【春の歌】春霞 よみ人知らず

題知らず

春霞
立てるやいづこ
みよしのの
吉野の山に
雪は降りつつ

よみ人知らず

平安時代の風習や考え方は、いまのわれわれのとはだいぶ違うので、意味が取りにくい歌が多いが、この歌の意味は現代のわれわれでも素直に取れる。


春霞が立っているのは
どこであろうか
吉野の山では
いままだ雪が降っている

歌全体の意味はこんな感じだが、歌で使われているそれぞれの言葉の意味が、現代とはだいぶ違う。

まず「題知らず」という言葉だが、これは「お題があって詠った歌ではありません」という意味ではない。

「霞」だとか「雪」だとかの題にあわせて詠ったのではないということ。

「題知らず」とは、歌が詠まれた事情や背景がよく分からないという意味である。

次に「霞」だが、霞は、春の代表的な景物で、霞と聞けば、平安時代の人は頭のなかで春と結びつけることができた。

「吉野の山」は具体的な地名ではない。

はるか遠いところ、あるいは隠遁の地という意味だ。

これを知ってもう一度この歌を見ると、何が言いたいのか、何だかよく分からない歌に思えてくる。

しかもこの歌は古今集の三番目に置かれている。

ということは、とても重要な歌なのである。

なのにわたしはその重要さが分からない。このもどかしさをどうしよう。

一番目の歌も、二番目の歌も有名な歌だから、三番目のこの歌も当時は有名は歌だったのかもしれない。

いずれにしても、フィクションを詠んでいるのであろう。

フィクションというか想像の世界を詠んだのだろう。

和歌は一見写実的に見えても、想像の世界を詠っている。

歌人たちは見えていないものをあれこれと頭の中で想像し、言葉で表現していく。

言ってみれば、小説家なのである。

だからわれわれも和歌に接するときは、あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。

この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。

眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。

そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。

この歌については、いまはよく分からないので、今後の研究課題である。

こんなふうに、よく分からない歌があって、それをぼちぼちと調べていって、明らかにしていくのは楽しい。

古今和歌集について

「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。

醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。

ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。

撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。

その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。

古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。

その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。

世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。

世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。




Posted on 2024-04-05 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】春の着る 在原行平朝臣

題知らず

春の着る
霞の衣
ぬきをうすみ
山風にこそ
乱るべらなれ

在原行平朝臣

わたしはこの歌を初めて知ったとき、びっくりして次に何故かわからないが嬉しくなった。

それはひとまず置いておいて、まずは歌の意味を見ていこう。

春が着る
霞の衣は
横糸が薄いので
山風が吹くと
乱れ破けてしまいそうだ

お分かりだろうか。

春が霞を着ていると表現して、「春」を擬人化しているのである。

和歌に接するようになって、擬人化というテクニックがあるのを知った。

歌人たちは花とか木とか、いろいろなものを人に見立てて詠ってきたけれど、「春」という季節を人に見立てた歌は、わたしにとってこれが初めてであった。

歌人たちの想像力の豊かさに、はじめびっくりして、そのあと、なんでもかんでも擬人化して、この人たちもいい加減だなというか調子いいな、というふうに思えてきて、何だか可笑しくなってしまった。

同時に親近感がわいた。

和歌というと高尚なものだと思っていたが、歌人たちはわたくしたちが想像するより、だいぶ気楽に楽しみながら詠んでいたのだろうと思えた。

自分の人生やキャリアがかかっている歌合せでは違うだろうけれどね。

歌はフィクションなのである。

フィクションとして詠んで、歌を聞いている人たちもフィクションであることを知ったうえで楽しんだ。

風が服を着るなんて、最高のフィクションである。

風は人なのだから、ご飯も食べるし、睡眠もとるし、考え事だってするのである。

この歌をきっかけにそう空想を膨らますと、普段、常識によって押さえつけられている思考のストッパーがはずされて気分がいい。

この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。

眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。

そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。

この歌は「古今和歌集」春歌上に収められている。

「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。

醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。

ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。

撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。

その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。

古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。

その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。

世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。

世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。




Posted on 2024-04-04 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】萌えいづる 僧都覚雅(かくが)

