文学を読むということ──その行為の深奥と意義
文・M&C編集部
いま、私たちは目まぐるしく情報が飛び交う時代に生きている。SNSのタイムラインを数分見渡せば、世界の動向、他者の私生活、企業の宣伝、果ては名もなき人々の怒りや歓喜までが、怒濤のように押し寄せる。
そんな時代にあって、「文学を読む」という行為は、どこか遠いところの行為に思えるかもしれない。だが、果たして本当にそうなのだろうか。
いやむしろ、この混迷と情報過多の時代だからこそ、文学作品を読むことの意義は一層大きなものとなっているのではないか。
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文学は、単なる物語の供給装置ではない。もちろん、物語としての娯楽性やカタルシスは文学の大切な要素の一つだ。だがそれは文学の表層に過ぎず、その奥にはもっと深い、精神の対話と再構築の場が広がっている。
読書とは、言語という枠組みを通じて、他者の思考と感情の流れに自らを浸す行為である。つまり、「読む」とは一つの擬似的な生を生きること、他者の視点を自分の中に一時的に宿すことであり、それが可能なのは、実は文学という形式ならではなのである。
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たとえば、夏目漱石の『こころ』を読むとき、私たちは明治という時代の終焉と、個人の内面が自我という名で自覚されはじめた頃の不安と痛みを体験する。
太宰治の『人間失格』に触れたとき、そこに描かれるのは単なる破滅ではない。社会からの疎外、自己の欺瞞、そしてそれでもなお生きようとする一筋の願いであり、読者はその“どうしようもなさ”の中に、奇妙な安らぎと親密さを感じ取ることすらある。
文学は、そうした「自分ではない誰か」の声を、自分の中に響かせることで、読者の内部に新たな視野や感受性を呼び起こす。
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また、文学は歴史や政治、社会構造に対する一つの批評装置でもある。
カフカの『変身』を読むとき、そこには個人が社会制度や家族から疎外されていくプロセスが寓意として込められている。村上春樹の作品群を通しては、現代日本社会における喪失感や孤独、記憶のねじれといった主題が繰り返し現れる。
文学は、社会の深層に流れる空気や感情の潮流をすくいあげ、時に明示的に、時に寓意として私たちに投げ返してくる。読むとは、そうしたメッセージを受け取り、自らの内なる現実と照らし合わせる知的営みでもあるのだ。
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さらに、文学は「言葉」への感性を育む。人間は言葉によって思考する。ならば、言葉の豊かさや精緻さは、そのまま思考の深さや幅に直結する。
優れた文学作品は、読者に繰り返し問いを投げかける。それは読解という知的作業であると同時に、自らの思考様式を相対化し、他者との差異を認識するための訓練でもある。
多様な言葉と表現に触れることで、私たちは「考える」ことの多様性を学び、それが対人関係や社会生活における他者理解や寛容にもつながってゆく。
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この点において、文学作品はしばしば「役に立たない」と誤解される。たしかに文学は、即効的な知識や技術を提供するものではない。
だがそれは、たとえば音楽や絵画が「役に立たない」と言われるのと同じ誤謬である。文学の効能は、時間をかけて心の深い層に染み渡るものなのだ。
そこでは、共感の力が育ち、違和感への感度が研ぎ澄まされ、「生きるとは何か」という根源的な問いが、静かに、しかし確かに読者の内側に芽吹く。
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現代において、SNS上の言葉が刹那的で消費されてゆくものであるならば、文学の言葉は反対に、時間の中にとどまり続けるものだ。
たとえば、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、今なお日本人の精神に沁みとおる一篇であり、〈サウイフモノニ/ワタシハナリタイ〉という結語は、繰り返し引用されてきた。
こうした「引用される力」、すなわち文脈を越えて人々に訴えかける力こそ、文学の持つ時間的強度と言えるだろう。
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そして最後に、文学は読者に「自分を読む」ことを促す。
優れた小説や詩は、しばしば鏡のように働く。主人公の苦悩に自分を重ね、詩のひと行にかつての記憶が蘇る。
読むとは、他者を通じて自己へと回帰する旅なのだ。
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文学は、人生の処方箋ではない。だが、人生を照らす一つの灯火ではある。
私たちが時に心を失いそうになるこの時代において、文学作品を読むという営みは、他者と世界と自己を繋ぎ直すための、極めて静かだが強靭な営為である。
