新成人おめでとう!

新成人の皆さんおめでとう! 

皆さんの未来は限りなく大きく 豊かに広がっている。

自分自身を信じて焦ることなく、毎日を精一杯生きてほしい。

そして君たちの可能性を開花させる環境を作るのは、我々 大人の責務である。

令和六年 成人の日

蓬田修一

Posted on 2024-01-09 | Category : コラム | | Comments Closed

朝鮮の歴史

朝鮮歴史

紀元500年頃、朝鮮半島の北には大国が、南には3つの小さな国があった。
北の大国は高句麗(こうくり)だった。
南の小国は、西から百済(くだら)、伽耶(かや)、新羅(しらぎ)だった。

新羅は562年、伽耶を滅ぼした。
勢いにのった新羅は勢力範囲を北の高句麗領土へと拡大させた。

高句麗と百済は642年、新羅の勢力を抑えるため同盟を結んだ。
日本(倭)も新羅を敵とみなした。
新羅は東アジアにおいて孤立した。

新羅は、当時の支那王朝・唐に助けを求めた。
唐は新羅を助けるメリットがなかったので、助けなかった。

唐は660年、百済に侵攻した。
新羅はその動きにあわせて百済に侵攻した。
百済は滅んだ。
新羅にとっての脅威は減った。

唐は668年、高句麗に侵攻した。
新羅は百済のときと同じく、唐の侵攻にあわせて高句麗に侵攻した。
高句麗は滅んだ。

新羅は、旧百済全域と旧高句麗の一部領土を手に入れた。
高句麗は朝鮮半島初めての統一王朝になった。
676年のことだった。

渤海が高句麗の領土だった場所に誕生した。
渤海は新羅の領土の一部を奪った。
その後、新羅が朝鮮半島の大部分を治めた。

高麗(こうらい)が渤海の領土に誕生した。
高麗は新羅を滅ぼし、朝鮮を統一した。
918年のことだった。
その後、高麗が朝鮮を治めた。




13世紀、モンゴルが朝鮮に攻め込んできた。
モンゴルは1259年、朝鮮を支配下においた。

14世紀、中国大陸にモンゴルの支配を脱した明王朝が誕生した。
朝鮮半島でも高麗王朝がモンゴルの支配から脱した。
高麗内部で対立が起こった。
高麗の有力武将、李成桂(りせいけい)がクーデターを起こした。

李成桂は高麗王を倒し1392年、朝鮮が誕生した。
朝鮮という名称はこれまでたびたび使われていた。
李一族が建国した朝鮮はそれらと区別するため、李氏朝鮮と呼ばれる。

李氏朝鮮は明と良好な関係を築き、繁栄した。
中国大陸では1644年、明が滅んで清王朝が誕生した。
李氏朝鮮は清とも良好な関係を保った。
李氏朝鮮は500年以上も朝鮮半島を治めた。

ロシアがシベリア鉄道をつくり、東アジアへ進出していた。
清はロシアの東アジア進出に対して、朝鮮における支配力を強めようとした。
日本も自国の防衛のため、隣国朝鮮の安全確保が必要であり影響力を強めようとしていた。
朝鮮をめぐり1894年、日清戦争が起きた。

李氏朝鮮は1897年、国名を大韓帝国と改めた。
日本は1910年、大韓帝国を併合した。

日本は1945年、大東亜戦争において敗北し、日本の朝鮮統治が終了した。
朝鮮は連合国の管轄下に入った。
北緯38度以北をソ連軍が、以南をアメリカ軍が管轄した。

米ソ両国は1948年、それぞれ朝鮮半島で政権を誕生させた。
アメリカは、李承晩を大統領に就任させ、大韓民国が成立した。
ソ連は、金日成を首相とし、朝鮮民主主義人民共和国が成立した。

アメリカのアチソン国務長官は1950年、朝鮮半島はアメリカの防衛ラインに含まないと演説した。

これを受けて北朝鮮の金日成は韓国へ侵攻した。
北朝鮮軍は圧倒的優位に戦いを進めた。
韓国軍は首都ソウルを捨てて敗走した。
北朝鮮軍は韓国のほとんどを占領した。
韓国軍の全滅と韓国の崩壊が近づいた。

アメリカは韓国を支援するため、戦争に介入した。
国連軍(実態はアメリカ軍)の支援で、北朝鮮軍を北方へ押し戻した。
北緯38度線を境界として、休戦協定が結ばれた。
現在も休戦状態であり、終戦に至っていない。




Posted on 2024-01-08 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

アメリカの歴史

18世紀中頃、ヨーロッパでは宗教弾圧、貧困、政治問題などで苦しむ人がたくさんいた。
彼らはアメリカ大陸に移住した。

アメリカ大陸には先住民が暮らしていた。
移住したヨーロッパ人は先住民を虐殺しながら、居住地を広げた。

アメリカ大陸東部に、150万人のイギリス人が住んだ。
イギリス人居住地の北部では漁業が行われた。
南部ではタバコ、綿、米などが栽培された。

イギリス人はアフリカから黒人をアメリカ大陸に連れてきて奴隷にした。
奴隷がとった魚や、奴隷が栽培した作物はイギリスに運ばれた。

イギリスで生産された雑貨や武器はアフリカに運ばれた。
アフリカ、アメリカ大陸、イギリスを奴隷、作物、雑貨や武器が循環する三角貿易が行われた。

アメリカ大陸のイギリス植民地西方にはアパラチア山脈が連なっている。
山脈の西はフランスの植民地だった。
ここでは主に毛皮を生産していた。

イギリスとフランスとの間で緊張が高まった。
七年戦争が起きた。
イギリスが勝利した。
イギリスはフランス領土を奪った。

アメリカ大陸の先住民は団結して、イギリス人を追い出そうとイギリスと戦った。
イギリス政府は先住民が住む地域を定めて、事態を収拾しようとした。

アメリカ大陸に住むイギリス人は、西に領土を広げたかった。
彼らにとって、本国政府が決めた先住民居住地は、領土拡大にとって邪魔だった。

イギリス本国はフランスとの戦争で経済が疲弊していた。
アメリカ植民地に重税を課した。
入植者は不満を募らせた。

入植者はもともとイギリスから来た人なので、紅茶を飲む習慣があった。
イギリスは、自国の東インド会社がアメリカ植民地へ茶を独占販売することを認めた。

入植者は東インド会社が販売する値段の高い紅茶を買わされることになった。
入植者のあいだに、イギリスに対する不満が高まった。

急進派は、北部のボストン港に停泊していた東インド会社船を襲い、積み荷の茶箱を海に投げ入れた。
のちにボストン茶会事件と呼ばれる事件だ。
植民地とイギリスとの緊張が高まった。

12植民地の代表者がフィラデルフィアに集まった。
第一次大陸会議を開催した。
イギリス製品不買運動を決めた。

独立を支持する愛国派が独立戦争を始めた。
1776年7月4日、第二次大陸会議が開催された。
アメリカ合衆国の独立を宣言した。

フランスは七年戦争の敗北を雪辱する機会をうかがっていた。
アメリカ側について、イギリスと戦うことを決めた。
スペインとオランダはイギリスと対立していた。
両国はイギリスに宣戦布告した。

アメリカが勝利した。
イギリスはアメリカ独立を認めた。
アメリカはミシシッピ川まで領土を広げた。
スペインはフロリダを獲得した。

アメリカは三権分立で国家を運営した。
13州もそれぞれに主権を持ち、それぞれに憲法を制定した。
首都ワシントンDCがつくられた。

アメリカ人は西へ領土を拡大させた。
先住民をさらに西を追いやった。

フランスは1800年、それまでスペイン領土だったルイジアナをエトルリア王国との交換で獲得した。
フランスは本国から遠く離れたルイジアナを十分に経営できなかった。
いつかイギリスに奪われてしまうのを懸念した。
アメリカにルイジアナを売却した。

ヨーロッパではフランスとイギリスが争っていた。
当初、アメリカは中立を保った。
戦争が進むにつれて、北部のイギリス領土を奪う好機と捉えた。
参戦した。
カナダ植民地を奪おうと戦ったが失敗した。
アメリカは北部の領土を諦めた。

南部への領土拡大に方針転換した。
スペインは国力が弱っていたためだ。
スペイン領のフロリダに進攻して、アメリカに併合した。

西部のオレゴン地方はアメリカとイギリスが共同管理していた。
ミシシッピ州東部には先住民が暮らしていた。
アメリカは先住民居住地を没収した。
先住民を西部に追いやったが、多くの先住民はその過程で行き倒れとなった。

メキシコ領土のテキサスは、アメリカからの移住者が多く住んでいた。
メキシコから独立した。
間もなく、アメリカに併合された。

アメリカとメキシコとの国境線はあいまいであった。
国境線をめぐって、戦争が起きた。
戦いを優勢に進めていたアメリカは、ニューメキシコとカリフォルニアをン併合した。

カリフォルニアで金鉱脈が発見された。
人々は金を求めてカリフォルニアに押し寄せた。
東海岸から海を渡ってカリフォルニアに向かう人もいた。
その人たちのために、中間地点のパナマでは鉄道が建設された。
カリフォルニアには奴隷制はなかった。
アメリカでは珍しいことだった。




アメリカ南部は農業が盛んだった。
奴隷が働いていた。
北部は工業化が進んだ。
奴隷制の廃止も進んでいった。

南北それぞれが、自分たちのやり方を西部に広めたいと考えていた。
西部での軋轢が高まった。

エイブラハム・リンカーンが1860年、大統領に就任した。
リンカーンは奴隷制に反対だった。
リンカーンは北部出身だった。
北部は工業が発展しつつあった。
工場での働き手が足りなかった。
リンカーンは奴隷を解放して、北部の工場で働かせたかった。
黒人の人権問題から奴隷制に反対していたのではなかった。

リンカーンの反奴隷政策に反対する南部の各州は、アメリカ合衆国を脱退した。
南部各州は奴隷を使って、農業を続けたかった。
南部各州はアメリカ連合国を結成した。
アメリカ合衆国とアメリカ連合国との戦いとなった。
アメリカの内戦、南北戦争である。

北軍は大西洋沿岸を封鎖した。
南部が物資の輸入や綿花の輸出をするのを阻止した。
戦いは北軍が勝利した。
奴隷制は廃止された。
350万人の奴隷が解放された。

南部で白人至上主義団体KKKが生まれた。
奴隷から解放された黒人は差別された。
多くの黒人は北部へ移住していった。

アラスカはロシア領土だった。
イギリスに奪われるリスクがあった。
ロシアは奪われる前にアメリカに売却した。

アメリカ大陸では、西部開拓を加速させるため、大陸横断鉄道の建設に力を入れた。

中部は農業機械の発展によって、穀物生産が大きく伸びた。
小麦、とうもろこしなどが生産された。
アメリカ大陸は発展していった。
多くのヨーロッパ人は、アメリカ大陸に憧れた。
貧困や宗教迫害に苦しむ人たちなどがアメリカ大陸に移住した。

多くの人が移住したが、豊かになれた人は少なかった。
ごく少数の人たちが経済界を仕切っていた。
鉄鋼、鉄道、石油、銀行などの分野では、ごく一部が大富豪となった。
女性や子どもを含む多くの人は、低賃金で働いた。
労働環境を改善する運動は起きたが、警察や民兵によって鎮圧された。

ヨーロッパ各国は世界に植民地を作っていった。
アメリカも国外に勢力を広げていった。
ハワイを併合した。
内戦で国が疲弊していたキューバに干渉した。
キューバでアメリカは、スペインから独立しようとする勢力を支援した。
アメリカ軍の船がハバナ港で爆発した。
アメリカはスペインの謀略と考えた。
スペインと戦争となった。
米西戦争である。

アメリカが勝った。
アメリカはキューバを独立させた。
プエルトリコ、グアム、フィリピンなど、ほぼすべてのスペイン領を奪った。
アメリカも帝国のひとつとなった。

コロンビアでは企業が運河建設に着手した。
アメリカがこの事業を買収した。
パナマ運河を完成させた。

ヨーロッパで第一次世界大戦が起こった。
労働者が徴兵され戦場に赴いた。
各国の産業は落ち込んだ。

アメリカは参戦していなかった。
この機に、弾薬、食料、衣類、クルマなどを各国に売り大きな利益をあげた。

ドイツはヨーロッパへの物資の流れを絶つため、海上封鎖で対抗した。
イギリス海域でアメリカの商船を撃沈した。

ドイツがメキシコにアメリカを倒そうと持ち掛けていたことが発覚した。
アメリカは参戦した。
200万人が戦線に送られた。
11万人が命を落とした。

協商国が勝利した。
ヨーロッパ中の国々がアメリカに借金を負うこととなった。

アメリカ経済は好調を極めた。
工場の生産力は上がっていった。
製品の流通量が増え、価格が下がった。
クルマ、家電、金融商品が売れた。

ハリウッドが世界に誇る映画の街として確立した。
ラジオが普及した。
ジャズが流行った。
ニューヨークではナイトクラブが増えた。
アルコールの流通量が増えた。

人々は、お酒は悪魔の飲み物と考えていた。
政府は禁酒法を制定した。
密造酒がたくさんつくられ、全国に密売所が増えた。
マフィアは密造酒の販売で利益をあげ、勢力を拡大させた。