萌えいづる
草葉(くさば)のみかは
小笠原(をがさはら)
駒(こま)のけしきも
春めきにけり
僧都覚雅(かくが)

歌の意味は、

春めいたのは
萌えいづる
草葉のみではない
小笠原の牧の馬も
野に放たれて
すっかり春らしくなったことよ

となる。

小笠原とは、甲斐(山梨県)の国にある朝廷直轄の牧場。今の韮崎市にある。

山麓には広大な牧が広がっていた。

馬は冬の間、柵の中で繋がれ、春になると牧の野に放たれた。

それが春のしるしであった。

人々は春の題材として、「春駒」を詠んだ。

ここで育った馬は、毎年8月に朝廷へ献上された。

都の人々は、はるばる東国から牽かれてくる馬を、秋の風物詩としてめでた。

こちらも多くの歌に詠まれた。

ところで、わたしは千葉県船橋市に住んでいる。

船橋、松戸、習志野、成田など下総一帯は徳川時代、幕府直轄の牧場であった。

馬は野に放たれ飼育され、選り分けられて軍馬として幕府に送られた。

それなので、牧場と聞いて親近感を覚えた。

平安時代、下総にも朝廷直轄の牧場があったのかは、わたくしは知らない。調べてみるのは面白そうである。

この歌に戻るが、詠者の僧都覚雅(かくが)は実際に甲斐の国に来て、牧場に馬が放たれた光景をみたのか?

調べたわけではないが、どうもそうではないだろう。

土佐日記を書いた紀貫之は、

みやこまで
なづけてひくは
小笠原
逸見(へみ)の御牧の
駒にやあらん

と詠んだといわれ、現地には歌碑まであるが、

凡河内躬恒が

都まで
慣らして行くは
小笠原 
逸見の御牧の
駒にぞあるらん

という歌を詠んだとも言われる。

ふたりはほぼ同時代に生きた。

貫之のほうが6歳ほど年下で、20ほど躬恒より長生きしたから、貫之は躬恒の歌を下敷きに詠んだのかもしれない。

ふたりとも甲斐の国に来て詠んだのではあるまい。

覚雅は右大臣の息子であるので、こちらも都で詠んだのであろう。

歌はフィクションなのである。

フィクションとして詠んで、歌を聞いている人たちもフィクションであることを知ったうえで楽しんだ。

この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。

眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。

そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。

この歌は「詞花和歌集」に収められている。

「詞花和歌集」は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

歌集の撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間から和歌を選んで歌集を編んだ。




Posted on 2024-04-03 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】梅の花 右兵衛督公行(きんゆき)

梅の花をよめる

梅の花
にほひを道の
しるべにて
あるじもしらぬ
宿(やど)にきにけり
右兵衛督公行(きんゆき)

歌の意味は、

梅の花の
香りを道案内にして
主人が誰かも
知らない家に
いつの間にか来てしまった

となる。

和漢朗詠集に

遥かに人家を見て
花あればすなはち入る
貴賤と親疎とを論ぜず

とあるのを知り、手元の和漢朗詠集を紐解いたが、わたくしの探し方がよくないのか見つからなかった。

白楽天の歌である。

公行(きんゆき)は、白楽天のこの歌を下敷きに詠ったかどうかは分からないが、香りに誘われ、漂うその方向へふらふらと歩き続け、気が付けば知らない人の家の前に立っていたとは、素直な歌で気持ちはわかる。

でも本当にそんなことがあるのか?

