産業革命はなぜ大国フランスではなくイギリスで起こったのか?




産業革命前のヨーロッパ、フランスは土地も広く、人口も多くイギリスよりも大国でした。

産業革命はイギリスで起こりましたが、当時の大国であるフランスで起こっても不思議ではなかったのです。

なぜ、フランスではなくイギリスだったのか?

わたしはかねがね疑問でした。そこで調べてみて分かったのは「金融」がカギでした。(2025年8月現在)

以下に、イギリスで産業革命が起こった背景・理由について考えてみます。

① 金融制度と資本集積

イギリスは17世紀末にイングランド銀行(1694年)が設立され、国債発行や紙幣流通が始まりました。

株式会社制度や株式市場(ロンドン証券取引所)はすでに整備されており、多数の投資家がリスクを分担して大規模投資が可能になっていました。

保険制度(ロイズ保険)も発展し、航海・商業・産業投資のリスクが下がりました。

イギリスでは「銀行+証券市場+保険」が連動して、資本を集めやすくリスクを軽減できる金融システムが早くから成立していました。

フランスは絶対王政下で利益は宮廷財政に吸い取られがちでした。資本が長期投資に回らず、工業よりも土地や国債に投資されやすかったのです。

フランスで産業革命が起きなかった理由は、金融以外にも以下の要因があります。

② 議会主権と「財産権の保護」

イギリスは1688年の名誉革命で王権を制限し、議会が課税・財政をコントロールする体制になりました。

これにより、商人・地主・投資家の財産権が保証され、長期投資できる環境が整いました。

フランスは逆に、絶対王政のもとで税制は貴族・聖職者は免税、庶民だけに重税と不公平でした。

投資や事業よりも「身分特権」を得る方が有利で、資本主義の活力が削がれていました。

③ 地理と貿易

イギリスは海に囲まれた島国で、貿易と海運は自然の成り行きでした。

植民地からの綿花・砂糖・タバコなどの原料が安価に供給され、輸出市場(インド・アメリカ・カリブ)も確保されていました。

貿易黒字が銀や資本をもたらし、それが国内産業投資に回りました。

フランスは大陸国家で、陸軍維持のための財政負担が大きく、また大陸の戦争に巻き込まれて資本が軍事に使われやすい傾向にありました。

④ 農業と労働力

イギリスでは農業革命(囲い込み運動)が産業革命に先立ってに進み、農業の余剰人口が都市に流入しました。これが産業労働者層になりました。

フランスは人口は多かったですが、農業は村落共同体意識が強固で、自由な労働移動が起きにくい面がありました。

⑤ 文化と実用志向

イギリスは科学や技術を工学や実用化に結びつける伝統がありました。

フランスでも科学技術は発展しましたが、宮廷や学術アカデミーに集中し、実用化や民間投資への接続は貧弱でした。

「産業革命=技術革新」ではありません。技術革新を社会全体で受け止める制度や金融の仕組みがなければ、大工場や大量生産には結びつきません。

「なぜフランスではなくイギリスで?」という問いは、世界史を考えるうえでの大きなテーマのひとつだと思います。

調べて感じたのは、技術革新は産業革命の「最後の引き金」に過ぎず、それ以前に金融制度と議会政治の発展という社会基盤があったのことが、イギリスとフランスとの間に大きな違いを生んだといえます。







Posted on 2025-08-19 | Category : コラム, 世界史の扉 | | Comments Closed

イングランドではなぜ議会が早くに力を持ったのか?




文・M&C編集部

フランス史の特徴が中央集権化の早さだとすれば、イングランド史の特徴は議会の早期発展です。

なぜイングランドの議会だけが、他国よりも早く力を持ったのか? その要因をまとめました。

① ノルマン征服(1066年)以降の王権

ノルマン・コンクエストで征服王ウィリアム1世は、フランス系貴族を従えてイングランドを支配しました。

王は封建領主でもあり、全国の土地を再分配したため、国王と諸侯が直接契約関係にあるという構造ができました。

そのため大陸のような「地方領主の独立」が起きにくく、早くから王と貴族が直接交渉する場(評議会)が重要になりました。

これが議会の原型です。

② マグナ・カルタ(1215年)