農業が盛んな南部は、農産物の価格が下落して経済が落ち込んだ。
KKKが黒人だけでなく、カトリック教徒、ユダヤ人、移民を攻撃の対象として、活動を活発化させた。
KKKメンバー数は500万人になった。
白人のプライドの拠り所となった。

ウォール街で株価の大暴落が起こった。
アメリカ経済は一気に崩壊した。
1929年のことであった。
企業が次々と倒産した。
人口の4分の1が失業した。

禁酒法は廃止された。
経済の活性化と労働条件の改善が図られた。




ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。
アメリカは中立の立場を取った。
イギリスやロシアに武器を輸出して支援した。
日本に対して、鉄鋼と石油の輸出をストップした。

日本が真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃した。
アメリカは連合国側で参戦した。
1945年、ドイツが降伏した。
アメリカはソ連と協力して日本を攻めた。
ソ連は満州へ侵攻した。
アメリカは原爆を広島と長崎に落とした。
日本は降伏した。

アメリカは国際連合を設立した。
ヨーロッパは戦争で疲弊した。
アメリカとソ連が台頭した。

両国はヨーロッパを自らの勢力下に置こうと競った。
アメリカは、西ヨーロッパに資金援助することで勢力を拡大させた。
ソ連は、東ヨーロッパに共産主義政権を樹立させ、勢力を拡大させた。
冷戦の時代となった。

アメリカは戦争で受けた被害がほかの国より小さかったため、産業、経済、軍事などあらゆる面が発展した。
政府内の共産主義支持者が解雇された。
ハリウッド映画を、反共産主義思想を広めるために活用した。

アメリカは共産主義政権が広まらないよう、ギリシア、中国、朝鮮、ベトナムなど世界各国の政治に介入した。

ソ連は世界初の有人宇宙飛行を成功させた。
アメリカはNASAを立ち上げ、月面着陸を目指した。

ソ連はキューバにミサイル基地を建設し、至近距離からアメリカを攻撃できるようにした。
アメリカとソ連の緊張はピークに達した。
ソ連はキューバからミサイル基地を撤去させ、戦争の危機は回避された。

黒人差別を問題とする公民権運動が活発化した。
社会での男女平等を求める声が高まった。
先住民はよりよい環境を求めた。
反ベトナム運動が高まった。
1969年、世界初の有人月面着陸を成功させた。
テレビが普及し、多くの人が月面着陸の様子を見た。

中国と関係を深めた。
ソ連との軍拡競争は抑えた。
第四次中東戦争に参戦し、イスラエルを支援した。

アラブ諸国はアメリカへの石油輸出を禁止した。
ベトナム戦争から撤退した。
ベトナムは社会主義の国になった。

ソ連はアフガニスタンを社会主義国家にするため軍事進攻した。
アメリカは反共産勢力を支援した。
ニカラグアやグアテマラなどの政治に介入した。
これらの国でも共産主義勢力を抑えた。

イランで革命が起き、親米政権が打倒された。
アメリカは石油利権を確保するため、中東各国へ軍事介入した。

ソ連は東ヨーロッパの国々における民主主義革命を抑えた。
ソ連は、軍事費がかさんだことなどで経済は破綻した。
改革するが失敗した。
ソ連は崩壊した。

アメリカ国民は、政府に貧困層への支援、ギャング、麻薬への対策を求めた。
政府は内政より外交に力を入れた。
世界の警察になることを目指した。

イラクが、世界石油埋蔵量の9%を占めているクエートに侵攻した。
アメリカは多国籍軍を組織して、イラクを撤退させた。

世界の平和を脅かしている国家を名指しして、ならず者国家と批判した。
それらの国々に経済制裁を課した。

世界中にあるアメリカの財産は過激派の攻撃対象となった。

アメリカは2001年、同時多発テロが起きた。
テロリズムとの戦いが始まった。
テロ組織は国家と違い抑え込むことは困難だった。
アフガニスタンでイスラム原理主義タリバンとの戦争を始めた。
北朝鮮、イラン、イラクを悪の枢軸と名指しして、経済制裁を課した。

イラクに戦争を仕掛け、サダム・フセイン政権を転覆させた。
中東各地でイスラム勢力と戦った。

2007年、サブプライムローン問題から金融危機が起こった。
シェールオイルで経済を回復させようとした。




Posted on 2024-01-06 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

ドイツの歴史

2000年前のヨーロッパは、ローマ帝国が大分部を支配した。
ヨーロッパ大陸を流れるライン川とドナウ川は、ローマ帝国とそれ以外の地域を分ける境界となっていた。
この境界線の向こう側に住んでいた人種こそ、今のドイツ人の祖先ゲルマン人である。
支配地域を拡大させ続けたローマ人だが、川向こうのゲルマン人地域には進出しなかった。

やがて、ゲルマン人は人口が増えていき、食料が不足した。
東からはフン族が攻めてきた。
困ったゲルマン人はライン川とドナウ川を越えて、ローマ帝国内に入っていった。
ゲルマン人は長い時間をかけて、ローマ帝国内の各地に大量に移住した。
これを、ゲルマン人の大移動と呼ぶ。

ローマ帝国は東西に分裂した。
ゲルマン人は、分裂後の西ローマ帝国を滅ぼした。
西ローマ帝国だった各地に、ゲルマン人国家をどんどん作っていった。

ゲルマン人国家のなかでも、ひときわ大きな国家がフランク王国だった。
フランク王国はローマ教皇とのつながりを深めた。
キリスト教世界で大きな力を持った。

巨大になったフランク王国では権力争いが起こった。
王国は3つに分裂した。
西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国である。
それぞれ今のフランス、イタリア、ドイツの原型となっていく。

分裂した王国では、どこも王の権力が弱かった。
王とはいうものの、貴族と同等であった。
貴族の上に立ちたいと考えた東フランク王国のオットー1世は、王ではなく、皇帝として国をまとめ上げようと考えた。

大きな権威を持っていたローマ教皇に協力を依頼して962年、ローマ教皇から皇帝の称号を授かった。 
オットー1世は皇帝となり、これ以降、東フランク王国は神聖ローマ帝国と名称を変えた。

オットー1世が亡くなると、皇帝の権威は堕ちた。
皇帝は、形式的なものとなった。
帝国内の諸侯たちは独自に小さな国家をつくっていった。
これら国家のことを領邦と呼ぶ。
また、領邦をたばねる人を領邦君主と呼ぶ。

神聖ローマ帝国は、たくさんの領邦を束ねるための枠組み的なものへ役割を変えた。
皇帝の権威は相変わらず安定しなかった。
しかし、ハプスブルク家が皇帝となった1493年以降は、皇帝の権威は安定していった。




14世紀、イタリアを中心にルネサンスが起こった。
ローマにあるサンピエトロ大聖堂の再建工事が計画された。
ローマ教皇は大量の工事資金を必要とした。
資金を調達するため教皇は、罪を消すことができる贖宥状を販売した。
キリスト教徒は罪を持ったままでは死後、天国に行けない。
罪の意識を持っていた多くの教徒たちは、贖宥状を買った。
贖宥状で罪を消し、死後は天国に行こうとした。

マルティン・ルターは、贖宥状を厳しく批判した。
神からの救済はお金ではなく、神を信じることで得られると主張した。
聖書にもとづいた主張であった。

ルターは、聖書をドイツ語に翻訳した。
それまでは、聖書はラテン語で書かれていた。
聖職者以外の人々は、聖書を読むことができなかった。
民衆は教会に行き、聖職者が話すことを聞いて、キリスト教や聖書を教えを理解していた。
聖書は聖書職者が独占していた。

ルターは聖書を翻訳した。
聖書を読む民衆が増えていった。
ルターの支持者が増えた。
ルター支持者は、帝国内のローマ教皇支持者と対立した。
神聖ローマ帝国は混乱した。

ついに1546年、神聖ローマ帝国内でカトリックとルター派との間で戦争が起こった。
戦いは長引いた。
決着はつかなかった。
アウグスブルクの和議で終結した。

アウグスブルク和議によって、神聖ローマ帝国内の領邦は、領邦君主が信仰する宗派を決めることになった。
領邦内の民衆は、君主が決めた宗派を信仰することになった。
民衆に信仰の自由はなかった。

神聖ローマ帝国内には強大なふたつの領邦があった。
ひとつはオーストリアである。
オーストリアは、12世紀頃に誕生した。
ハプスブルク家が実権を握ると、国力を強めた。
神聖ローマ帝国内でひときわ大きな力を持った。
神聖ローマ帝国の皇帝は、ハプスブルク家から代々選ばれた。

ハプスブルク家カール5世が神聖ローマ皇帝に即位した。
カール5世はスペインとも血縁関係を持っていた。
そのため、スペインもオーストリアの領土となった。

当時のスペインは大航海時代を経て、アメリカ大陸やフィリピンも領有していた。
カール5世はヨーロッパだけでなく、世界中に広大な領土を持つこととなった。

神聖ローマ帝国内のもうひとつの強大な領邦がプロイセンだ。
プロイセンのルーツはドイツ騎士団領である。
ドイツ騎士団は、プロイセンにもともと住んでいたプロイセン人を追い払い住み着いた。
ドイツ騎士団はプロイセンという名前を引き継いで、プロイセン公国をつくった。

名門ホーエンツォレルン家がプロイセンを引き継ぐと、力をつけていった。
神聖ローマ帝国内で大きな影響力を持った。




17世紀、宗教戦争が起きた。
戦争のきっかけは、チェコの原型ベーメン王国であった。
このときのベーメン国王はハプスブルク家フェルディナント2世だった。
ベーメン王国はルター派が多かった。
フェルディナント2世はカトリックであった。
フェルディナント2世はベーメンの民衆にカトリックを強制した。

民衆は激怒した。
民衆はプラハ城にいたハプスブルク家の役人を窓から落とした。
これがきっかけとなって、カトリックとプロテスタントとの対立が大きくなった。
大規模な戦争が始まった。
戦争はおよそ30年間続いた。
三十年戦争と呼ばれる。

戦争は4つの段階に分けられる。
第1段階は、カトリックであるオーストリアと、プロテスタントのベーメン王国との戦いである。
オーストリアは強国であり、ベーメン王国は弱国あった。
オーストリアは圧勝した。
惨敗したベーメン王国の諸侯たちは処刑されたり、財産を没収された。

第2段階は、戦争が国際的に発展した。
当時のヨーロッパでは、強大な力を持つハプスブルク家に対して、フランスは危機感を覚えていた。
フランスは、オランダ、イングランド、デンマークなどといったプロテスタント派国家に、反ハプスブルク同盟の結成を呼び掛けた。
まず、デンマーク王クリスチャン4世が戦いに参加した。

カトリック側は傭兵隊長ワレンシュタインが10万の神聖ローマ皇帝軍を率いて立ち向かった。
ワレンシュタインは戦いを優位に進めた。
和平条約が1629年に結ばれた。

第3段階である。
スウェーデンのグスタフアドルフ(プロテスタント側)が1630年、神聖ローマ皇帝軍と戦った。
グスタフアドルフは戦術に長けていた。
激しい戦いの末、グスタフアドルフは皇帝軍に勝利した。

グスタフアドルフはその後、ワレンシュタインとも戦った。
この戦いでグスタフアドルフは戦死した。
戦いはスウェーデンが勝利した。

第4段階である。
フランスがハプスブルク家の弱体化を狙って参戦した。
フランスはカトリック国家であった。
ハプスブルク家と宗教的には同じ側である。
しかし、フランスは何としても、ハプスブルク家が強大化していくのを阻止したかった。
フランスはプロテスタント側に立って戦った。

フランスが参戦したことで、戦争はより国際的になり、より複雑になった。
1640年になると、カトリック側もプロテスタント側も国家が疲弊し始めた。

和平交渉が始まった。 
ウェストファリア条約が1648年に結ばれた。
ようやく三十年戦争が終わった。

ウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国内の領邦は、これまで以上に強い主権を持つこととなった。
領邦は、ほぼ独立国家と同等になった。
領邦をたばねる役割の神聖ローマ帝国の体制は失われた。
神聖ローマ帝国の存在意義が消えた。
後世、ウェストファリア条約は、神聖ローマ帝国の死亡診断書と呼ばれることになった。

このあと、神聖ローマ帝国は立て続けに戦争に巻き込まれた。
フランスは絶対君主ルイ14世のもと、大きな力を持っていた。
ルイ14世は国土を広げようと、対外戦争を起こした。

フランスは神聖ローマ帝国の国境地域、アルザスロレーヌ地方に1688年
侵攻した。
神聖ローマ皇帝は、フランスの強大化に危機感を持っていたスペイン、オランダ、スウェーデン、イギリスなどと同盟を結んで対抗した。

戦いは同盟軍の勝利となった。
ルイ14世はアルザスロレーヌ地方から退却した。

スペインで、カルロス2世が亡くなった。
ハプスブルク家が断絶した。
ルイ14世はこれを好機と捉えた。
ルイ14世はスペイン・ハプスブルク家と血縁関係を持っていた。
孫のフィリップをスペイン王に即位させようと考えた。

