【悲しみの歌】血の涙 素性法師
前太政大臣(さきのおほきおほひまうちぎみ)を白川のあたりに送りける夜よめる
血の涙
落ちてぞだぎつ
白川は
君の世までの
名にこそありけれ
素性法師
古今和歌集、巻十六哀傷歌部に所収の歌。
詞書にある「前太政大臣」は藤原良房。
素性法師は白川の流れているあたり(京都市左京区)で、亡くなった藤原良房の野辺送りを行った。
歌の意味はこんな感じである。
血の涙が落ちて
真っ赤に染まった川の水が
わきかえっている
この川は白川というが
その名前はあなたが生きていた
ころまでの名前であった
「血の涙」は、激しい悲しみの涙。
「たぎつ」とは、激しく流れること。
あなたが亡くなり、わたしは悲しみのあまり血の涙が落ちてしまいます。
血の涙は、白い川と呼ばれる白川の水を赤く染め、川は激しくわき返っていますと、素性法師は詠った。
良房の死は悲しかったに違いないが、死を悼むにしては、表現がいささかオーバー過ぎる。
だが、そこがこの歌の魅力でもある。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【悲しみの歌】つひにゆく 在原業平
病して弱くなりにけるときよめる
つひにゆく
道とはかねて
聞きしかど
昨日今日とは
思はざりしを
業平朝臣
古今和歌集、巻十六哀傷歌部に所収の歌。
病気になりからだが弱ってきたときに詠んだ歌
最後には行く
道であると
前から聞いてはいたが
そのときがついに来たとは
思いもよらなかった
詞書にある「身まかる」は亡くなる。
「つひにゆく道」は死出の道。
「昨日今日」は差し迫ったとき。
ついに自分は死んでゆくのだという、悲しい歌であるが、同時に、「昨日今日とは思はざりけり」と言っているのが、わたしにはとぼけているように感じて、死ぬ間際になって冗談を言って自分を慰めているようで面白い。
この歌は「伊勢物語」の最終段に載っている。
誰の歌か忘れたが、同じように死ぬ間際にとぼけたことを詠っている歌があったような気がするが、何だっただろう。
面白き
こともなき世を
面白く
高杉晋作のこの歌を、わたしはいま思い起こしたが、この歌だろうか。
違うような気がするが、何の歌かいまは思い出せない。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【悲しみの歌】泣く涙 小野篁
いもうとの身まかりけりにける時よみける
泣く涙
雨と降らなむ
渡り川
水まさりなば
帰りくるがに
小野篁朝臣
古今和歌集、巻十六哀傷歌部に所収の歌。
わたしはこの歌をこんな風に現代語訳した。
妹が亡くなったときに詠んだ歌
泣いて流すわたしの涙
雨となって降っておくれ
三途の川の水嵩が増えれば
妹は渡れずに
こっちに帰ってこられるから
詞書にある「身まかる」は亡くなる。
雨との「と」は、雨となって。
「なむ」は、~してほしい。他者に対する願望を表す。
「渡り川」は三途の川。
「がに」は、理由を表す。
歌の説明は不要であろう。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】春霞 紀貫之
山の桜を見てよめる
春霞
なに隠すらむ
桜花
散るまをだに
見るべきものを
紀貫之
古今和歌集、春歌下に所収の歌。
ここでは作者を紀貫之としたが、伝本によっては清原深養父とする。
研究者のあいだでも結論は出ていないようだ。
※伝本
印刷技術が普及するまえの時代、本は人の手によって書き写され広まっていった。
つまりは、書き写した数だけ本が増えていった。
このようにしていまに伝わる本を「伝本」という。
人が書き写すので、写し間違いが出てくる。
あるいは故意に違うふうに書き写したかもしれない。
研究者は、信頼性の置ける複数の伝本を見比べながら、本来の古今和歌集の姿を追及している。
春霞はどうして
桜花を隠しているのだろう
せめて散るあいだだけでも
見ていたいのに
ここで詠われている気持ちは、いまのわたしたちには、ちょっと分かりにくいのではないだろうか。(わたしは最初よく分からなかった)
桜が散るのは悲しい。
それでも見たい。
でも霞はそれさえ許してくれないが如く、
桜を隠している。
詠われているのは、こんな気持ちである。
霞が桜を隠すという定番表現を用いながら、桜を隠している霞へ抗議しているのだ。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
四季の歌、恋の歌を中心に、平安朝初期からおよそ100年間の名歌1100首を、時間の経過や歌の照応関係に留意しながら、20巻に整然と配列する。
