村上春樹の作品について(令和6年4月14日)
わたしの肌感覚ですが、村上春樹の人気が衰えません。
日本だけでなく、世界で読まれています。
きょうは、村上春樹の作品が人気なのは、わたしにとって違和感があるという話をしてみます。
あくまで私個人の印象の話です。
わたしは「ノルウェイの森」といくつかの短編を通読し、ほかの作品は拾い読みです。
これしか読んでいないのですから、村上春樹作品について書くのは躊躇したのですが、わたしと同じような違和感を持っている人はほかにも結構いることを知り、きょう現在の所感として書いてみることにしました。
作品を読んでの印象ですが、「ノルウェイの森」もほかの短編も面白かったです。
「ノルウェイの森」は「僕」が語る世界観が個人的には嵌りましたし、短編もそれぞれの世界観が楽しめました。
時間があれば、通読はしなくても、気に入った個所を何度も何度も読み返したい作品ばかりでした。
つまりは、わたしにとっては、とても評価が高い作品でした。
でも、何かが物足りないと感じました。
そこが、わたしの抱いている違和感なのだと思います。
確かに面白いけれど、何かが足りない。
しかし世界的に高い評価をされている。どうしてなのか?
わたしの違和感とは、こんなようなものです。
村上春樹作品は、そこで何が語られているかよりも、どう語っているか、つまり文体が大事なようです。
机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に「翻訳」していきました。翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。
(村上春樹『職業としての小説家』 スイッチ・パブリッシング 2015年)
この文章を読んで、村上春樹作品に対して長年抱いていた疑問が氷解した気がしました。
村上春樹は日本語の新しい文体を追求していたのです。
「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさし・・・・だ。」
(村上春樹『風の歌を聴け』)
村上春樹の作品からは作家の情熱、熱量といったものが感じらにくいです。
その原因はこの「ものさし」にあるのかもしれません。
「ものさし」で測られた距離感からつくられた作品世界も、わたしが抱く違和感のひとつです。
夜中の3時に寝静まった台所を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことができない。
そして、それが僕だ。
(村上春樹『風の歌を聴け』)
この引用も、村上春樹の作品からは熱量やエネルギーが感じられないということを裏付けていると思います。
作品を読んでいて、魂を揺さぶられるような至福の感覚、それが村上春樹の作品にはないのです。
村上春樹作品には心が希薄です。
もっと言えば、人間存在が希薄なのです。
村上春樹はそうしたことは意識して書かないようにしているのでしょう。
村上春樹作品は好きなのですが、このような特徴を持つ作品が若い人たちから年配の方々まで、たくさんの人々から高い評価を受けているのが、個人的には大変に興味深い現象なのです。
村上春樹作品についてはまだ語りたいことがあるのですが、きょうはこのくらいにしておいて、また機会を見つけて書きたいです。