スペインは、フランスの強大化を恐れ、戦争が始まった。
オーストリアも戦いに巻き込まれた。
スペイン継承戦争である。

戦争はあいまいな形で終結した。
フィリップはスペイン王に即位した。
しかし、スペインとフランスとの合併は禁止された。

オーストリアに初の女帝マリア・テレジアが即位した。
プロイセンは女帝即位に反対した。
神聖ローマ帝国内のふたつの強国オーストリアとプロイセンが戦争を始めた。
オーストリア継承戦争である。

プロイセンにとって戦争の目的は、オーストリアのシュレジェン地方という、鉄が取れる地域を奪うことにあった。
マリア・テレジアが皇帝になることは、実はどうでもよかった。
オーストリアの弱体化を狙うフランスも参戦した。
国際的な戦争へと発展した。

1745年に講和条約が結ばれた。
プロイセンは念願のシュレジェン地方を獲得した。
マリア・テレジアはシュレジェンを取り返すため、驚きの策を打ち出した。
フランスとの同盟であった。

フランスとオーストリアは長年対立関係にあった。
マリア・テレジアは娘のマリー・アントワネットをフランス王家に嫁がせて、フランスとの関係を改善した。
この外交方針の大転換は、外交革命と呼ばれた。

マリア・テレジアは次にロシアと同盟を結んだ。
1756年、再びプロイセンと戦った。
七年戦争である。

初戦は、オーストリア、フランス、ロシアの軍事力がプロイセンを圧倒した。
しかし、ロシアはツァーリがピョートル3世に代わると、プロイセン側についた。
フランスは1754年からアメリカ大陸植民地を巡ってイギリスと戦争しており、そちらへ兵力を割くようになった。
オーストリアは少しづつ力を弱め、プロイセンが徐々に優位になった。
ついにオーストリアはシュレジェン地方を奪還することはできなかった。

七年戦争のあと、ヨーロッパはしばしの小康状態であった。
1789年のフランス革命が、その状況を破った。
国民が国王と王妃を処刑したのだ。
王妃はマリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットであった。
フランス革命はオーストリアに大きな衝撃を与えた。

ほかの国家も、王政が市民によって倒されたことに驚愕した。
自国の王政維持のため、フランスを倒そうと、周辺国はフランスに攻撃を行った。

フランスは周辺国とのあいだに圧倒的な戦力差があり苦戦した。
しかし、軍事の天才ナポレオンが実権を握ると、フランスは巻き返していった。

ナポレオンはオーストリアやプロイセンと戦いこれらを破った。
ナポレオンは勢力を拡大させた。
ナポレオンは神聖ローマ帝国の領邦を支配し、ライン同盟を結成した。
これによって、これまで一応は領邦の枠組み的な存在であった神聖ローマ帝国は、完全に存在する意味を失った。
およそ千年間続いた帝国は、ここに事実上滅亡した。

ナポレオンはロシアとの戦いで、大寒波のため敗北した。
これがきっかけとなり、ナポレオンは力を弱めた。
ナポレオンは、オーストリアやプロイセンも参加するライプツィヒの戦いで完全に敗北した。
ナポレオンはエルバ島に流された。

その後、ナポレオンは復活した。
しかし、イギリスやプロイセンなどによって完全に打倒された。
ヨーロッパ諸国は、ナポレオンによって大きく変わった領土や政治体制をどうするか、ウィーン会議を開いて話し合った。

諸国は、ヨーロッパを基本的にフランス革命が起きる前の状態に戻すことを決めた。
フランスやスペインでは王政が復活した。
ただ神聖ローマ帝国を復活させることは不可能であった。
そこで、ドイツ連邦が成立した。
ドイツ連邦はひとつの国家というより連合体であった。
引き続きオーストリアやプロイセンが大きな勢力を誇った。

フランス革命やナポレオン戦争で、自由主義とナショナリズムが広がった。
国民が王や皇帝の制約を受けず、自由に信仰し表現し生きたいという自由主義や、フランス人はフランスという統一国家をつくり、ドイツ人はドイツという統一国家をつくりたいというナショナリズムの考えが、フランスを中心に、ヨーロッパ全土へ広がった。

王や皇帝は自由主義を邪魔に考えた。
ウィーン会議で自由主義を封じ込めた。
しかし民衆のある勢力は、フランスを中心に自由主義を求め革命を起こしていった。
その流れはドイツにも及んだ。

オーストリアでは、自由主義や立憲君主制を求める学生運動が起こった。
多民族国家であるオーストリアで、言論の自由や信仰の自由を民衆に与えると国家の崩壊につながる。
そこでオーストリアは自由主義を求める学生運動を取り締まった。
そして、君主制国家であることを法律で決めた。

フランスで二月革命が起きた。
革命の熱波はドイツにも及んだ。
ドイツでは三月革命が起きた。
自由と憲法成立を求めた暴動を起こす民衆が現れた。
ナショナリズムの思想もつながり、ドイツ系統一国家の建設も求めた。

統一国家をつくる目的で、ドイツ内の各国から選挙で選ばれた代表がフランクフルトに集まり国民議会が開かれた。
現在の体制を維持したいオーストリアやプロイセンは議会を作ることに反対した。
これに対して、フランクフルト国民議会はドイツ国憲法を制定して対抗した。
皇帝が決まれば、ドイツ統一国家にすることができるところまできた。
国民議会はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世を皇帝に任命した。

ヴィルヘルム4世は、憲法によって自分の皇帝権が制限されることを懸念し、皇帝になることを拒否した。
国民議会は解散した。
三月革命はドイツ統一寸前までいったが、失敗に終わった。




革命は失敗したが、立憲君主制としての新たな国家体制が模索されていった。
オーストリアは1859年のイタリア統一戦争などで国力を下げてしまい、ドイツ統一はオーストリアではなくプロイセンを中心に進めたほうがいいという流れをつくった。

プロイセン国王ヴィルヘルム1世から宰相に任命されたビスマルクは、国家統一は演説や多数決で解決されるのではなく、鉄と血で解決されると主張した。
つまりは、ドイツ統一のために軍事行動をとることを宣言したのである。

ビスマルクは、オーストリアを排除して、プロイセンを中心とする統一ドイツの成立を目指した。

オーストリアは多民族国家であったので、統一ドイツに含めると混乱が起きると考えたからだ。

しかもオーストリアはこのところ、戦争に負け続けていた。

ビスマルクはドイツ統一に動き出した。
デンマークと戦い、シュレースヴィヒ=ホレーシュタインを奪った。
ここには85万人のドイツ人が住んでいた。
ビスマルクはこの地はドイツであると主張した。

ただ、ビスマルクは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインを奪うのに、オーストリアと協力してデンマークと戦った。
そのため、シュレースヴィヒ=ホルシュタインはオーストリアとの共同統治になった。

シュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って、プロイセンとオーストリアが戦争を始めた。
プロイセンがオーストリアを圧倒し勝利した。
ビスマルクは、さらにほかのドイツ系国家をまとめあげ、ドイツ統一に向けて進んだ。

世論の流れもつくった。 
隣国フランスを利用した。
国民のなかに反フランス感情を高め、ドイツ統一への意識を強めた。

ビスマルクは、普仏戦争を始めた。
ドイツは戦闘で勝利を重ね、圧倒的に有利に戦争を進めた。
フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の宣言を行った。

ヴィルヘルム1世が皇帝に即位した。
ドイツの統一は達成した。

ドイツは反フランス政策を進めた。
オーストリアと同盟を結んだ。
その後、イタリアとの同盟を結び、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟を成立させた。

ヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。
野心的な皇帝であった。
ビスマルクと次第に対立していった。
ビスマルクは1890年に解任された。

ヴィルヘルム2世は対外政策を積極的に進めた。
そのひとつが3B政策である。
ベルリン、ビザンティウム、バクダッドの3都市を鉄道で結ぶ政策だ。
イギリスはこれに反応した。

イギリスは、カイロ、カルカッタ、ケープタウンの3都市を拠点として結ぶ3C政策を進めていた。
イギリスは、ドイツの進める3B政策を自国にとって邪魔な存在と考えた。

ロシアも反応した。
ロシアは不凍港を求めて、バルカン半島への進出を考えていた。
3B政策は邪魔な存在であった。

フランスとの関係も悪化した。
ヴィルヘルム2世はフランスが多くの権益を持っていたモロッコを襲撃した。
これにより、フランスと対立関係を深めた。

イギリス、ロシア、フランスはそれぞれドイツとの対立を深めた。
3か国はドイツに対抗するため、三国協商を結んだ。
三国同盟と三国協商という明確な対立の構図が生まれた。

ただし、イタリアはこのときフランスと近づいていた。
三国同盟は崩壊していて、実質的にはドイツとオーストリアとの同盟であった。

オーストリアの皇太子夫妻は1914年、ボスニアを訪問した。
夫妻はボスニアで暗殺された。
サラエボ事件である。
第一次世界大戦が始まった。

ドイツは、イギリス、ロシア、フランス、日本など多くの国々と戦った。
オーストリアは戦いへの士気が低かった。
ドイツは同盟国が役に立たないため苦戦した。

ドイツは無差別に船を攻撃した。
攻撃した船にアメリカ人が乗っていた。
これがきっかけとなり、アメリカが参戦した。
ドイツは第一次世界大戦に敗北した。

講和条約ヴェルサイユ条約が結ばれた。
ドイツは領土の13%、人口の10%を失った。
徴兵も禁止された。
現在の価値でおよそ200兆円という途方もない莫大な賠償金が課された。
ドイツ社会は混乱した。

シュトレーゼマンがドイツ首相に就いた。
戦時中の借金を返済するため、大量の貨幣を流通させた。
国内はインフレとなった。

フランスとベルギーは賠償金を支払わないドイツに対して、報復として工業地帯ルール地方を占領した。
ドイツ政府はルール地方の労働者に、働くふりをしろと指示した。
給料は払うが、生産物は生まれないという状況になった。
貨幣価値がさらに下がった。

アメリカがドイツ経済を援助した。
ドイツの状況は少しづつ良くなった。

アメリカのウォール街で株価の大暴落が起きた。
世界恐慌が始まった。
回復してきたドイツ経済は再び落ち込んだ。
ヒトラーが登場し、民衆は彼を支持した。

ヒトラーは首相となった。
ナチスによる一党独裁政治が始まった。
ヒトラーは、ドイツ経済を回復させるため、高速道路やクルマの製造を推進し、雇用を増やした。
ドイツ経済は徐々に回復した。

ヒトラーはドイツ民族以外を排斥していった。
ユダヤ人を迫害した。

ナチスの目標はヴェルサイユ体制を崩すことであった。
ヴェルサイユ条約により軍の増強は制限がかけられていたが、軍を増強した。
オーストリアやズデーテン地方を併合した。

ポーランドに対して、ドイツ人が90%が占めているかつてのドイツ領ダンチヒの返還と、ドイツの飛び地である東プロシアとのアウトバーンと鉄道の建設を要求した。

ポーランドとしては交渉の余地のある妥協できる要求といえた。
しかし、アメリカのルーズベルト政権はポーランドに対して、ナチスと妥協しないよう強硬に圧力をかけた。
さらに、イギリスとフランスはポーランドの独立を保障していた。
ポーランドはこの保証をバックに、ナチスの要求を受け入れなかった。

ポーランドは旧ドイツ領内のドイツ系住民の虐殺を始めた。
これは、ヒトラーに自国民保護の大義名分を与えることになった。
ドイツは1939年、ポーランドに侵攻した。
イギリスとフランスにとっては、思惑どおりといってよいだろう。
両国はドイツに宣戦布告した。
第二次世界大戦が始まった。

地球上の広い範囲で、イギリス、フランス、アメリカを中心とする連合国と、ドイツ、イタリア、日本を中心とする枢軸国との戦いが展開された。
ドイツは、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。
オランダとベルギーを占領した。
フランスに進攻し、パリを陥落させた。
ギリシアとユーゴスラビアを占領した。
イギリスと戦うも、イギリスには勝てなかった。

ソ連と戦うが、85万人の兵を失って敗北した。
同盟国イタリアは連合国に降伏した。
ドイツは力を弱めていった。

連合国はノルマンディー上陸作戦を決行した。
2か月の戦いののち、ドイツ軍は敗北した。
パリは解放された。
ヒトラーは自殺した。
第二次世界大戦が終結した。

敗戦国ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領された。
新たなドイツは自由主義でいくか、社会主義でいくか模索されたが、合意にはいたらなかった。
アメリカ、イギリス、フランスが支配する西ドイツと、ソ連が支配する東ドイツに分裂した。
東ドイツ内にあるベルリンも、西ベルリンと東ベルリンに分割された。

西ドイツはアメリカの援助などで徐々に経済が回復した。
東ドイツはソ連向け製品を生産させられた。経済は悪化した。
東西ドイツで経済格差が開いた。
東ベルリン住民のなかには、西ベルリンに逃げていく人が増えた。
東ドイツは西ベルリン全周を壁で囲い、監視を強めた。
東ドイツ政府は壁を乗り越え西側に入っていく住民を射殺した。