日本人の美意識を決定づけた和歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】色も香も 紀友則
桜の花のもとにて、年の老いぬることを嘆きてよめる
色も香も
おなじ昔に
さくらめど
年ふる人ぞ
あらたまりける
紀友則
古今和歌集、春歌上に所収の歌。
詞書にあるように、桜の花を前にして、年をとって老いてしまった心境を詠んでいる。
目の前の桜は
色も香りも
昔と同じに
咲いているのであろう
(その一方で)
桜を見ている年を取った自分は
すっかり変わってしまった
この歌は一読して、桜は昔と変わらないのに、自分は年を取って老けてしまった、と対比をを詠んでいることは分かると思う。
ただ、使われている言葉を細かく見ていくと、もっと味わいが深くなる。
「さくらめど」には、「桜」と「咲く」の両方を詠み込んでいる。
「らむ」は、目の前にある桜の色と香りは、むかしと同じであろう、と推量している気持ちをあらわす。
「あらたまる」は、新しくなるというのが一般的な意味だが、ここでは少し違う用法である。
この歌で紀友則は、劉希夷の漢詩、
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
の発想を下敷きにしている。
人が「あらたまる」とは、年老いる悲しみであると詠んだ。
「年ふる」の「ふる」は年老いるということだが、それが「あらたまる」=新しくなるという矛盾が、我々現代人にとって、この歌の鑑賞をややこしくしているが、この矛盾が歌を味わい深いものにしている。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】桜花 紀貫之
桜のごと、とく散るものはなし、と人のいひければよめる
桜花
とく散りぬとも
おもほえず
人の心ぞ
風も吹きあへぬ
紀貫之
古今和歌集、春歌下に所収の歌。
人の心は移ろいやすいことを詠む。
桜の花は
すぐに散ってしまうとは
思えない
人の心のほうが
風が行き過ぎる間もなく
変わってしまうのだから
「吹きあへぬ」の「あふ」は、~に耐えられるという意味。
「風も吹きあへぬ」で、風が吹くことができない、すなわち、それほどの短い時間で人の心は変わってしまうことを詠っている。
花と風を引き合いにだして、人の心の移ろいやすさを詠むセンスが秀逸である。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】思ふどち 素性
春の歌とてよめる
思ふどち
春の山辺に
うちむれて
そこともいはぬ
旅寝してしか
素性
古今和歌集、春歌下に所収の歌である。
「思ふどち」は、気のあった仲間。
「そこ」は、山のなかにある友達の別荘のような泊り先。
「てしか」は、したいものだ、という希望を表す。
歌の意味を確認しよう。
仲が良いもの同士
春の山辺に集まって
どこに泊まるか
あらかじめ決めない旅を
してみたいものだ
作者の素性は、大和国に住んだ法師。
生年は未詳。延喜九年(909)までは生存が確認されている。
和歌の名手で、宇多上皇に歌を献じたこともある。
勅撰集に、撰者以外でもっとも多くの歌が入集している。
この歌のように、気の合う友人同士で気ままな旅をしてみたい。
最高の贅沢である。
古今集などの古い歌は、言葉の言い回しや旅枕など、いまの私たちにはなじみのない表現や習慣が詠われていることが多くて、意味をとるのに苦労する歌も多いなか、この歌のようにダイレクトに共感できる歌に出会えるのも、古い歌を鑑賞する楽しみである。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】わがせこが 紀貫之
歌たてまつれとおほせられし時に、よみたてまつる
わがせこが
衣はるさめ
降るごとに
野辺の緑ぞ
色まさりける
紀貫之
古今和歌集、春歌上に所収の歌である。
いまのわたしたちにとっては、一読してこの歌の意味がすらすら分かる人は、よほど和歌に親しみを持っている人とか、言葉遊びが好きなひととかをのぞいていないと思う。
われわれにとっては少々複雑に感じられる歌なので、まずは、歌の意味をふたつに分解しながらみてみよう。
そのまえに、貫之はこの歌を女性の立場になって詠んだということを念頭に置いていただきたい。
ではひとつ目の歌の意味である。
わがせこが
衣はる
ここの部分である。
わたしは夫の服を
洗い張りしています
「洗い張り」というのは、和服の洗い方の方法で、生地を縫ってある糸をすべてほどいて反物にもどして洗い、そして乾かすことだ。
