冬至の漢詩 「邯鄲冬至夜思家」 中唐 白居易


[text:蓬田修一]

[漢文]

邯鄲冬至夜思家  中唐 白居易

邯鄲駅裏逢冬至
抱膝燈前影伴身
想得家中夜深坐
還応説著遠行人

[書き下し]

邯鄲(かんたん)にて冬至(とうじ)の夜に家を思う  中唐 白居易

邯鄲(かんたん)の駅裏(えきり)冬至に逢う
膝(ひざ)を抱(いだ)いて燈前(とうぜん)影(かげ)身に伴(ともな)う
想(おも)得(え)たり家中(かちゅう)夜(よる)深(ふ)けて坐し
還(ま)た応(まさ)に遠行(えんこう)の人を説著(せっちゃく)するなるべきを

[現代語訳]

邯鄲にて冬至の夜に家を思う  中唐 白居易

邯鄲の宿場で冬至を迎えた
燈(ともしび)の前で膝を抱えて座ると 影が我が身に寄り添う
思いめぐらすのは故郷の家 夜になると家族そろって
遠く旅上にある自分のことを話していることだろう


 

Posted on 2014-12-22 | Category : コラム, 漢文のこころ | | Comments Closed

「盛り塩」の起源は性の欲望

[text:蓬田修一]

飲食店の入口付近には塩が盛られていることが多い。これは「盛り塩」と呼ばれるものだが、「お客さんがたくさん来るように」との店側の願いが込められている。

盛り塩の由来のひとつが、古代中国の房事に関わるものだ。今から1700年程前、西晋王朝、武帝の時代のことである。中国王朝の後宮には、皇帝の夜の相手をする宮女があまた控えていた。どれくらいの数なのか。以下、『愛と欲望の中国四〇〇年史』(金文学著)を参照しながら紹介してみる。

隋の煬帝(ようだい)が6万人、唐の玄宗が4万人、そのほかの歴代皇帝も数千人から1万人を置いていたというからすごい数である。秦の始皇帝は阿房宮という巨大な宮殿を建築した。始皇帝はここに数千名の婢妾(ひしょう=召使いの女性および愛人)を囲った。漢の武帝は色狂いで、後宮に3000人の美女を置いた。悲運のヒロイン王昭君はこの後宮にいた。

これだけの数の宮女がいるため、皇帝と一夜をともにできる人数は限られてくる。せっかく後宮に上がりながら皇帝と一度も愛を交わすことなく終わった宮女も数多くいただろう。だから彼女たちは皇帝が自分を選んでくれるように智恵を絞った。

西晋王朝・武帝の話に戻るが、この時代、皇帝は羊が引く車に乗って後宮を回り、たまたま羊が止まった宮女と夜を共にした。そこで、宮女たちは皇帝に選んでもらうために、羊の好物の真竹の葉に塩水をまぶして(挿竹灑塩 そうちくれいえん)、自分の部屋の前に置いて、羊が止まるようにしたという。この話は『晋書』「胡貴嬪伝」(巻三十一列伝第一)に記載されている。

しかしながら、皇帝が乗っていたのが牛車というなら、平安時代の貴人の乗り物であるのでまだ分かるが、羊車であるので、この節は信憑性が低いと言われている。日本では古来、塩を神道や仏教で使う風習があったので、ここから「盛り塩」の習慣が広まったのが穏当だと思われている。個人的には中国王朝の後宮の話のほうが好きなのだが。

(2014年12月21日)


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漢詩「新春」  南宋 真山民(しんさんみん)

南宋・真山民(しんさんみん)の漢詩「新春」

南宋・真山民(しんさんみん)の漢詩「新春」

[text:蓬田修一]

今年も残すところ半月ほど。年賀状の準備に忙しい人も多いだろう。高校の国語の教員をやっている大学時代の友人から届く年賀状には毎年、漢詩の一節が書いてある。新年から漢詩に接するのは、なかなか気分がいい。