キューバ危機が起きた。
第三次世界大戦の勃発寸前までいった。
戦争は回避された。
冷戦状態も徐々に緩和されていった。

西ドイツでブラントが1969年、首相に就いた。
ドイツの東西対立が解消に向かった。
ソ連との関係改善を図った。
ポーランドに謝罪した。
東側の国々とも関係を改善した。
ブラントはその後、ノーベル平和賞を受賞した。

東ドイツで1989年、大規模な抗議デモが起こった。
東ドイツ政府が出国の自由を認めるような、あいまいな発言をした。
ベルリンの壁に多くの国民が集まった。
東ドイツ国民の手で、ベルリンの壁が壊された。
アメリカとソ連の代表が会談し、冷戦の終結が決まった。

東西に分裂していたドイツは統一されることになった。
東西ドイツには経済格差があった。
大量の住民が経済力の低い東から経済力の高い西に移動した。

メルケルが女性初首相として2005年に就任した。
メルケルが引退する2018年には、統一直後にあった不穏な空気はほとんど解消された。

Posted on 2024-01-01 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

ロシアの歴史

紀元前1世紀、現在の東ヨーロッパにロシア人の祖先が住んでいた。
ウクライナ人、セルビア人、ブルガリア人なども住んでいた。
彼らを総称してスラブ系民族という。

7世紀頃、ゲルマン人が北方から来ると、彼らは東、西、南に移り住んでいった。
いまのロシアの地に移り住んだ人たちは、土地をめぐって戦いを繰り広げた。

9世紀、リューリクがノヴゴロド地方をまとめた。
10世紀、ウラジーミル1世がキエフ大公の地位に就いた。
東ローマ皇帝バシレイオス2世は反乱鎮圧のため985年、ウラジーミル1世に助けを求めた。
ウラジーミル1世の妹とバシレイオス2世は結婚した。
キエフ公国と東ローマ帝国は親族関係となり、両国の関係は強くなった。

キエフ公国は、周辺スラブ系の国々から税金を徴収した。
東ローマ帝国や東フランク王国とも接触を持った。
ロシア地域の中心的な国となった。

東ローマ帝国との関係が強くなったことで、キリスト教が東ローマ帝国からキエフ公国に入っていった。
キエフ公国のキリスト教化が進んだ。
東ローマ帝国のキリスト教はギリシア正教であった。
キエフ公国もギリシア正教が広まった。

ヤロスラフが11世紀、大公の地位に就いた。
キエフ公国を発展させた。
ヤロスラフが亡くなると国内で内紛が起き、キエフ公国は衰退していった。

チンギスハンが13世紀はじめ、モンゴルを統一した。
モンゴル帝国が成立した。
モンゴル帝国はロシアまで侵入してきた。
モンゴル軍は、キエフ公国の首都キエフを占領した。

モンゴル帝国は13世紀後半、分裂した。
ロシア地域にキプチャクハン国が成立した。
キプチャクハン国は、キエフ公国や周辺の国から税金を徴取した。
モンゴルによる強制的支配はおよそ200年間続いた。
これを、ロシアではタタールのくびきと呼ぶ。
タタールとは、モンゴル族の一派である。
中国や日本では韃靼人と呼ぶ。
タルタルソースのタルタルもタタールのことである。

キエフ公国はモンゴルによる支配が決め手となり、事実上崩壊した。
キエフ公国に支配されていた周辺の小国は、キエフ公国の支配から脱して自立した。

ウラジーミル大公国がロシア地域の支配を始めた。
隣国ノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフキーは、ノヴフゴロド公でありながら、ウラジーミル大公にもなった。
スウェーデン、ドイツ騎士団など西方から攻めてくる勢力とは徹底的に戦い勝利した。
アレクサンドルはのちにロシア人から讃えられた。
アレクサンドルが亡くなると、ウラジーミル大公国の力は弱まった。

ウラジーミル大公国に代わってモスクワ公国が台頭した。
周辺諸国との争いに勝ち、大公国となった。
長年にわたってロシア地域を支配していたキプチャクハン国と戦い勝利した。
しかし、キプチャクハン国から完全に独立することはできなかった。
その後100年間、キプチャクハン国の支配は続いた。

対外的にはキプチャクハン国に支配され、国内では権力争いが起きた。
国は混乱してきた。
しかし15世紀、イワン3世が大公に就くと、モスクワ大公国は勢力を伸ばした。
イワン3世は周辺国家を併合して、領土を拡大させた。
東ローマ皇帝の姪と結婚した。
モスクは第三のローマと呼ばれた。
イワン3世はロシアの君主という意味で、自身をツァーリと名乗った。
モンゴルと戦い、モンゴルによるロシア支配を終わらせた。

イワン3世が亡くなると16世紀、孫であるイワン4世がツァーリの称号を正式に採用した。
イワン4世は自分に反対するものを潰していった。
周囲をイエスマンで固めた。

強引な政治を行ったので、人々から雷帝と呼ばれた。
東方へ領土を拡大して、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国を領土に組み入れた。
さらにシビル・ハン国も手に入れた。
シビルはシベリアの語源である。
イワン4世の治世のあいだ、ロシアは多民族国家となった。

イワン4世の死後、ロシアは大飢饉に見舞われた。
農民は暴動を起こした。
ポーランドの策略で、ツァーリの座が奪われた。
ツァーリの権威は堕ちていった。
ロシア各地の有力者はモスクワ大公国から独立していった。

スウェーデン人やポーランド人は、弱くなったモスクワ大公国を侵略した。
外からは攻められ、国内は統一感が失われ、ロシア人は危機感を覚えた。
結束しなければならないと考えた。

1613年、各地の有力者が集まり、全国会議が開かれた。
この会議で、ミハエル・ロマノフが新しいツァーリに選ばれた。
ロマノフ朝が始まった。首都はモスクワに定めた。

会議法典が作成された。
この法典で、農民は領主へ税金を払う義務を負った。
もし税金を逃れるため農地から逃げ出せば、死ぬまで追われた。
死ぬまで領主に支配され、移動の自由がない農民を農奴と呼ぶ。
農奴を基礎とする社会と農奴制と呼び、ロマノフ朝は農奴制を敷いた。

しかし、多くの農民は農地から逃げ出した。
ステンカラージンは逃げ出した農民をまとめあげ、大規模反乱を起こした。
政府は反乱を鎮圧した。
ステンカラージンは処刑された。
のちに、ステンカラージンは政府に反旗を翻した人物として語り継がれることになった。

ロマノフ朝は反乱を鎮め、国家としてのまとまりをもつようになった。
本格的に東に領土を広げ始めた。
その目的は、外敵を減らすこと、岩塩を得ることにあったが、おもな目的は黒貂の毛皮を得ることであった。
黒貂の毛皮は高く売れるため、ロシアは大きな利益を得ることができた。

東へ伸びたロシア領土は、清王朝とぶつかった。
ロシアと清は国境を決めるため、1689年にネルチンスク条約を結んだ。
スタノヴォイ山脈とアルグン川を国境と定めた。

ロマノフが亡くなると、ロシアを大国へと導く皇帝が現れた。
ピョートル1世である。
9歳で即位した。
幼いため、姉が実権を握った。
そのあいだ、彼は学問に励んだ。
1694年、実権を掌握した。

ピョートル1世はロシアを発展させるには、他国に学ぶ必要があると考え、使節団を派遣した。
自らも身分を隠してイギリスとオランダに赴き、大学を見学したり、工場で実際に働いた。
自ら先頭に立ってヨーロッパ文化や技術の摂取に務めた。

ピョートル1世はロシアの発展には、世界各地への貿易ルーツを持つ必要がると考えた。
ピョートル1世はバルト海に目を付けた。
バルト海はスウェーデンが支配していた。
スウェーデンに戦争を仕掛けた。
スウェーデンと20年あまりにわたる北方戦争を戦って、バルト海沿岸を手に入れた。

戦争のあいだ、首都をモスクワからバルト海に近いサンクトペテルブルクに遷した。
ロシアはバルト海の覇権を握った。

ピョートル1世の死後、即位したツァーリは何代にもわたって有能ではなかった。
1762年、エカチェリーナ2世がツァーリに即位すると、ロシアは再び力を持ち始めた。

エカチェリーナ2世はクリミア半島を奪おうと考えた。
それまでロシアは冬になると海が凍ってしまい、海を使って外へ行くことができなかった。
冬でも凍らない黒海のクリミア半島を奪い、地中海に出るルートを確保しようとした。

クリミア半島はオスマン帝国が領有していた。
エカチェリーナ2世はオスマン帝国に攻撃を開始した。
露土戦争である。
戦争は2度にわたって行われた。
ロシアは戦争に勝って、クリミア半島を領有した。
現在のウクライナのほとんどは、このときロシア領となった。

次に、エカチェリーナ2世はポーランドを狙った。
ポーランドの内政に干渉し始めた。
ポーランドは反発した。
ロシアは軍を進攻させた。
1772年、エカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアに声をかけ、サンクトペテルブルクで会議を開いて、ポーランドの領土分割を決めた。
第一次ポーランド分割である。
分割はあわせて3回行われた。
第三次ポーランド分割が終わったとき、ポーランドは地図から消えた。




アレクサンドル1世が即位した。
フランスではナポレオンが台頭した。
ナポレオンは西ヨーロッパを席捲した。
アウステルリッツ三帝会戦でオーストリア、プロイセンと組んで、ナポイントと戦ったが敗北した。
アレクサンドル1世はフランスに協力することを約束した。

ナポレオンはイギリスを弱らせるために大陸封鎖令を出した。
ナポレオンはイギリスと大陸諸国の貿易を禁じた。
ロシアはイギリス製品の輸入ができなくなり困った。
ナポレオンに隠れて、イギリスとの交易を始めた。
ナポレオンはこの約束違反を知ると激怒した。
ロシア攻撃を決めた。

ナポレオンはモスクワ周辺でロシア軍と戦い勝利を収めた。
ナポレオン軍はモスクワを越えてさらに北へ侵攻した。
ナポレオン軍は厳しい寒さに苦しみ、食料が不足した。
多くの兵が脱走した。
ロシアはナポレオン軍にゲリラ攻撃を仕掛けた。
ナポレオン軍は苦しんだ。
ロシアはナポレオン軍を破った。

ナポレオンはこの敗北がきっかけとなり、力を弱めた。
アレクサンドル1世はナポレオンを退位させて、エルバ島に流した。
ナポレオンはその後復活した。
しかし、アレクサンドル1世はヨーロッパ諸国と協力して、ナポレオンを完全に倒した。
ナポレオンを破ったアレクサンドル1世は、ヨーロッパにおける発言力を高めた。

ナポレオンなきあとのヨーロッパ世界には、自由と平等を求める勢力が生まれ、革命の時代になった。
その流れはロシアにも及んだ。
当時のロシアはツァーリを頂点とする専制政治だった。
それに不満を持つ勢力が革命の準備を進めた。

アレクサンドル1世が急死した。
後継者は決まらなかった。
政治的空白が生まれた。
革命を起こしたい勢力は、これを好機と捉えた。
反乱を起こした。
しかし、反乱は統制が取れずに行動がもたついた。

ニコライ1世が即位した。
ニコライ1世は革命勢力を鎮圧した。
この反乱をデカブリストの乱と呼ぶ。

ニコライ1世は自分に従う貴族を官僚に取り立てた。
革命を望む人たちを取り締まった。
経済面では、綿織物、砂糖、穀物の生産が伸びた。
輸出して大きな利益を得た。

さらなる貿易拡大のためには、地中海の物流拠点が必要だった。
地中海に出るには、アナトリア半島を領有しているオスマン帝国が邪魔であった。
ニコライ1世は、オスマン帝国とエジプトとの戦争に介入して、地中海に出る海峡の通行権を得ようとした。
しかし、他国の介入で実現できなかった。

フランスナでは、ナポレオン3世が即位した。
ナポレオン3世の支持基盤はカトリック教会であった。
ナポレオン3世は聖地エルサレムの管理権を得ようとした。
当時、エルサレムの管理権はオスマン帝国が持っていた。
ナポレオン3世はエルサレムの管理権をカトリック教会に移すことをオスマン帝国に要求し認めさせた。

ロシアはギリシア正教の国であった。
ニコライ1世はギリシア正教を代表する立場から、ギリシア正教徒の保護を名目に、オスマン帝国に軍事進攻を行った。
ニコライ1世の真の目的は、オスマン帝国を打倒し、地中海ルートを確保することにあった。

イギリスとフランスは、ロシアが地中海ルートを持つと圧倒的な力を持つと懸念した。
両国はオスマン帝国とともに、ロシアを攻撃した。
ここにクリミア戦争が始まった。
ロシアは35万人の犠牲者を出して大敗した。

クリミア戦争に負けたロシアは、国力を強くするため、近代化を進めた。
当時のロシアは農奴制だった。
農奴には移動の自由がないため、工場で働く労働者を確保することができなかった。
アレクサンドル2世は農奴解放を進めた。
貴族たちは農奴解放に反対した。
アレクサンドル2世と貴族たちは長い期間話し合った。
1861年、アレクサンドル2世は農奴解放令を発した。
土地に縛られていた農民が工場で働けるようになった。
イギリスの産業革命からおよそ100年がたっていた。