ふたつ目の意味は、ひとつ目の部分にある「はる」を重ねて使って、そのあとに続く部分である。
はるさめ
降るごとに
野辺の緑ぞ
色まさりける
意味はこのままである。
春雨が降るごとに
野辺の緑が
一段と色づく
この歌の鑑賞ポイントはいくつかあるが、最大ポイントは、上の句と下の句とで、場面(歌の意味)が急展開するとことであろう。
上の句では、妻が夫の服を洗って、天気のよい屋外で干しているという場面である。
下の句では、天気が一転して、春の雨が降り続き、緑が一層映えていると詠む。
歌を聞いた人は、「衣はる」という言葉から、洗濯物を干している天気のいい屋外を思い起こしたその直後、「はるさめ」という言葉が詠われ、雨の場面を頭の中に思い描く。
この急展開なダイナミズムが、「はる」という言葉を介して行われているのが、この歌の味わいどころである。
和歌はフィクション
わたしはいつも言っているが、和歌とはフィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。
フィクションというか、詠む人の想像の世界である。
和歌は一見写実的に見えたり、自分の心の中を表現しているように見えても、実は想像の世界を詠っている。
あるいは言葉の技巧を駆使して、歌を構成している。
この歌でも、貫之は夫の服を洗濯する人妻の姿を見ているわけではないし、春雨に映える植物を見ているわけでもない。
貫之の空想の世界である。
もちろん、空想の世界を詠うことは悪いことではない。
空想を詠うのはよくない、眼前にあるリアルな世界を詠うのがよい、という考え方が明治になってでてきた考え方だ。
明治の時代になると、世の中に欧米文化がどっと入り込んだ。
明治の人たちは欧米文化を取り込んでいくと、それまでの日本独自の感性や考え方は古くて変えていかないといけないと思うようになった。
和歌の世界でも、リアリズムが強調されるようになった。
リアリズムを詠うという姿勢は、いまの短歌づくりにも引き継がれている。
だからわたしたちはむかしの人もなんとなくリアリズムを詠っているように思ってしまうが、多くは空想を詠っている。
われわれは和歌に接するとき、真面目に構えすぎるきらいがある。
あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。
和歌独自の世界観を知り、そして和歌を楽しみ鑑賞する。
そんな心構えを忘れないようにしたいものである。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】ももちどり よみ人知らず
題しらず
ももちどり
さへづる春は
ものごとに
あらたまれども
われぞふりゆく
よみ人知らず
古今和歌集に所収の歌である。まずは、歌の意味をみてみよう。
たくさんの
鳥がさえずる春
もの皆あらたまるのに
わたしは
年老いてゆくばかり
「ももち」は百、たくさん、という意味。
春になりたくさんの鳥がさえずり、自然は新しい命が吹き込まれたようになったのに、わたしは年老いてゆくばかりだ、と自然と自分の老いとを対比させている。
万葉集の巻十にも同じような歌がある。
冬過ぎて
春し来たれば
年月は
新たなれども
人はふりゆく
古今集の作者はきっと、この万葉集の歌を踏まえて詠んだはずだ。
わたしの個人的印象だが、万葉集の歌はその詠みぶりから、素直に、年月は改まったけれど自分は年をとっていく、という感慨が詠われているように思う。
一方、古今集のほうは命が改まった自然と、歳をとっていくばかりの自分とを、技巧的に対比させて構成している印象だ。
みなさまはどう感じられただろうか。
「題知らず」について
詞書に「題知らず」とある。
これは、題がない(お題が与えられて詠んだのではない)ということとは違う。
詠われた事情や背景が不明である、ということだ。
和歌はフィクション
わたしはいつも言っているが、フィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。
フィクションというか、詠む人の想像の世界である。
和歌は一見写実的に見えたり、自分の心の中を表現しているように見えても、実は想像の世界を詠っている。
あるいは言葉の技巧を駆使して、歌を構成している。
もちろん、それはいけないことではない。
言葉を駆使しているからこそ、和歌は言葉の芸術なのだ。
われわれは和歌に接するとき、真面目に構えすぎるきらいがある。
あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。