白楽天も公行(きんゆき)も、実際はそういうことはしていないのだろう。

貴族が屋外で、匂いに誘われているとはいえ、ふらふらと歩きまわることは想像しにくい。

この歌はフィクションなのであろう。

フィクションとして詠んで、歌を聞いている人たちもフィクションであることを知ったうえで楽しんだのではあるまいか。

この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。

眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。

そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。

この歌は「詞花和歌集」に収められている。

「詞花和歌集」は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

歌集の撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間から和歌を選んで歌集を編んだ。




Posted on 2024-04-02 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】いかなれば 源季遠(すゑとほ)

贈左大臣(ぞうさだいじん)の家に歌合し侍りけるによめる

いかなれば
氷は解くる
春風に
結ぼゝるらむ
青柳の糸
卿匡源季遠(すゑとほ)

わたしはこの歌にユーモアを感じた。

歌の意味は、こんな感じだと思う。
「思う」と書いたのは、実は意味がはっきりとはつかめないのだ。

900年も前の人が詠んだ歌であるし、しかも詠んだ人は都にいる貴族であるから、わたくしとは時代も身分も違うし、当然考え方やセンスだって違う。

だから、歌の意味や詠んだ人の気持ちが100%分かるわけではない。

その一方で、時代は違えど、今使っている日本語と同じ日本語を、昔の人とはいえ日本人が詠んでいるのだから、いまのわたくしに分からないはずはない、という気持ちで古い歌を鑑賞している。

どうしてなのだろう
春風は
氷を解かすというのに
青柳の糸(枝)を
結んでしまうのは(芽が出ないのは)

歌の意味がもし違っていたら教えてください。

この歌のようなセンスを発揮する人って、わたくしの回りにもいる。

みんなと同じものを見ても、ちょっと違う角度からの意見を発言して、それが嫌味ではなくて、ユーモア感も漂わせることのできる愛嬌のある人。

歌を詠んだ源季遠(すゑとほ)もそんな人柄であったのだと想像する。

「糸」というは、この時代、柳の枝を糸に例えていた。

「春風が氷を解かす」という言い回しは、儒教の経典ともいうべき書物のひとつ「礼記」からの引用だ。

礼記にこうある。

孟春の月、東風氷を解く

実際に風が吹いて氷が解けるわけではないが、季節が暖かくなってきたこと、春が近づいたよろこびが感じられて、なかなかによい文学的表現である。

この歌は「詞花和歌集」に収められている。

「詞花和歌集」は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

歌集の撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間から和歌を選んで歌集を編んだ。




Posted on 2024-04-01 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】こほりゐし 大蔵卿匡房(まさふさ)

堀河院御時、百首歌たてまつり侍りけるに、春立つ心をよめる

こほりゐし 
志賀の唐崎(からさき)
うちとけて
さゞ波よする
春風ぞふく
大蔵卿匡房(まさふさ)たまさかに

歌の意味は、素直に読み取れる。

氷が張りつめていた
志賀の唐崎は
すっかり氷が解けて
さざ波を寄せる
春風が吹いている

匡房は詞書にあるように「春立つ心」(立春を迎えた気持ち)を詠んだ。

「志賀」は大津市。

「春風が氷を解かす」という言い回しは、儒教の経典ともいうべき書物のひとつ「礼記」からの引用。

礼記にこうある。

孟春の月、・・・東風氷を解く

「春風が氷を解かす」とは、実際には風が吹いて氷が解けるわけではないが、季節が暖かくなってきたこと、春が近づいたよろこびが感じられて、なかなかによい文学的表現である。

この歌は「詞花和歌集」所収、しかも歌集冒頭の歌である。

寒さを打ち破る春の歌から始めた編集センスに感心した。

「詞花和歌集」は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

歌集の撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間から和歌を選んで歌集を編んだ。




Posted on 2024-03-31 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】たまさかに 道命(だうみやう)法師

初めてうぐひすの声を聞きてよめる

たまさかに
わが待ちえたる
うぐひすの
初音(はつね)をあやな
人やきくらむ
道命(だうみやう)法師

「詞花和歌集」所収。

わたしはけさ5時ごろ、目を覚ますと鶯の鳴き声を聞いた。
もしかしたら鶯の鳴き声がわたしを目覚めさせたのかもしれない。
きょうは3月30日。ことし初めて聞く鶯の声だ。

歌の意味はなかなかに面白い。

待ちに待って
やっとのことで叶えられた
鶯の初音
ほかの人も
聞いているのだろうか
(ほかの人も
聞いているのは
何とも筋がとおらないことよ)