ロシアはアジアへ進出するため、1891年、シベリア鉄道の建設を本格化させた。
ロシア経済は次第に大きく発展した。
一方、労働者の労働環境は悪かった。

社会主義の思想がロシアに入って来た。
資本主義社会で苦しむ労働者を救うため、社会主義の考えを支持する人が増えた。
革命を唱えるウラジミール・レーニンが支持者を集めた。

ロシアは東に勢力を伸ばし、満州を占領した。
朝鮮半島にも触手を伸ばした。
日本は危機感を持った。
ロシアは日本も植民地にするつもりではないかと考えた。
ロシアにこれ以上進出させないため、ロシアに対して宣戦布告した。
日露戦争が始まった。
ロシアはシベリア鉄道を使い物資を東方へ送ることができたため、初戦はロシアが優位であった。
しかし次第に日本が優勢となった。
アメリカの斡旋で両国は講和会議に臨み、ロシアは敗北した。

ロシア国内は戦争中、社会主義運動が盛り上がった。
ツァーリによる専制体制でなく、新しい体制での政治を求める声も出た。
労働者の代表は嘆願書を携え、ペテルブルクの宮殿に向かった。
ツァーリは約束の時間になっても現れなかった。
労働者たちは不満を募らせた。
警備兵との衝突が始まった。
警備兵は発砲し、数百人の労働者死傷した。
これが血の日曜日事件である。

この事件以降、労働者は各地で大規模なストライキを起こした。
革命を求めた。
ストライキを指導した組織はソヴィエトと呼ばれた。
政府を脅かすほどの大きな勢力と持った。

ニコライ2世は国会を開設すると発表した。
国会議員選挙が行われたものの、不平等な選挙であった。
憲法が発布されたが、ツァーリの専制体制は維持された。
政府と民衆は対立し、ロシア社会は混乱した。

ヨーロッパでは、ドイツがヴィルヘルム2世のもと躍進してきた。
ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んだ。
一方、ロシア、イギリス、フランスは三国協商を成立させた。
三国同盟と三国協商の対立が先鋭化した。

1914年、セルビアのサラエボでオーストリアの皇位継承者が殺害された。
オーストリアはセルビアに宣戦布告した。
ロシアはスラブ人国家のセルビアを助けるため、オーストリアとの戦いに参加した。
オーストリアはドイツを頼ったため、ドイツが戦いに参加した。
ロシアの同盟国イギリスとフランスも参加した。
ヨーロッパは一気に大規模な戦争状態になった。

ニコライ2世は国をあげて戦う姿勢を示した。
労働者は工場に戻り仕事に従事した。
ロシアは初戦は優勢だった。
しかし、ドイツが戦いに本格的に参加すると戦況は悪化した。
ドイツとのタンネンベルクの戦いでは大敗を喫した。
ドイツはロシア領内へ攻め入った。
ロシア国民は急激に食料事情が悪化した。

生活が苦しくなった人たちは、首都ペトログラードで、パンを寄越せと叫びながらデモを起こした。
こうして始まったのが二月革命である。

ペトログラードの市民は、戦争中であるにもかかわらず、大規模ストライキを起こした。
新聞も発行されず、電車も動かなかった。
戦争反対、専制政府打倒のスローガンを掲げて、農民、労働者、兵士などがソヴィエトを組織した。

ニコライ2世はデモが大きくなったため、国会を解散し、自身も皇帝から降りた。
これによりロマノフ朝は終わった。

臨時政府が樹立した。
一方、ソヴィエトの勢力も大きかった。
臨時政府とソヴィエトのふたつの勢力が並立した。
二重権力の状態となった。

臨時政府は、イギリスやフランスと協力して勝利するまで戦いを続けるべきだと主張した。
一方、ソヴィエトは戦争は早期終結すべきだと主張した。
臨時政府とソヴィエトの主張が平行線をたどるなか、レーニンが現れた。

レーニンは亡命先からロシアに帰国した。
四月テーゼを発表した。
臨時政府を打倒し、ソヴィエトが全権力を持つべきとの基本方針を出した。
ソヴィエトは臨時政府を倒す準備を進めた。

臨時政府はソヴィエトを攻撃した。
レーニンの支持者は臨時政府を反撃した。
臨時政府の代表は逃亡した。
ソヴィエトが政権を担った。
レーニンは1918年、社会主義ソヴィエト共和国を宣言した。
これを十月革命という。
レーニンは賠償金を支払うことを約束し、第一次大戦から離脱した。
ロシアの支配下であったウクライナ、ラトビア、ベラルーシとともに1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦を成立させた。 

レーニンは体調を崩した。
後任者としてスターリンがソ連の書記長に就任した。
スターリンは独裁政治を展開した。
反対する者を殺害し恐怖政治を行った。

1922年、アメリカで世界恐慌が起こった。
ドイツでヒトラーが政権を掌握した。
1939年、ドイツはポーランドに侵攻した。
イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。
第二次世界大戦が始まった。

戦争が始まっても、ソ連は戦争に直接参加しなかった。
ドイツは1941年、ソ連に侵攻した。
ソ連は本格的に戦争に参加した。
ドイツ軍は優勢に戦いを進めた。
モスクワなどの重要都市を攻めた。

劣勢だったソ連は、レニングラードやスターリングラードでの戦いでドイツ軍を撃退した。
フランスではノルマンディー上陸作戦が、イギリスやアメリカを中心に決行された。
ドイツは大きな打撃を受けた。
ソ連、アメリカ、イギリスはドイツの首都ベルリンを攻めた。
ソ連軍がベルリンを占領した。
ドイツは降伏した。
第二次世界大戦が終わり、ソ連は戦勝国となった。

第二次世界大戦が終わると、ソ連とアメリカとの冷戦の時代へとなった。
ソ連は東ヨーロッパとの関係を深めた。
ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどで、親ソ連政権を誕生させた。
これらの国は共産党による独裁体制を敷いた。

アメリカはイギリス、フランス、西ドイツに対して経済援助を行った。
これらの国では経済が復興していった。
東側諸国は諸国同士で協力して経済復興に取り組んだ。
しかしどの国も経済が発展していなかったため、強力しても復興にはつながらなかった。

スターリンは1953年に亡くなった。
フルシチョフが後継者となった。
スターリンの独裁的手法を批判し、集団指導体制を敷いた。

キューバで革命が起こり、社会主義国家が誕生した。
フルシチョフはキューバのリーダーを援助した。
アメリカに近いキューバに、極秘にミサイル基地の建設を進めた。
ケネディ大統領はこれを知り、ソ連とアメリカとの政治的対立はピークに達した。

核戦争が起こる寸前までいった。
フルシチョフとケネディは話し合いを重ねた。
フルシチョフはキューバからミサイルを引き上げた。
核戦争の危機はとりあえず去った。

ブレジネフが第一書記となった。
ソ連とアメリカとの対立関係は緩和に向かった。

ゴルバチョフが書記長に就任した。
1989年、アメリカのブッシュ大統領とマルタ島で会談を行った。
ふたりは冷戦の終了を確認した。
ソ連とアメリカとの関係は、新しい時代に入った。

ソ連の強い影響下にあった東ヨーロッパ諸国の人々が、民主化を求めて活動を起こした。
ハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアなどが民主化した。
これらの国々は自由経済を導入していった。 

エリツィンは改革を進めようと考えた。
現体制を維持したいゴルバチョフと対立した。

ウズベキスタン、ウクライナ、カザフスタンが1991年にソ連から独立した。
ソ連邦の存在意義が失われていった。
エリツィンはゴルバチョフを辞任に追いやった。
エリツィンはソ連を消滅させた。
エリツィンを初代大統領とするロシア連邦が誕生した。

エリツィンは経済の自由化に力を入れた。
イギリス、フランス、アメリカからもモノやサービスが入って来た。
しかし70年間、社会主義のもとで暮らしていた国民は、自由経済にうまく対応できなかった。

プーチンが1999年、大統領に就任した。
2008年に一度、大統領を退任し首相となった。
2012年、再び大統領に就任した。
プーチンは2014年、クリミア半島を併合した。
国民投票が2020年行われ、プーチンは2036年まで続投することが可能となった。
2022年、ウクライナに軍を派遣した。
2023年現在も、戦争が継続している。




Posted on 2023-12-27 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

フランスの歴史

紀元前、いまのフランスの地にはケルト人が住んでいた。
紀元前1世紀、ヨーロッパで覇権を握っていたローマ帝国がフランスの地を侵攻した。
武力に勝るローマ人はケルト人を支配した。

4世紀、ローマ帝国は東西に分裂した。
西ローマ帝国がフランスの地を支配した。

北方に住んでいたゲルマン人が、西ヨーロッパに流れ込んできた。
ゲルマン人は西ローマ帝国の領土に入り込んだ。
次第に力をつけていった。

ゲルマン人は、巨大帝国、西ローマ帝国を滅ぼした。
西ヨーロッパの地に、新たな国家をいくつも建国した。
そのひとつフランクが王国である。
フランク王国は、西ヨーロッパの大部分を支配した。
かつての西ローマ帝国のような存在となった。

フランク王国は大きくなり過ぎた。
西、東、中部の3つに分裂した。
西フランク王国は現在のフランス、東フランク王国は現在のドイツ、中部フランク王国は現在のイタリアの原型となった。

当時の西フランク王国は、国王の力は弱く、貴族の力は強かった。
そのなかでもアンジュー伯の力は大きかった。
領土を拡大させ、西フランク王国の西半分を支配した。
12世紀、アンジュー伯アンリはイングランド国王として即位した。
ヘンリー2世である。
フランスにおけるアンジュー伯の領土はイングランドの領土となった。
イングランド全土とフランス西半分、そして名目上ではあるがアイルランド全土を支配した。
その広大な領土から、アンジュー帝国と呼ばれた。

フランス王はフランス西半分がイングランド領土になったことを快く思わなかった。当然である。
フランス内のイングランド領土をめぐり、何世代にもわたる争いが起きることになった。

フランス国王フィリップ2世は、イングランド領土となっていたフランス西半分をほとんど取り返すことができた。
巨大な力と領土を持っていたアンジュー帝国は崩壊した。

その後、フランス王家が断絶した。
新たな王家が誕生しようとした。
それに対して、イングランド王は王位継承を主張した。
イングランド王はフランス王家の血筋を持っていたからである。
フランス王家は反対した。

イングランド王はフランスに軍事進攻を行った。
百年戦争の始まりである。
百年戦争は1339年に始まり、1453年まで続いた。
この戦争はふたつのフェーズに分けられる。

ひとつ目のフェーズは、フランスのフィリップ6世とジャン2世、イングランドのエドワード3世とエドワード黒太子との激戦である。
両者は激しい戦いを続けたが、ペスト蔓延のため戦いは一時中断となる。
フランスはペストにより人口の3分の1が亡くなったといわれる。
フランスもイングランドも荒廃し、戦える状態ではなくなった。
フランスでは農民反乱ジャックリーの乱が起きた。

第2フェーズは、15世紀、イングランドのフランス侵攻再開である。
フランス王シャルル6世とイングランド王ヘンリ5世が戦いの主役であった。
戦いはイングランドの圧倒的優位で進んだ。
ヘンリ5世の息子はフランス王に即位した。
イングランド軍はフランスの重要都市オルレアンを包囲した。
イングランドはフランス全土を支配する寸前までいった。
イングランドの勝利は目前であった。

しかし、ジャンヌダルクの出現により、形勢は逆転した。
神からの啓示でフランス軍を指揮した。
イングランド軍に包囲されているオルレアンを突破した。
フランスは勢いづいた。
イングランド軍はフランスから撤退した。
百年戦争はフランスの勝利で終結した。




16世紀、ドイツを中心に宗教改革が起きた。
カルバンはスイスで新たな教えを説いた。
カルバンの教えはフランスでかなり広まった。
カルバンの教えを信じるフランス人はユグノーと呼ばれた。

カトリック教会は、どんどん増えるユグノーを見過ごせなくなった。
ユグノーとカトリック教会との緊張が高まった。
ユグノー戦争が始まった。
国王は戦争をやめさせようとするがうまくいかない。
戦争はどんどん加熱していった。

数万人のユグノーが虐殺された。
フランス国内は混乱と不安が渦巻いた。
この状況をアンリ4世は打開した。
アンリ4世は自身がユグノーであった。
しかしカトリックに改宗した。
ナント王令を出し、ユグノーの信仰を認めた。
カトリックもユグノーもアンリ4世を支持した。
アンリ4世はユグノー戦争を終わらせた。

17世紀、ルイ14世が即位した。
絶対王政が始まった。
王が絶対的権力を持ち、中央集権的な政治を進めた。

18世紀、絶対王政を崩壊される事件が起きた。
フランス革命である。
当時、フランスはいくつもの戦争に参加していた。
戦費が重なった。
ルイ16世は税金制度を改革しようとした。
平民を交えた三部会を開いた。
しかし決議方法は平民に圧倒的不利であった。
平民は武力による行動を取った。
こうしてフランス革命が始まった。