和歌独自の世界観を知り、そして和歌を楽しみ鑑賞する。
そんな心構えを忘れないようにしたいものである。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。
【春の歌】春日野の 紀貫之
歌たてまつれと仰せられし時よみてたてまつれる
春日野の
若菜つみにや
白妙の
袖ふりはへて
人のゆくらむ
紀貫之
平安時代の和歌のなかには、現代に生きるわれわれも簡単に意味が取れる歌も多いが、困るのはこの歌のように、一見しただけでは何を言っているのか分からない歌も数多くあることだ。
ともかく、歌の意味をみてみよう。
春日野の
若菜を摘みに行くのだろうか
いかにもそれらしく
白い袖を振りながら
人々がゆくよ
とりあえず、ざっくりと現代語訳してみた。
われわれ現代人がこの歌を鑑賞するにあたって、問題となる点はいくつかあるが、まずは「ふりはえて」という言葉の意味だ。
すぐわかるのは、袖を「振る」の意味が含まれていることだ。
それともうひとつ、「ふりはふ」には「ことさら」、「わざわざ」という意味がある。
それから、歌にある「人」とはどういう人を指すのか。
「白妙の袖」とあるから、女性であろう。
女性が(ひとりか複数かは分からないが、恐らく複数であろう)白い袖をことさらのように振りながら若菜を摘みに出かけているのだろうか、という意味になるが、貫之は一体何を詠んでいるのだろうか。
わたしはこの解説文をここまで書いてきて、若菜摘みにゆく女性たちのうきうきとした気持ちを、貫之は詠んだのかもしれないと感じた。
解説文を書くまでは感じなかったことだ。
わたしは貫之の気持ちに一歩近づいたことになったのだろうか。
詞書に着目
詞書に「おほせられ」とある。
誰が「おほせられ」たのか。帝であろう。
帝が「歌を詠め」と仰せられで、詠んだのがこの歌。
なんかピンとこないのは私だけであろうか。
あるいは、屏風絵があって、その絵について歌を詠めと仰せられたのかもしれないが、不明である。
もしかしたら、歌に暗号が隠されているのではないかとも感じる。
紀貫之ほどの言葉の才能があれば、歌に暗号を隠し込めるなど朝飯前ではなかろうか。
春日野のイメージ
「春日野」という言葉は万葉集でも使われているが、そこでは季節は限定されていない。
しかし、万葉集の時代から150年~300年たった貫之の時代では、「春日野」は春のイメージに限定された。
まあ、これだけの時間がたてば、言葉が持つイメージも変わるのが自然であろう。
いまは令和6年だが、いまから150年前といえば幕末であり、300年前は徳川吉宗の時代である。
そのころの文章をわれわれ現代人がどれほど正確に読めるかというと、敗戦による文化の断絶は大きいが、それを勘案しても、言葉のもつ意味やニュアンスは変わっていくことは実感できる。
和歌はフィクション
フィクションを詠んだと考えると、わたし的には腑に落ちる。
フィクションというか想像の世界を詠んだのだろう。
和歌は一見写実的に見えても、想像の世界を詠っている。
歌人たちは見えていないものをあれこれと頭の中で想像し、言葉で表現していく。
言ってみれば、小説家なのである。
だからわれわれも和歌に接するときは、あんまり真面目に構えないで、空想してみるといい。
この歌に限らないが、和歌の世界では、実際の風景をリアルに詠うのはまれである。
眼前の風景とか、歌枕とか、そういうみんなと共有している世界をもとに、作者は空想の世界を描き出す。
そこが和歌の世界観であり、和歌を詠む楽しみ、和歌を鑑賞する楽しみである。
この歌については、いまはよく分からないので、今後の研究課題である。
こんなふうに、よく分からない歌があって、それをぼちぼちと調べていって、明らかにしていくのは楽しい。
古今和歌集について
「古今和歌集」は言わずと知れた勅撰第一歌集である。
醍醐天皇はときの有力歌人四名をお選びになり、勅命をくだして歌集編纂にあたらせた。
ただし、これら撰者たちは万葉集を勅撰第一歌集とみなしていた。
撰者たちは編纂を進め第一段階の歌集ができたとき、それを「続万葉集」と名付けていたことから分かる。
その後も編纂作業を進めて、延喜五年に完成させ、名称を「古今和歌集」とした。
古(いにしえ)と今(いま)の歌を集めたのである。
その後、古今集は我が国筆頭の歌集として、今に至るまで1000年以上にわたって、受け継がれてきたのである。
世界を見渡して、1000年以上前の書物を、これほど多くの国民がいまでも親しんでいる国はない。
世界に誇る我が国の文化遺産であり伝統である。