「たまさか」はやっとの意。
「あやな」は、待ちに待った自分と、鶯の声など関心のない者とが、初音を同時に聞いたのは筋が通らないという作者の気持ち。

作者の気持ちは分かるが、心が狭い気もする。
同時に、ユーモアも感じる。

こんな面白い歌が1000年も前に詠まれたとは、和歌というのは興味が尽きない。
いや、人というのは興味が尽きないというべきだ。

「詞花和歌集」の歌集は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間の和歌から選んで歌集を編んだ。

わたくしも鶯の声を今年初めて聞いた気持ちを詠んだ。

あけがたに
寝床のなかで
うぐひすの
初音の響き
われ目覚めさす




Posted on 2024-03-30 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の歌】吹きくれば 源時綱

梅ノ花遠ク薫ルといふことをよめる

吹きくれば
香をなつかしみ
梅(むめ)の花(はな)
ちらさぬほどの
春風もがな

源時綱(ときつな)

「詞花和歌集」に収められている。

この歌集は仁平元年(1151)、崇徳院の院宣により編纂された。

崇徳院は保元の乱に敗れ、讃岐に遷りになり、かの地で崩御された。

撰者は藤原顕輔である。彼は、950年ごろから詞花集編纂までのおよそ200年間の和歌から選んで歌集を編んだ。

勅撰集第一番目の古今集には、掛詞や縁語など技巧が凝らされた歌がたくさん入っているが、詞花集には素直な歌ぶりが増えている。

この歌もそんなに複雑なものではない。

理屈っぽい頭でっかちなところはあるかもしれないが、作者の気持ちは素直に伝わってくる。

歌の意味は、こんな感じだ。

風が吹いてくると
風が運んでくる
梅の香りが慕われる
(風は吹いてほしい
けれど風が吹くと梅が散ってしまう。だから)
花を散らさないほどの
春風が吹いたらよいのに

古今集にこんな歌がある。

霞たつ
春の山辺は
遠けれど
吹きくる風は
花の香ぞする
在原元方

わたしたちは春風に憧れる。

年が明けてしばらくたち、花が咲き始めるころ、冬の厳しい空気ではなくて、懐かしい空気が吹いてくる。

春風。

春風がからだに当たると、心が弾ける。




Posted on 2024-03-30 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【春の和歌】春風の 宇多天皇

歌合せさせたまひけるとき、花を

春風の
吹かぬ世にだに
あらませば
心のどかに
花は見てまし

宇多天皇御製

「万代集」に収められています。

春風が吹かない世でさえあったら
花は心のどかに見ただろうに

歌の意味はこんな感じです。

この歌、どこかで聞いた覚えありませんか。

在原業平が詠んだ歌にこんなのがありますね。

古今和歌集に収められています。こちらは有名ですね。

世の中に
たえて
桜のなかりせば
春の心は
のどけからまし

在原業平は宇多天皇よりも40年ほど前に生まれました。

宇多天皇は古い歌の趣旨や言い回しを引用して新しい歌を詠みました。




Posted on 2024-03-29 | Category : コラム, 和歌とともに | | Comments Closed

【愛国の歌】御民(みたみ)われ 海犬養宿禰岡麻呂(あまのいぬかいのすくねおかまろ)

御民(みたみ)われ
生ける験(しるし)あり
天地(あめつち)の
栄(さか)ゆるときに
遇(あ)へらく思へば

海犬養宿禰岡麻呂

作者の海犬養宿禰岡麻呂(あまのいぬかいのすくねおかまろ)という名前は、古代史や古代文学に関心ある人でも聞き覚えのないことであろう。

この歌は万葉集に採られている。
そこの詞書には「詔(みことのり)に応(こた)ふる歌」とある。
聖武天皇の詔に応えた歌である。

作者は聖武天皇に仕えていたと思うが、それ以外は一切分かっていない。

「御民われ生ける験あり」、この国の民として生まれてきた甲斐がある、という実感。

そして「天地の栄ゆるときに遇へらく思へば」、天地が栄えているときに生きていることへの感謝。

こう思えるよう、日々の精進に務めたい。




Posted on 2024-03-21 | Category : コラム, 和歌とともに, 日本の文化 日本のこころ | | Comments Closed