ルイ16世と王妃マリーアントワネットは宮殿を抜け出し、オーストリアへ亡命しようとした。
途中、民衆が王と王妃を捉えた。
フランス国民は国を捨てようとした王と王妃に反感を募らせた。
隣国オーストリアやプロイセンは、フランスが革命が成功すると、自国でも革命が起きるかもしれないので、革命を成功させないようフランスに攻め込み、革命軍と戦った。
ルイ16世はオーストリアに協力しているのではないかという噂が飛び交った。
フランス国民は国王に失望した。
国王への襲撃を開始した。
ルイ16世とマリーアントワネットを拘束し、1793年、公開で処刑した。
フランスは王政が終わり、共和制へとなった。

ルイ16世が処刑された知らせは、ヨーロッパ各国に広がった。
自国が共和制になること望まないイギリス、オーストリア、プロイセンなどは同盟を結び、フランスを攻撃した。
フランスは窮地に陥りそうになった。
フランス国民は強力なリーダーを求めた。
ロベスピエールが現れた。
ロベスピエールは恐怖で人々をまとめようとした。
ロベスピエールの考えに危機感を持った人たちがクーデターを起こした。
クーデターは成功した。
ロベスピエールはギロチンの露と消えた。

イギリス、プロイセンなどはフランスに侵攻した。
フランスは複数の権力者を立てて、権力の集中が起こらないような取り組みもなされたが、うまくいかなかった。
フランス国内は混乱した。
フランスは崩壊してしまうのではないかという風潮が漂った。

このピンチを救うカリスマが頭角を現した。
ナポレオンである。
ナポレオンはクーデターで政府を倒し、新たな政府を立ち上げた。
国民はナポレオンを支持した。
ナポレオンは皇帝となった。

周辺の国々はナポレオンを脅威と感じた。
同盟を結び、フランスを攻撃した。
軍事の天才ナポレオンは、ほとんどの戦いに勝利した。
フランスは領土を拡大し続けた。
西ヨーロッパのほとんどを支配した。

転機が訪れた。
ナポレオンは40万の軍を率いロシアと戦うも、ロシアに敗れた。
この敗戦をきっかけに力を弱めた。
同盟軍との戦いであるライプツィヒの戦いで敗れた。
ナポレオンの栄華は終わった。

同盟国はウィーン会議を開き、ヨーロッパの体制をフランス革命以前に戻すことを決めた。
フランスは王政が復活した。
王政に反対するフランス人は革命を起こした。
王政を廃止した。
ナポレオンの甥、ナポレオン3世は国民の支持を集め、フランスの実権を握った。
ナポレオン3世はナポレオン同様、軍事戦略に優れていた。
対外戦争で功績を収め、フランスのヨーロッパにおける地位を確かなものにした。

しかし1870年、フランスはプロイセンとの戦いに敗北した。
ナポレオン3世は捕虜となった。
フランス政府は崩壊した。
プロイセンはドイツ語圏を統合したドイツ帝国の成立を、あえてフランスのベルサイユ宮殿で挙行した。
フランスに対する侮辱であった。
フランスとドイツとの対立は決定的となった。
この対立は第一次世界大戦へとつながる。

オーストリアの皇位継承者が1914年、殺害された。
第一次世界大戦が始まった。
ドイツに報復する機会をうかがっていたフランスは参戦した。

イギリス、フランス、ロシアの連合国とドイツ、オーストリア、イタリアの同盟国との間での戦いとなった。
これまでとは比較にならない大規模な戦争であった。

フランスはドイツとの戦いで奮闘し、ドイツの進撃を食い止めた。
アメリカが参戦した。
連合軍の勝利となった。

戦争が終わり、国際的には一時的な平和が訪れた。
世界恐慌が起きた。
不況が世界を覆った。
フランスやイギリスは海外に植民地を大量に持っていたので、自国と植民地で貿易することで、経済困難を乗り切った。
ドイツなど植民地を多く持たない国は、世界恐慌のダメージを直接受けた。
ドイツ人は政府の無力に失望した。
力のあるリーダーを求めた。
ヒトラーが登場した。
ドイツ国民はヒトラーを支持した。
ドイツは1939年、ポーランドに侵攻した。
第二次世界大戦が始まった。 
1940年、フランスに軍事進攻を行った。
瞬く間にフランス内部まで攻め込んだ。
ドイツはフランス領土の大部分を占領した。
残ったフランス領土には、親ドイツのヴィシー政権を成立させた。
これにより、フランス全土がドイツの支配下となった。

ドイツの支配に抵抗したフランス人がいた。ドゴール将軍である。
ドゴールは、フランスがドイツに占領されると、イギリスに亡命した。
ロンドンで、亡命政権、自由フランスを立ち上げた。
イギリスとアメリカを中心にした連合軍が1944年、ノルマンディーから上陸した。
連合軍はドイツ軍が展開するノルマンディー地域に大量の軍を投入した。
連合軍はフランス内部まで進撃した。
同年8月、パリをドイツから奪い返した。
ドゴールの設立した自由フランスは、フランスの正式政府と認められた。
フランスはドイツから政権を奪い返した。
第二次世界大戦は1945年、連合軍の勝利で終結した。

戦後、フランス国内は植民地問題や国内の政治的問題で対立が起き不安定であった。
フランスはEUの前身的組織の設立に指導的役割を果たした。
現在、ヨーロッパで大きな力を持っている。




Posted on 2023-12-23 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

イスラエル歴史

4000年前、ユダヤ人の祖先が中東のウルという地域に住んでいた。
ウルにアブラハムという男がいた。
ある日、アブラハムは「カナンへ行け」という神の声を聞いた。
カナンとはパレスチナである。
アブラハムはウルに住むユダヤ人をともないカナンへ向かった。
アブラハムたちはカナンの地で新しい生活を始めた。

紀元前17世紀、パレスチナに移り住んだユダヤ人は大飢饉に見舞われた。
パレスチナに住むことをあきらめ、エジプトに移住することを決意した。
エジプトでユダヤ人は都市建設などのために、奴隷として働かされた。
エジプト王はユダヤ人をおよそ400年間にわたって、奴隷として扱った。
ユダヤ人のなかにモーセが現れた。
モーセは奴隷となっていたユダヤ人をともないエジプトを脱出した。

紀元前1000年頃、ユダヤ人はパレスチナの地にイスラエルという王国を建設した。
王国は南北に分裂した。
北の国家は隣国アッシリアに滅ぼされた。
南の国家は新バビロニアに戦争で負けた。
大量のユダヤ人がバビロンに捕虜として連行された。
これをバビロン捕囚と呼ぶ。

ユダヤ人を連れ去った新バビロニアが滅んだ。
ユダヤ人はパレスチナに戻った。
パレスチナはその後、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ローマ帝国に次々に支配されていった。
ユダヤ人は数百年間、外国人によって支配された。

支配され続けたユダヤ人は、次第にこう考えるようになった。
「我々はこんなに苦しんでいる。でも神はどうして助けてくれないのだろう。それはきっと、我々が神から与えられた決まりをきちんと守っていないからだ」
ユダヤ人は神との約束=律法を厳密に解釈して、厳しい決まりのもとで生活をしていくようになった。

ユダヤ教徒にイエスがいた。
イエスは、当時の厳格な律法にもとづくユダヤ教の教えに異論を唱えた。
イエスは律法にこだわらず、神を信じ、神の愛を信じることが大切だと説いた。
ユダヤ教の指導者たちはイエスの考えが邪魔であった。
指導者たちはイエスを神を冒涜した罪で訴えた。
イエスは磔の刑に処された。
このできごとによって、キリスト教徒はユダヤ人のことを、キリストを殺した民族として恨むようになる。

パレスチナはローマ帝国によって支配されていた。
ユダヤ人は西暦66年と132年、ローマに反乱を起こした。
ローマ帝国はユダヤ人の反乱を鎮圧した。
ユダヤ人は奴隷として売られた。
ユダヤ人は帝国内や中東各地へちりぢりになった。
ディアスポラの始まりだ。
その後イスラエルの建国までおよそ1800年間、ユダヤ人は迫害と放浪の生活を送る。




アラビア半島での話である。
610年、アラビア半島でムハンマドはアッラーの神の啓示を受けて、イスラム教を起こした。
イスラム教は拡大し、中東地域はほとんどイスラム教の勢力下となった。
パレスチナもイスラム勢力によって占領された。
パレスチナのなかにあるエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となった。
ユダヤ教にとっては、かつてシンボルとなる神殿があった場所。
キリスト教にとっては、イエスが十字架に架けられ処刑された場所。
イスラム教にとっては、ムハンマドが天に昇ったとされる場所。

11世紀、キリスト教とイスラム教は聖地エルサレムをめぐって衝突した。
キリスト教国家である東ローマ帝国がエルサレムを占領していたが、イスラム勢力がエルサレムを奪った。
東ローマ皇帝はローマ教皇に助けを求めた。
ローマ教皇は聖地エルサレムを異教徒から奪還するため、軍隊を派遣した。
十字軍である。
聖地奪還に成功した。
しかし、再度異教徒にエルサレムを奪われた。
その後、教皇は繰り返し十字軍を派遣するが、二度をエルサレムを取り返すことはできなかった。
この間、キリスト教社会ではイスラム教とともに、ユダヤ教をも排除しようとする
反ユダヤ思想が広まった。
ユダヤ人はゲットーに隔離されり処刑されたりした。
職業も制限された。
キリスト教社会では卑しい職業とされた金融業に従事した。
当時、キリスト教徒は金融業の重要さを認識していなかった。
金融業を営んだユダヤ人はその後、膨大な富と強大な力を手に入れた。
ヨーロッパは大航海時代を経て大きく発展した。
1789年、フランスで革命が起こった。
民衆側が王と王妃を処刑した。
革命後、人権宣言が出された。
信教の自由が認められた。
ユダヤ人も職業の自由が認められた。
人権宣言の思想はヨーロッパに広がった。
ユダヤ人はこれで差別されることはなくだろうと考えた。
ヨーロッパの社会に同化しようと努力した。

イギリスで産業革命が起こった。
産業発展のために大量の資金が必要となった。
金融業を営んでいたユダヤ人は大きな富を得た。
そのひとつにロスチャイルド家がある。
ユダヤ人は大学にも行けるようになった。
多くのユダヤ人は努力を重ね、社会における重要な地位を得た。
そのことが人々の妬みを生み、新たな反ユダヤ思想が広がった。

1894年、フランスでドレフュス事件が起こった。
フランス陸軍参謀本部大尉のユダヤ人ドレフュスがスパイ容疑で逮捕、島流しの刑となった。
反ユダヤ主義の人たちが仕組んだ冤罪であった。
ユダヤ人はこのことから、人権宣言があっても自分たちは差別からは逃げられないと悟った。
差別を受けないようにするには、自分たちの国家を作るしかないと考えた。
ユダヤ人のふるさとであるパレスチナの地に、ユダヤ人によるユダヤ人のための国家を建設をしようとする運動が起こった。
シオニズム運動である。

20世紀に入ると、ユダヤ人は本格的にパレスチナに入植していった。
しかし、パレスチナにはイスラム教徒のアラブ人が住んでいた。
ユダヤ人とアラブ人との対立が始まった。
第一次世界大戦が始まった。
イギリスは戦いを有利に進めるため、パレスチナをめぐり、狡猾な外交を展開する。
パレスチナに国家を作りたいユダヤ人には、イギリスに協力してくれたら国家建設に協力すると約束した。
アラブ人にはイギリスに協力してくれたら、アラブ人の国家建設に協力すると約束した。
さらにフランスとロシアには、パレスチナを共同で統治しようと提案した。
三枚舌外交である。
この約束にもとづき、ユダヤ人もアラブ人もパレスチナは自分の領土であることを根拠を持って主張できた。
第一次世界大戦が終わると、イギリスはパレスチナを管理した。
管理のもと、ユダヤ人はパレスチナに入植することが認められた。
世界中のユダヤ人はパレスチナの土地を買っていった。
ユダヤ人による国家づくりは着々と進んだ。
アラブ人は反発した。
ユダヤ人とアラブ人の対立が先鋭化した。

ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を握った。
ヒトラー政権はユダヤ人を劣等民族として迫害した。
大量のユダヤ人はパレスチナへ逃げた。
迫害から逃れるため、ユダヤ人国家をつくろうとする気持ちはさらに高まった。

第二次世界大戦が終結した。
世界の人々は、戦争の期間、ユダヤ人が大量に虐殺されたことを知った。
国際世論は、ユダヤ人にユダヤ人の国家をつくってあげるべきだと意識が生まれ広まった。
当時のアメリカにはユダヤ人が、およそ450万人住んでいた。
社会的に高い地位のユダヤ人も多かった。
アメリカはユダヤ人国家の建設に前向きに取り組んだ。
1947年、国連はパレスチナ分割案を出した。
この分割案は、ユダヤ人はパレスチナの56.5%を獲得した。
アラブ人からすると、56.5%の土地を失った。
翌48年、ユダヤ人指導者ベングリオンは、イスラエル国家の建国を宣言した。
アメリカのトルーマン大統領はイスラエルを国家として承認した。