ジョン王は戦争と失政で貴族から反発をくらい、王の権限を制限する「大憲章(マグナ・カルタ)」に署名させれました。

マグナ・カルタでは「課税には議会の同意が必要」「王の恣意的逮捕の禁止」などが規定され、後の議会制民主主義の基礎となりました。

他国では「王が課税権を握る」のに対し、イングランドでは早くから「課税は合議制」という原則が確立したのです。

③ 財政基盤の弱さ

イングランドはフランスほど豊かではなく、国王が戦争をするには必ず新しい課税を議会に認めてもらう必要がありました。

議会抜きでは財政を賄えない構造が、議会の発言力を高めました。

一方、フランスでは国王が税を徴収できたので、議会が力を持ちにくかったのです。

④ 身分制議会の発展(14世紀~)

聖職者・貴族・庶民(都市商人や地主)からなる「二院制議会」が成立しました。

特に下院(庶民院)が課税承認権を握り、国王と交渉する力を持ちました。

大陸では都市や市民層の発言力が弱いですが、イングランドでは早くから地主や商人が政治に参加したのです。

⑤ 王権と議会のせめぎ合い(17世紀)

エリザベス女王の死後、スチュアート朝の国王が絶対王政を志向します。

しかし議会は財政権を盾に抵抗し、やがて清教徒革命や名誉革命につながりました。

これにより、国王は議会の同意なく課税・法律制定できないという原則が確立しました。

議会主権が確立し、近代立憲君主制への移行です。

⑥ 地理的条件と安全保障

大陸諸国と違い、イングランドは島国なので常備軍を大きく維持する必要がありませんでした。

そのため国王の軍事独裁が生まれにくい傾向にあり、そのことが議会の存在をより強調しました。







Posted on 2025-08-18 | Category : コラム, 世界史の扉 | | Comments Closed

フランスはなぜ絶対王政の時代に中央集権化を成し遂げられたのか?




文・M&C編集部

地理・社会・歴史的条件が絡み合っています。以下、順を追って説明しましょう。

1. 地理的条件 ― 「大河と平野の国」

フランスはヨーロッパで最も広い平原国家のひとつで、ロワール川・セーヌ川・ガロンヌ川などの大河が国内を結びつけていました。

山地に分断されやすいイタリアやドイツ、島国のイングランドに比べて、地理的に統一政権を築きやすかったといえます。

「交通のハブ」としてパリを中心に権力を集中できました。

中央集権化に有利な「地形の一体性」がありました。

2. 中世からの王権の連続性

フランス王家(カペー朝)は987年から王位を継承し続けました。

王位継承に不安が少なかったため、王権の正統性が強固になった傾向があります。

イングランドのように内乱や王朝交替で地方勢力が台頭することが少なかったです。

こうしたことが要因で、 王権が「国家の核」として長期に存続できました。

3. 百年戦争後の国民統合

14〜15世紀の百年戦争(対イングランド戦争)を経て、「フランス人」という国民意識が芽生えました。

戦時には、徴税制度・常備軍が発展しました。

イングランドを撃退したことで「国王=国家統合の象徴」という意識が広まりました。

4. 財政と軍事の近代化

15世紀末以降、国王は常備軍(王の軍隊)を保持し、地方貴族の私兵に頼らなくなりました。

さらに税制改革により、「王の直轄財源(直税・関税)」を確保します。

財政と軍事を王が掌握することで、貴族の自立性を弱められました。

国王が「武力と財政」を握ったことで、地方領主を凌駕しました。

5. 官僚制の発達

ルイ11世、ルイ13世、ルイ14世と続く絶対王政の君主たちは、教育を受けた都市出身の平民を官僚として登用しました。

貴族を排して「王に忠実な行政官」を地方へ派遣(監察官制度)しました。

この仕組みが、日本の明治維新の「知藩事から県令へ」の先駆けのような役割を果たしました。

6. 宗教とイデオロギーの支え

王権神授説(特にルイ14世の時代)をとなえ、「国王は神に選ばれた存在」と国民に周知しました。

ローマ教皇との対立を通じて「フランス国王=フランス教会の保護者」という立場も確立しました。

これによって、王権の正統性が宗教的にも補強されました。

最後に
日本との比較では、連邦制のように各地の大名を従えた徳川幕府よりも、ずっと「国王=国家そのもの」という性格が強かったのが特徴です。







Posted on 2025-08-18 | Category : コラム, 世界史の扉 | | Comments Closed