村上春樹文学について〈文体〉
数日前、わたしは村上春樹作品について記事を書いた。
そこで、わたしは村上春樹は文体にこだわっている、という意味のことを書いた。
さらに、文体にこだわっているみたいだが、読む人の魂を揺さぶるようなエネルギーが感じられない、という意味のことも書いたように思う。
きょうは、村上春樹作品の文体について、もう少し考えてみたい。
どこかの記事で、村上春樹はデビューしたとき、文体がこれまでとの文学とは違うことが評判になったと読んだ。
何が評判になったのかは知らないが、ライトで、ジャズの音楽のようで、比喩表現が斬新で、といったことを指しているのだろうと想像する。
実は、わたしは初めて村上春樹作品を読んだとき、文体の新しさは感じなかった。
わたしの村上春樹作品に対する感性が鈍いのだろう。
文体が新しくても、テーマや内容に中身がなければ作品としての価値は低いと、わたしは漠然と考えていた。
でもふと、明治時代、二葉亭四迷は「浮雲」を言文一致体で書いたことを思い出した。
その言文一致体の発明が今では文学史上、時代を画する重要な出来事になった。
村上春樹もわたしが感じていないだけで、100年後には日本文学の文体を変えた作家として評価されているかもしれないのだ。
二葉亭四迷は「浮雲」を書くにあたって、はじめロシア語で書いて、それを日本語に翻訳した。
村上春樹の執筆方法も同じだ。「ノルウェイの森」は、はじめギリシア語で書いて、それを日本語に翻訳した。
(しかも、村上春樹はギリシャに滞在して執筆した)
はじめ英語で書いて、それを日本語に翻訳して執筆した作品も多いらしい。
二葉亭四迷と村上春樹の執筆方法が同じなのは、偶然ではないだろう。
新しい文体を発明するとき、外国語からの翻訳という作業は、絶妙かつ相当な威力を発揮するのだろう。