントと呼ばれた。
カトリックとプロテスタントはたびたび戦争を起こした。
正教会、カトリック、プロテスタントのキリスト教の3つの流れは現在まで続いている。
大阪工業大学大学院 データサイエンス教育 地域の経営者らが受講 教育家庭新聞2021年7月発行号

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