アラブ人はイスラエル国家を受け入れなかった。
1948年、アラブ人とユダヤ人との間に戦争が始まった。
第一次中東戦争である。
イスラエル周辺のアラブ系国家、エジプト、シリア、レバノン、トランスヨルダン、イラクも参戦した。
建国間もないイスラエルは軍備が十分に整っておらず、アラブ系国家の総攻撃に耐えられなかった。
イギリスが介入し、1か月の停戦となった。
その間、世界中からユダヤ系軍人がイスラエルに集まり、イスラエルは強大な軍事力を持った。
停戦が終了した。
イスラエルは戦いを巻き返した。
第一次中東戦争はイスラエルの勝利となった。
イスラエルは領土をさらに広げた。

イギリスは、エジプトにあるスエズ運河を管理していた。
エジプトのナセル大統領はスエズ運河を国有化すると宣言した。
イギリスはフランスとイスラエルと連携し、エジプトを攻撃した。
1956年の第二次中東戦争である。
戦いはエジプトの敗北に終わった。
国際世論は、イギリスの侵攻は侵略戦争であると非難し、イギリス軍は撤退した。

その後、国連軍はパレスチナ地域を監視した。
ソ連はイスラエルを倒し、中東での影響力を高めようとした。
ソ連は、イスラエルが戦争を始めようとしているという情報をエジプトに流した。
それはフェイク情報であった。
ナセル大統領はその情報を信じた。
イスラエルにとって重要な海峡を封鎖した。
イスラエルはこれに反発し、1967年にエジプトを攻撃した。
第三次中東戦争だ。
イスラエルは奇襲攻撃を成功させた。
たった6日間でエジプト軍を壊滅させた。
戦争は、イスラエルの完全な勝利で終わった。
イスラエルはシナイ半島や東エルサレムを手に入れた。
領土を4倍に広げた。

ナセル大統領が心臓麻痺で亡くなった。
サダト大統領が就任した。
イスラエルに領土を返還するよう交渉した。
イスラエルは拒否した。
エジプトを領土を取り返すため、シリアに協力を要請した。
1973年、エジプトとシリアは、イスラエルを挟み撃ちした。
第4次中東戦争である。
挟み撃ち作戦は成功した。
イスラエルを追い込んだ。
イスラエルが反撃に転じた。
エジプトは追い込まれた。
アメリカは仲介に入った。
エジプトとイスラエルで停戦協定が結ばれた。

サダト大統領は戦争ではなく、交渉で領土を取り返そうとした。
イスラエルのベギン首相は領土返還に応じなかった。
アメリカのカーター大統領が仲介した。
カーター大統領の仲介のもと、エジプトとイスラエルは以下のことに合意した。
・エジプトはイスラエルを国家として認める
・イスラエルはシナイ半島をエジプトに変換する
・パレスチナはガザ地区とヨルダン川西岸の自治権を持つ

もともとパレスチナ全土が領土であったパレスチナ人にとっては、一部地域の行政自治権が認められただけで不満あった。

1987年、イスラエル軍のトラックがガザ地区で交通事故を起こし、4人のパレスチナ人が亡くなった。
これに怒った18歳のパレスチナ人青年は、イスラエル軍に石を投げつけた。
イスラエル軍は発砲し、青年を殺害した。
これがきっかけでパレスチナ人の青年や子供たちは、イスラエル軍に石を投げつけて抗議した。
この抗議運動をインティファーダと呼ぶ。
イスラエル軍は石を投げる子どもや若者たちを殴ったり拘束しようとした。
丸腰の子どもや若者を殴る映像が世界が流れた。
国際世論はパレスチナに同情的になった。
パレスチナ解放を目指すパレスチナ人の武装組織(パレスチナ解放機構)議長であるアラファトは国連で「我々はイスラエルの生存を認め、いかなるテロ行為も放棄する」と宣言した。
イスラエル首相ラビンとアラファトは、ノルウェーのオスロで合意した。
パレスチナ人はヨルダン川西岸やガザ地区で暫定自治が認められた。

イスラエル首相バラクはパレスチナとの和平に積極的に動いた。
バラクの和平案はイスラエル国内では批判された。
和平案は頓挫した。
和平反対派のシャロンが首相になった。
過激派武装組織ハマスはイスラエルに対してテロ行為を行った。
シャロンはハマスのテロリストをイスラエルに入れないように、ヨルダン川西岸地区にコンクリートの壁を建設した。
国際世論はイスラエルを非難した。
シャロンは国際世論を抑えるため、暫定自治区のガザ地区をパレスチナに返還することを発表した。
駐留していた軍隊を撤退させ、2005年、ガザ地区をパレスチナ自治政府に返還した。
これにより、イスラエルとパレスチナとの和平が進むとみられた。
しかし、パレスチナ人はガザ地区の返還を武力闘争の勝利と受け止めた。
武力闘争を行っていたハマスをさらに支持するようになった。
ハマスはガザ地区を統治した。
パレスチナ側はさらに戦闘的になった。
これに対して、イスラエルはテロリストの侵入を防ぐため、ガザ地区にも壁の建設を進めた。

ハマスは壁ができてテロリストをイスラエルに送り込めなくなったため、ロケットでイスラエルを攻撃するようになった。
イスラエルは2008年、ガザ地区に対して大規模な空爆を行った。
多くの女性や子どもが犠牲になった。
その後もイスラエルとハマスの間では戦闘が続いた。
2023年現在、戦争状態となっている。




Posted on 2023-12-21 | Category : コラム, 歴史の館 | | Comments Closed

イギリスの歴史 紀元前から21世紀まで

イギリスの歴史を書く。
イギリスは4つの国(イングランド、ウエールズ、スコットランド、北アイルランド)の同君連合体である。
ここで書くのは、主にイングランドの歴史である。

紀元前6世紀、大陸から来たケルト人が先住民を征服し、イングランドの地に住むようになった。
2000年ほど前、ローマ帝国が攻めてきて、沼地に砦を作った。
それをロンディニウムという。ロンドンの語源である。
ローマ帝国は島の4分の3ほどを支配した。
島の南部はローマ帝国の属州ブリタニアとなった。
一部のケルト人は島の北や西に逃げた。
のちに北のほうがスコットランド、西のほうがウェールズとなった。

西暦400年頃、ヨーロッパ大陸ではゲルマン民族が大移動を始めた。
ゲルマン民族は200年ほどかけて西ヨーロッパの各地に住み着いた。
西ヨーロッパが混乱してきたので、ローマ帝国はイギリスから撤退した。
ローマ帝国はゲルマン人が移動してきて各地に王国を建てたので、領土が半分ほどに小さくなった。
ゲルマン民族のうち、フランク人はフランク王国を作った。
フランク王国はのちに分裂して、いまのフランス、イタリア、ドイツになる。

ゲルマン民族のアングロ族とサクソン族がイギリスに来て、住んでいたブリトン人を追い出した。
アングロ族とサクソン族は同化しながら、7つの国を作った。
七王国である。
追い出されたブリトン人は島の南西部に集まり、独自の勢力を築いた。
いまのウェールズの地である。

スカンジナビア半島にいるゲルマン民族バイキングが活発に活動を始めた。
彼らは人口が増えてきたので、周辺の地域を略奪した。
バイキングの一派デーン人のクヌートは、イギリスを侵略して王朝を建てた。
デーン朝である。
クヌートはデンマークにいた兄が亡くなると、デンマーク王を兼ねた。
彼は周辺の北欧の国を攻めて領土を拡大した。
北海帝国である。

900年頃、バイキングの一派がフランス領土を荒らした。
フランス王は困り果て、イギリスにいたバイキングに領土を守ってくれるよう頼んだ。
フランス王はフランス領土の一部を与えてそこに住まわせた。
そこがノルマンディーである。
北から来た人という意味だ。
第二次世界大戦で連合国がドイツを攻めるために上陸したところである。

デーン朝のクヌートが亡くなると、国内は乱れ、再びアングロ・サクソン人の王朝ができた。
その最後の王にエドワード懺悔王がいた。
懺悔王はノルマンディーに住んでいた。
フランス語しか話せなかった。
子どもがいなかったので、後継王にノルマンディーのウィリアム征服王を指名した。
ウィリアム征服王はノルマンディーとイングランドの王を兼ねた。
ノルマン朝が始まった。
ウィリアムというのは英語で、フランス語ではギョームという。
フランス王からみると、自分の支配下にあるウィリアム征服王がイングランド王となったわけで、上下関係が複雑になった。

ノルマン朝では男子が生まれず、再びフランス人が王となった。
プランタジネット朝である。
フランスに領土をたくさん持った。
代々の王は戦いに明け暮れ、戦費調達のため重税を課した。
貴族らから反感を買った。
1215年ジョン王の治世、マグナカルタができた。
王の権限を制限することが明らかにされた。
王であったも法に従うというイングランドの伝統を生んだ。
のちの立憲君主制が発展する土台となった。

1300年頃までにウェールズはイングランドの統治下となった。
次期イングランド王がウェールズ公になる習慣ができた。これは、いまでも続いている。

アイルランドは1100年代からイングランドの支配下となった。
スコットランドはイングランドの干渉を受けながらも独立を保ち、フランスと友好関係を築いてイングランドを牽制していた。




この頃、イングランドは血縁関係が深いフランスと王位継承をめぐりしばしば争った。
フランスに跡継ぎ問題が起きると介入し百年戦争となった。
イングランドのエドワード黒太子が活躍した。
戦争はイングランドが勝つと思われたが、謎の少女ジャンヌダルクが突然現れ、反撃された。
イングランドは大陸に持っていた領土をほとんど失った。

百年戦争が終わると、イングランドでは次の王位継承をめぐり、ふたつの派閥が内戦を起こした。
バラ戦争である。
戦いののち、両陣営の男女が結婚して和解し終結した。
新しい王朝が始まった。
チューダー朝である。

国内でも王位継承をめぐりしばしば争った。
チューダー朝は王権を強化しようとした。
マグナカルタ以来の王権の制限は棚上げされた。
王への権力集中が進んだ。

2代目の王は離婚王ヘンリー8世であった。
離婚したかったが、カトリック教徒なので離婚できなかった。
王はカトリックを捨て、離婚できる新しいキリスト教を作った。
イギリス国教会である。
カトリックから分離したため、プロテスタントと呼ばれることもあるが、教義的にはカトリックと重なる部分が多かった。

離婚王から2代あとはメアリー女王であった。
メアリーは母親がカトリック信者だったので、イングランドの宗教をカトリックに戻した。
反対する300人を粛清した。
血塗られたメアリーと呼ばれた。

メアリーが亡くなると、エリザベス1世女王が即位した。
国の宗教をカトリックからイギリス国教へ戻した。
カトリックを信仰しているスペインと関係が悪くなり戦争が始まった。
スペイン無敵艦隊が攻めてきたが、イングランドが勝利した。
エリザベス1世は貴族や商人に特権を与え、強力な権力基盤を作った。
エリザベス1世は生涯独身を貫いた。
バージンクイーンと呼ばれた。
世継ぎがいなかったため、身内での醜い後継者争いは起きなかったが、チューダー朝は断絶した。

次の王はスコットランド出身ジェームズ1世だった。
スコットランドとイングランドは同君連合となった。
王は宗教を弾圧した。
一部の人は理想のキリスト教の国をつくろうと新天地アメリカに移住した。
彼らはヒルグリムファーザーズと呼ばれる。
アメリカにニューイングランドをつくった。

ジェームズ1世とその跡を継いだチャールズ1世は、高まった王の権力を背景に、議会の意向を無視して政治を行った。
議会はこれに対抗するため、ピューリタン派(宗教革命で新たに生まれたプロテスタント)を中心にまとまった。
国王派と対立して、内戦(清教徒革命)が起こった。
ピューリタン側が勝利し、国王チャールズ1世を処刑した。
王のいない共和制を敷いた。
ピューリタン派の軍人クロムウェルは護国卿となり軍事を握った。
クロムウェルは独裁者となり政治を進めた。

クロムウェルはカトリック教徒によるイングランド人への迫害を口実にアイルランドへ侵攻し、アイルランドを植民地とした。
以降200年のおよぶアイルランド支配は、アイルランド人の恨みを生むもととなった。

クロムウェルが急死すると共和国政権への求心力が保てなくなると、王を戴く政治が復活した。
清教徒革命の揺り戻しもあり、ピューリタンは弾圧されました。
議会はピューリタンとカトリック派を排除して、イギリス国教会を支持しようとした。
新国王チャールズ2世はカトリックを支持した。

次のジェームズ2世はカトリック教徒であった。
国王と議会は対立した。
議会は、ジェームズ2世を追放し、政治的野望の薄い王をオランダから呼んだ。
名誉革命である。
スチュワート朝が始まった。
新たな王は議会とのあいだで、王の権限が制限されていることを改めて確認した。
それを具体的に記した権利の章典を取り交わした。
以降、王が独断で権力を振ることはなくなった。

イングランドは内政や軍事が充実した。
フランスやスペインとの争いにも勝った。
世界中で様々な権益を手に入れた。
北方のスコットランドとは議会を統合した。
イングランドとスコットランドは、ひとつの主権国家となった。