南宋の真山民(しんさんみん)という人の詩に「新春」がある。詩の中の気に入った一節を年賀状に取り入れてみたら如何だろう。趣のある年賀状に仕上がるのではないだろうか。

[原文]

余凍雪纔乾

初晴日驟暄

人心新歳月

春意旧乾坤

煙碧柳回色

焼青草返魂

東風厚薄無

随例到衡門

[書き下し]

余凍(よとう) 雪(ゆき)纔(わず)かに乾(かわ)き

初晴(しょせい) 日(ひ)驟(にわ)かに暄(あたた)かなり

人心(じんしん) 新歳月(しんさいげつ)

春意(しゅんい) 旧乾坤(きゅうけんこん)

煙(けむり)は碧(みどり)にして 柳(やなぎ)色(いろ)を回(かえ)し

焼(やけあと)は青(あお)くして 草(くさ)魂(たましい)を返(かえ)す

東風(とうふう) 厚薄(こうはく)無(な)く

例(れい)に随(したが)いて 衡門(こうもん)に到(いた)る

[現代語訳]

余寒に残っていた雪もやっと乾き、

久しぶりに晴れて、日の色がにわかに暖かくなる。

人の気分は、新年とともに新たになり、

春の陽気、天地をもとのとおりにする。

もやは青く、柳が新鮮な緑にもどり、

野焼きの跡は色づき、草が生き返る。

春風は、えこひいきなく吹き渡り、

例年のように、わび住まいのわが家の門にもやってきた。

『漢詩を読む 冬の詩100選』(石川忠久著)より。

(2014年12月15日)


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清末の書家 趙之謙 没後130年の記念展

趙之謙の書画と北魏の書

写真は書道博物館の「趙之謙の書画と北魏の書-悲盦没後130年-」会場風景。2014年7月28日に行われたプレス内覧会で撮影

[text:蓬田修一/photo:宮川由紀子]

東京国立博物館と台東区立書道博物館で「趙之謙の書画と北魏の書-悲盦没後130年-」が、2014年7月29日(火)から2014年9月28日(日)まで開催された。

この展覧会は、東京国立博物館と台東区立書道博物館との連携企画。今回で12回目を迎えるが、回を重ねるごとに充実度が増し、開催を毎年楽しみにしている。

2014年は趙之謙(1892~1884)の没後130年にあたる。それを記念して開催されたのが本展だ。趙之謙は会稽(かいけい 浙江省紹興)に生まれた。家は商売を営み裕福であったが、彼が十代のとき家産が傾き、以降、貧困を余儀なくされる。趙之謙は書画や篆刻で生計を立て、勉学に励んだ。

その後、趙之謙は結婚し子どもにも恵まれたが、太平天国の乱に巻き込まれ、紹興の自宅は焼失し、妻子を失ってしまう。彼は絶望し、自らの号を悲盦(ひあん)と改める。

趙之謙は趙家を復興するため、科挙に及第し高級官僚になることを目指す。北京に赴き試験(会試)を受けるが落第し続ける。42歳のとき、4度目の会試に失敗。高級官僚への道を断念して、地方官として江西省への赴任を決意する。江西の地で政務をこなすが、過労により56歳で生涯を閉じた。

趙之謙は40歳代のとき「北魏書」と称される新しい書法を確立。50歳代になると、それに固執せずにより自然で雄渾な書きぶりを示した。趙之謙の書は日本の書壇にも影響を与え、河井荃廬(かわいせんろ)、西川寧(にしかわやすし)、青山杉雨(あおやまさんう)、小林斗盦(こばやしとあん)らに継承された。

今回の連携企画では、東京国立博物館と台東区立書道博物館の両館に所蔵される趙之謙の書画や篆刻作品をはじめ、趙之謙が若い頃に学んだ作品、北魏時代の拓本などが展示された。作品展示を通して趙之謙の魅力と彼の生涯を感じることができる展覧会だった。

(2014年11月1日)


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