イギリスなどヨーロッパの国々は、新大陸の原住民を働かせ、さとうきびやコーヒーを栽培して儲けた。
ヨーロッパ人は病気を新大陸に持ち込み、抗体のない原住民は大量に死んだ。
労働力が足りなくなったので、アフリカ黒人を奴隷としてアメリカに運んだ。

スチュワート朝最後の王、アン女王には跡継ぎがいなかった。
次の王はドイツから迎えた。神聖ローマ帝国のハノーバー選帝侯ゲオルクがジョージ1世としてイギリスの王となった。
ハノーバー朝が始まった。
王は54歳で即位した。
ドイツ生まれ、ドイツ育ちで英語が話せなかった。
イギリスの政治にも興味を示さなかった。
イギリスでは議会がさらに進展していった。
以降、内閣の首相が政治の責任者となった。
国王は政治の中枢から離れ、議会が政治の主導権を握った。
王権が弱まり、地主や富裕層の権利が保障された。
これは、産業の発展に大きな影響を与えた。
のちの産業革命につながった。

18世紀、産業革命が起こった。
工業生産力が爆発的に高まった。
財力、軍事力が他国を圧倒した。
イギリスはアメリカの一部、カナダ、オーストラリア、インドを植民地にした。

アメリカに高額な税金をかけた。
アメリカに住んでいる人はもともとはイギリスで暮らしていたので、故国の習慣であるお茶が大好きであった。
そのお茶に高額な税金をかけたからアメリカの人々は反発し、イギリスから独立した。

喫茶の習慣があるイギリスはチャイナから茶葉を買っていた。
一方、チャイナはイギリスから買うものはないとって輸入は行わなかった。
イギリスは貿易赤字が続いた。
イギリスは赤字を解消させるため、チャイナへアヘンを売ることを思いついた。
議会ではアヘンを売るのは人道上問題があるという意見も出たが、イギリスはアヘンを売った。
アヘンは中毒性があるので、チャイナはアヘンをイギリスから買い続けた。
チャイナはアヘンの輸入と吸引を禁止した。
イギリスは報復として武力で攻撃し戦争となった。
イギリスは戦争に勝ち、不平等条約を押し付け、香港を99年間租借した。

この頃、イギリスは日本とも戦争した。
江戸時代末、薩摩藩の武士が日本にいたイギリス人を切りつけた。
イギリスは報復として軍艦を鹿児島へ派遣し、薩摩藩と戦争になった。
イギリス艦隊は薩摩藩の砲台からの攻撃により大破、中破し、艦長ら指揮官も戦死するなど大きな被害が出た。
薩摩側は砲台などを破壊されたが、イギリス艦隊の艦砲射撃で民家や寺社などが攻撃され、軍事施設以外の被害が甚大であった。
戦闘が終わると薩摩とイギリス双方は講和に入った。
イギリスは薩摩側の交渉力を評価し、薩摩はイギリスの軍事力や文化を理解した。
以降、双方は友好な関係を築いた。

セルビアでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺されると、それが引き金となり武力衝突が起きた。
各国は軍事同盟を結んでいたため、双方が相手側に宣戦布告をして、戦争はヨーロッパだけでなく世界規模に拡大した。
第一次世界大戦である。
イギリスは100万人が戦死した。
戦争には勝ったが国力は落ちた。
力をつけたアメリカがカナダを占領しそうになった。
しかし、国力が弱くなったイギリスには、カナダを守る力はなかった。
カナダを独立させた。
アイルランドも北部を除き独立した。

第一次大戦が始まると、王朝が敵国ドイツの名称であるのはふさわしくないということなった。
その頃の宮殿の所在地にちなみ、王朝名をウィンザー朝と改めた。
現在まで続いている。

ドイツにヒトラーが台頭した。
ドイツと日本は、イギリスやアメリカをはじめ世界の国々を相手に戦った。
第二次世界大戦である。
ドイツはデンマークを4時間で降伏させた。
フランスを1か月で占領した。
ドイツはヨーロッパのほとんどを占領した。
イギリスに空襲を行った。上陸はできなかった。
日本は、アジアにおけるイギリス植民地を占領した。
連合軍はフランスのノルマンディーに上陸しドイツを攻めた。
ドイツは敗北した。
日本も降伏した。

イギリスは戦争に勝ったが、国力は疲弊した。
インド、アジア、アフリカの植民地はイギリスから独立した。
イギリスとフランスの間に海底トンネルが開通した。
EUが成立した。
人の移動が自由になると、大勢の外国人がイギリスに移民した。
移民がイギリス人の職を奪うなどの問題が出た。
イギリスはEUから脱退した。




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キリスト教の歴史

神ヤハウェは、自分の姿に似せて、人間をつくった。
その人間は、アダムとイブであった。
ヤハウェはアダムとイブに楽園エデンの管理を任せた。
楽園には絶対に食べてはいけない禁断の木の実がなっていた。
アダムとイブは蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べてしまった。
ヤハウェは怒り、ふたりを楽園から追放した。
アダムとイブが犯した罪は原罪と呼ばれた。
彼らの子孫である人類は、原罪を背負うこととなった。
人類は罪人というのが、ユダヤ教の思想のベースである。
アダムとイブの子孫である人間たちは地上で努力を重ねて繁栄していった。

人間たちは勢いづき、ヤハウェに背いたり、堕落した生活を行うようになった。
ヤハウェは人間を滅ぼすことにした。
大洪水を起こした。
人類は滅亡した。
生き残った人類がいた。
その中にアブラハムがいた。
ヤハウェは年老いたアブラハムにこう言った。
「イスラエルを与える。いまからすべてを捨てて向かうのです」
アブラハムたちはイスラエルを目指し旅だった。
ようやくイスラエルに着いた。
新しい生活を始めた。
アブラハムの子孫たちはそこに住み続けた。
あるとき大飢饉が起こった。

彼らは不毛の地イスラエルを捨て、エジプトに行くことを決意した。
エジプト王は彼らを奴隷として扱った。
400年間の長きにわたった。
そこにモーセが現れた。
モーセはヤハウェの力を授かっていた。
彼は奴隷となってた民を引き連れ、イスラエルの地を目指した。
何十年にもわたる苦難の旅であった。

モーセはヤハウェから、ふたつの石板に刻まれた十戒を授かった。
そこには神との十の約束が刻まれていた。
神の教えを守り、正しく生きるための指針であった。
約束は数百にも及び、それが十にまとめられていた。
神はヤハウェだけであることが記されていた。
神との約束は律法と呼ばれ、大事にされた。

モーセの子孫はイスラエルの地で十二の支族に分かれ、イスラエルを統治していった。
十二支族を統治するダビデ王が現れた。
その息子ソロモン王の時代に最盛期を迎えた。
十戒が刻まれた石板、ヤハウェから授かった杖、空から降ってくる食べ物マナが入った金の壺を収めた宝の箱をアークと呼ぶ。
ソロモン王はアークの中を見た。
石板はあったが、ほかのふたつはなかった。
その後、アークの行方は分からなくなった。

ソロモン王には多くの妻がいたが、そのなかに異国出身の女性がいた。
彼女はヤハウェ以外の神を信じていた。
ソロモン王はそれを許した。
ヤハウェは激怒した。
イスラエルの地を南北に分断した。
十支族による北イスラエル王国と、二支族による南ユダ王国に分かれた。
北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされた。
民は散り散りとなり、それぞれの土地で融合していった。
彼らはイスラエルの失われた十支族と呼ばれている。

一方、南ユダ王国は紀元前586年、バビロニア王国に滅ぼされた。
南ユダの民は、捕囚としてバビロニアへ連行された。
彼らは連行された地で、自分たちのアイデンティティを失わないことをヤハウェに誓った。
滅ぼされたユダ王国の遺民という意味から、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。

土地を失っても、律法を心のよりどころとして固く守り続けた。
宗教的・民族的アイデンティティを貫くために、移民族との交わりを拒んだ。
ユダヤ人は苦しいときを経て、ローマが支配するイスラエルに戻った。
しかしローマ帝国は多神教であった。
ヤハウェのみを神とするユダヤ人とローマとの間で争いが起こった。
何回かの争いのあと、ユダヤ人はイスラエルの土地を完全に失った。
135年ごろ、ユダヤ人は世界中へ離散していった。
いわゆるディアスポラである。

苦難が続くユダヤ人は、救世主メシアを待望するようになった。
救世主は永遠の王国イスラエルを築いてくれるはずだと願った。
そのときが来るまで律法を守り続けることを心に誓った。
救世主は世界の終末に現れると考えた。
そこから、人間が堕落したときにメシアが現れると信じるようになった。
当時の地中海の人々は、たくさんの神を信じる多神教であった。
そのなかで、ユダヤ人の一神教は異質だった。
ユダヤ人と他の人との対立は絶えなかった。




時間を少し戻す。
西暦0年イエスが生まれた。
十二人の弟子とともに教えを広め、民衆からの人気と支持を得ていた。
イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教の熱心な信徒であった。
古い考えに凝り固まっていた従来のユダヤ教に、異議を唱えた。
ユダヤ教の権力者はイエスを警戒した。

イエスの弟子ユダはイエスを裏切り、イエスは十字架に架けられ処刑された。
しかしイエスは復活した。
イエスこそ救世主だと人々は口にした。
こうしてキリスト教が生まれた。

キリスト教は、はじめはユダヤ教の派閥のひとつだと見做された。
イエスは偉大な予言者ではあるが、救世主ではないと考える人は、キリスト教徒にはならずユダヤ教徒のままであった。
キリスト教は、ペテロとパウロの活躍によって広まっていった。
ペテロとパウロは、イエスは原罪を背負って十字架に架けられた。そして神と新たな契約を結んでくれたと人々に語った。
イエスが十字架に架けられたことで、人類の原罪は消えた。
律法を守るユダヤ人だけが救われる契約内容から、ユダヤ人以外の異邦人でも罪を犯した人でも、イエスを通して祈れば、すべての人は救われると説いた。

ユダヤ教は圧倒的な選民思想と厳しい律法が特徴だった。
キリスト教は民族に関係なく全人類が救われると説いた。
しかし、キリスト教も一神教であることはユダヤ教と変わらなかった。
人々はイエスは神の子であり、唯一神ヤハウェと同じ存在だと考えた。

このときローマ帝国においては、皇帝は神同等の存在であった。
キリスト教徒は皇帝を敬うことができなかった。
皇帝はキリスト教徒を迫害した。
キリスト教は祈るものは誰でも救われるという、ハードルの低さが特色だった。  
各地に建てられた教会によって信者が増えていき、キリスト教徒は増えていった。

皇帝はキリスト教を迫害しても効果はあがらないと考えるようになった。
コンスタンティヌス1世はキリスト教を認めた。
キリスト教は帝国への影響力を増していった。
392年、ローマ帝国はキリスト教以外の宗教を禁止とした。

ローマ帝国の領土は広大だった。
キリスト教は各地域に建てた教会ごとに、信仰のスタイルや教えの解釈が違った。
教会同士のいさかいは絶えなかった。 

395年、ローマ帝国が東西に分裂した。
教会も東西に分かれた。
やがて東西で別々の教義を持つようになった。
東西の溝は深まっていった。
帝国の分裂から600年あまりの年月が流れた1054年、東西教会のトップが対立し、東方教会と西方教会とに決定的に分裂した。
東方教会は正教会、西方教会はカトリック教会と呼ばれる。
正教会とカトリック教会の決定的な違いは、神とイエスと精霊は本質的に同じ存在であるという三位一体説の解釈の違いであった。

正教会とカトリック教会は、組織のあり方も違っていた。
正教会はあらゆる人は宗教的奉仕者に過ぎないという考え方であり、組織には絶対的な存在を作らなかった。
カトリック教会は、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型組織を作った。
ローマ教皇はイエスの一番弟子であるペテロの正統な後継者と位置付けた。
神の国に入るための鍵を持ち、イエスの教えに対する解釈の最終的な決定権を持った。
教皇の考え次第で様々なルールを生み出すことが可能であった。
その一例が、16世紀に発行した免罪符である。

一部の信徒は反対し、勝手にルールを変える教会ではなく、聖書に書かれていることだけを信じると主張した。
彼らはプロテスタントと呼ばれた。
カトリックとプロテスタントはたびたび戦争を起こした。

正教会、カトリック、プロテスタントのキリスト教の3つの流れは現在まで続いている。




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大阪工業大学大学院 データサイエンス教育 地域の経営者らが受講 教育家庭新聞2021年7月発行号

087大阪工業大学
5科目の講義を土曜日に開講
「教育家庭新聞」(発行=教育家庭新聞社)2021年7月号に、わたくし蓬田が執筆した記事です。

大学の最新ICT活用を紹介する連載「ICTキャンパス」の87回目です。

大阪工業大学大学院に取材しました。

教育家庭新聞社サイト https://www.kknews.co.jp/
「教育家庭新聞」の購読申込みや、教育関連のニュースがご覧になれます。




Posted on 2021-07-13 | Category : コラム, 大学ICT | | Comments Closed